まほらに候 18
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荒い呼吸は、やがて笑いに変わった。足を引きずり森を駆け、紫呉は嗄れた声をあげて笑う。
何だ、このザマは。
追って来いと加羅は言った。奪われるのが嫌ならば、己を追って来いと。
だから、追ってきた。失うのが怖くて。奪われるのが恐ろしくて。もう何も、なくしたくなくて。
だというのに、何なのだこのザマは。結局、己は何も成していないではないか。
禍根を残しただけ。ただ、無為に人を死なせただけ。婚儀をひかえた妹が待つ兄を、病がちの兄が待つ弟を、家族の待つ家を持つ者達の、命を奪っただけ。
「……っはは!」
きみは血狂いだと汀は言った。己は否定した。
(嘘をつけ)
何が違うだ。否定など、できるわけもないだろうに。お前はただの血狂いだ。
だって、この背はまだ快感を覚えている。腹の奥の悦を飼い馴らすことも出来ず、体内を巡る熱は今もこの体に宿っている。
荒い呼吸を落としながら、嗤いに喉を震わせながら、足を引きずり歩く。よろめく体を、幹に手をつき支え歩んだ。
足元に落ちる夜闇が、ふっと途切れた。幹を探る手が、空を切る。流れ来る風に、紫呉は顔をあげた。
開けた視界で、夜が波打つ。泳ぐ草の合間に踊る花弁は白く、闇に慣れた目には眩いほどだった。
丘の中ほどでは、あの背の高い樹が夏の風と共に歌っている。ざわと枝葉を揺らし、
まるで誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように、紫呉はふらふらと樹を目指し、歩んだ。急な来訪に驚いて、足元を夏虫が跳ねていく。
下生えに足を取られ、転んだ。受身を取る事もできずに、紫呉はそのまま草の中に顔から突っ込んだ。
ぐしゃりと音がした。腕の下、月見草がひん曲がっている。真っ白だった花弁はひしゃげ、血で赤く汚れていた。茎はよじれ、葉も、散ってしまった。
長く息を吸い、吐く。草の香りがした。それでも纏う血のにおいは消えず、いっそ愉快ですらあった。
体のあちらこちらが痛む。何がどう痛むのかも分からない。痛みに息もうまくできなくて、涙が滲んだ。
痛いと一度認めてしまえば、もう、呑まれて仕方がなかった。痛い。舌も、喉も、手も、腕も、腹も。胸も。
(……戻らないと)
そう思うものの、体が動かない。痛い。痛い。無様だ。みじめだ。愚かだ。痛い。苦しい。重い。潰されてしまいそうだ。
だが、這ってでも、進まなければ。はやく戻らなくてはいけない。これ以上愚行を重ねるわけにはいかない。如月の血に連なる己が、玻璃の地にいたと、そう、八重に報告がいったのなら。里はどうなる。考えたくもない。
ずるずると這う。身の下で草がよじれた。花が潰れた。それでも這った。
手にしたままの牙月に戻れと念じる。だが牙月は紫呉の命を聞きいれない。カタカタと振るえ吼え、まだだもっとと叫んでいる。
ここにはもう誰もいない。斬るべき相手はいないだろう。なのにまだ求めるのか。馬鹿な犬だ。
せめて、と鞘を探る。のろのろと鈍い動きで、牙月を鞘に納めた。
草を掴み、鉛のように重い体を前へと進める。見やった軌跡で、ひしゃげた草花が地面に伏していた。
途端に込み上げる嘔気に耐え切れず、紫呉はえずいた。引いた血の気が、ひやりと背中に落ちていく。
胸糞悪さにえずくものの、胃液すら吐き出せない。腹筋が引き攣れて腹が苦しい。口周りを汚す血液は、体内から溢れたものなのか、誰かのものなのか、それすらも分からない。
身を投げ出すように地面に伏し、痛みをやり過ごす。痛い。どうしようもなく痛くて痛くて、もう、動けない。
汚れた指先に落ちる木陰に、大樹の下まで這い進んでいたのだと知る。土を押し上げ浮かぶ樹の根に、紫呉は頬を寄せた。
遠く、野犬の遠吠えが聞こえたような気がした。このままここにいては喰われてしまう。早く、立ち上がらなければ。
