まほらに候 3
やがて、母子の涙声も止んだ。
また様子を見に来るから、と意識の無い雪斗に呼びかけ、坂崎の母子は保護舎を後にした。後ろ髪を引かれている様子だったが、振り切るようにして家路につく。
見送った須桜の肩から、力が抜けるのが分かった。長く息を吐いた彼女は壁にもたれ、そのままずるりとしゃがみ込む。
「寝るなら仮眠室行けよ」
「ううん、ここにいる」
まだ目を離せないから、と須桜は雪斗の横たわる寝台に視線を流した。麻酔が効いているのか、雪斗は一見、穏やかな表情で眠っているように見える。
「須桜」
うとうとしていた須桜だったが、紫呉の呼びかけに、はっと顔を上げた。
「雪斗は頼みましたよ」
「……もちろん」
立ち上がった紫呉を上目に窺う須桜は、何かを言いたげにしていた。だが何も言わずに、戸口へと向かう紫呉の背を眺めていた。
タン、と戸を閉める音が静かに響く。二人は閉ざされた戸を、黙って眺めていた。
須桜は動こうとしない。それどころか、膝を抱えてそのまま眠る体勢だ。
そんな彼女をちらりと見やり、影虎は紫呉の後を追った。戸を閉ざす音がややうるさく響いたが、雪斗の麻酔はまだ切れていない。目を覚ます事はないだろう。
保護舎を出て、辺りを見回した影虎は、大通りへと通じる小路を歩く紫呉の後ろ姿を見つけた。
「おい」
呼びかけるも、紫呉は歩みを止めない。駆け寄る。肩を掴んで引き止めた。
「どこ行くんだよ」
「屯所へ戻ります」
淀む事無く答える声は常の通りに平坦で、まるで感情など抱いていないかのようだった。
「なら俺も戻る」
振り向かぬまま、紫呉は舌を打った。肩を掴む影虎の手を、煩わしげに振り払う。
「放っておいて下さい」
「ほっとけるか」
払われた手で、影虎は再度紫呉の肩を掴む。今度は強く、力を込めて。
どこへ行こうとしているのかは分かっているのだ。ならば尚更、放っておけるわけがなかった。
掴んだ手は、再度振り払われた。触れた手がパンと鳴り、その音の高さに紫呉の拒絶の強さを知る。
「邪魔をするな」
振り返った紫呉が、影虎を睨み上げる。抑揚のない声音には、明確な怒りが滲んでいた。
払われた手がひりついた。紫呉を見おろす影虎は、己の中の苛立ちがさざめくのを妙に客観的に感じていた。
「……ふざけるなよ」
低く呻き、紫呉の胸倉を両手で掴みあげた。息の詰まった紫呉が苦しげな表情を浮かべる。影虎の腕を外そうと紫呉はもがいたが、影虎は軽くそれをいなした。
「ふざけるなよ。邪魔するに決まってんだろうが」
紫呉がどこへ行こうとしているのかは分かっている。
玻璃だ。
行かせてはいけない。もしも紫呉が如月紫呉だとばれでもしたら、戦の火種を生み出してしまう。火種となる事を一番厭っていたのは、紫呉自身だというのに。
そして何より、身柄がばれるということはつまり、紫呉の身に危険が差し迫るという事だ。紫呉が何者かを知る者に捕らえられ、拘束されるという事だ。
そんな危険の渦巻く場へと、送りだせるわけがなかった。
紫呉の爪が腕を引掻く。こちらを強く睨む紫呉を静かに見おろし、影虎は胸倉を絞る手に更に力を込めた。
「……はなせ」
「へえ?」
嘲弄を込め、鼻を鳴らす。
「それは正式なご命令か? ご主人サマ」
睨む視線が、僅かに緩んだ。
「なら俺は尻尾振って従ってやるぜ? なんたって、俺はお前の狗なんだからよ」
唇を歪め、影虎は嗤う。己を嗤っているのか、主を嗤っているのか、自分自身よく分からなかった。
思い出す。今までに紫呉が己に下した正式な命令。
それはただ、死ぬなの一言だ。
六年の昔、紫呉を護ろうとして影虎は足を失った。無くした足元に紫呉は蹲って泣いた。
護らなくて良い。だから死ぬな。命令だ。
紫呉が俯く。ぎりと歯を食いしばる音が聞こえた。
「……奪うと言ったんだ」
低く押し殺した紫呉の声は掠れて、震えていた。影虎の腕に立てた爪が、力無く皮膚を掻く。
「お前は、ただ、待っていろと言うのか? 奪われるのを、黙って見ていろと言うのか?」
絞り出すような声音が痛々しかった。
「……もう嫌だ。僕のせいで、誰かが苦しむのは」
もう嫌なんだ。
吐息に混ぜ込むようにして、紫呉はもろい声を落とした。
更ける夜が重々しく立ち込めている。夏の空気を満たす黒は深く、夜と己の境目を曖昧にする。
掻かれた腕が、ようやく痛みを感じ始めた。ちりちりとした痛みが、どうにも落ち着かない気分にさせてくれた。
ふ、と紫呉が息を抜く。顔を上げた紫呉は、影虎をきつく睨みつけた。
「はなせ影虎」
「はなすかよ」
「はなせ」
「……嫌なんだよ!」
情けないほど、己の声は揺れていた。瞠目する紫呉の肩を掴んで、割れた声を上げる。
「行かせるかよ! 俺がどんだけびびったのか知ってんのか!? ふざけんな、ちくしょう、馬鹿なこと言ってんじゃねえよ……」
思い出す。あれは澪月。慟哭する夜空。鼓膜を打つ雨音。
濡れた紫呉の体。夜闇の中でも分かるほどに真白く血の気の引いた顔。溢れる鮮血。赤い、紅い。
怖かった。死んでいるのかと思った。失うのかと思った。叫びだしたい程に、恐ろしかった。
「……嫌なんだよ。嫌だぜ、俺は。お前が俺の見えない場所で傷ついて、俺の手の届かない場所で血ぃ流して、俺の支えられない場所で苦しむのは」
紫呉の肩口に額を押し当てて、懇願するように言葉を紡ぐ。
なあ紫呉。お前は俺の希望で、俺の絶望で、俺の全てだ。お前は俺の世界そのものだ。
だから、違った場所で果てるなど、許されて良いはずがないんだ。
妙に指先が冷たかった。震えているのだと影虎は気がついた。いっそ笑い出したいような気分だった。
みじめだという自覚はあった。
だが、それでも。
行かせたくはなかったのだ。