動けと願ったが、指先が微かに震えただけだった。霞む視界で、牙月が揺らぐ。夜に溶けるようにして、姿を変じる。
黒の狼の姿をした牙月が、緋色の眼を光らせてこちらを見ている。牙月の周囲に揺らぐ夜が、まるで陽炎のようであった。
牙月は天を仰ぎ、一声鳴いた。長く尾を引く遠吠えに応え、あちらこちらから遠吠えが響き来る。
その意味を問う力もなく、紫呉は目を閉じた。
草花を吹きぬける風に、大樹は枝葉をかき鳴らす。夏虫が涼やかに音色を奏でる。荒い己の呼吸が耳障りだった。
この丘で、加羅はさよならと言ったのだ。
そうだ、あの時もこんな風に這い蹲って、痛みに呻いていた。
憎かった。悲しかった。痛かった。怖かった。だから、刀を手に取ったんだ。どうあっても手の届かぬ相手と分かりながら、どうしても、赦せなくて。
ただ護られているだけだった弱い自分が、赦せなくて。
そうして得る力は、ただの暴力だと分かっていたけれども。
――私の駒になりなさい。お前の牙に餌を与えてやろう。
伸ばされた兄のその手を、取ると決めたのは己だ。
すがるように、手を伸ばしたのは己だ。
――良いか。黒器を手にするって事は、常に人殺しの道具を持ち歩くって事なんだぞ。その気になりゃあ、いつでもどこでも誰でも殺せるって事なんだぞ。
そうですね、翔兄。あなたは何度も、僕を諌めてくれたのに。
――お前は本当に抗いきれるか? 人の血のにおいに、肉を断つ感触に、その愉悦に抗いきれるのか?
最初は、怖くてたまらなかったんですよ。肉のやわさも、骨の硬さも。
知っているでしょう、ねえ翔兄、怯えて、僕は何度もあなたの懐に逃げ込んだ。
あの怖さを、忘れてはいけないはずだったのに。
――覚えておけ。怒りに呑まれるな、恐怖に呑まれるな、悦楽に呑まれるな。怒りも恐怖も悦楽も捻じ伏せて支配しろ。
ごめんなさい翔兄。僕は、はいと頷いたはずなのに。
まだ、腹の奥で熱が疼いているんですよ。
もっと、って。足りない、って。馬鹿みたいに。
もう、動けないのに。
戦える己で在りたかった。強くなりたかった。己の弱さも捻じ伏せられるほどに、強く在りたかった。
そう、願っていた。
――きみは、彼がどう死ねば、納得するの、かな?
――ぼくもきみも、人殺しである事に変わりはない、でしょ?
ああ、そうだな斉藤。
僕は、己は人殺しだと、認めたつもりでいたよ。
それでも奪った命を背負って、背負い抜いて、這い蹲ってでも生き抜くと。
何回も、何回も何回も、覚悟を重ねて。認められたつもりになっていたよ。
ああ、そうか。お前を恐れた理由が分かった。
お前と同じ彩りが怖かったんだ。
同じ黒を宿したその目が。同じ昂りに濡れるその黒が。同じ熱と戯れるその黒が。
その目に突きつけられてしまうのが。その目に暴かれてしまうのが。
怖かったんだ。
近づく気配にゆるゆると目を開ける。草を踏み分ける獣の息遣いが聞こえた。野犬を従えた牙月の遠吠えが、しじまを裂く。
大樹の枝葉の隙間から夜空が見えた。流れ行く雲の切れ間に、星が光る。大樹の隙間に瞬く星明りがまるで、果実のようだ。
ごぼ、と喉が嫌な音を立てた。口から溢れ出た鮮血が頤を伝い落ち、身の下で潰れ曲がった月見草へと零れていく。
――ドンカを知っているかい、紫呉くん。
いえ、知りません。何ですか?
――ドンカはね、ドングリの精なんだよ。白くてふわふわしてるんだ。掴まえたら、幸せを運んでくれるんだって。
へえ……。加羅は物知りですね。ふわふわ。ふわふわか……。
――でも、掴まえた人はまだ誰もいないんだってさ。だから、おれたちが初めてになろうよ。掴まえて、里のみんなに幸せをあげるんだ。
良いですね! でも、
「……でも、一番目には、加羅にあげます」
獣の気配はすぐそこだ。短く息を弾ませ、野犬は紫呉の顔を覗き込む。
肩を踏まれ、鼻面を押し当てられた。濡れた頬をべろりと舐められる。
「…………腥い」
星空に月は見えない。
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