流動する虚偽 終
*********************************************
終
長屋に着くなり少女は膝を折って崩れた。青い顔で泣きじゃくる少女を、加羅は腕を組んで見おろした。
確か吉村楓という名だったか。楓は頬を伝う涙も拭わず、拓也の名を何度も呼んでいる。
拓也が住まいとしていた長屋である。差し込む月光以外に灯りは無く、濃密な夜の気配がひしめいていた。
ぐす、と洟を啜り上げ、楓は腫れた目で加羅を見上げた。
「……あなたは、何者なの」
最初から楓を連れてくるつもりではあったのだけれども、今更にそれを問うのかと、加羅は少しばかりおかしな気持ちになった。
「瀬川の同僚さ」
「……同、僚」
「そう。以前彼が勤めていた店の」
「そう、なんだ……」
楓の顔から懸念の色が消える。
素直なものだ。もう少し人を疑う事を覚えた方が良いと、騙している本人が心配になる程である。
「でも、……何で、あなたが」
小首を傾げる楓に、加羅は薄く微笑んで言った。
「おれは、きみの復讐に力を貸してあげられるよ」
楓がぱちりと瞬く。大粒の涙が頬を滑り落ちた。
「復、讐」
「そう。彼が憎いだろう? きみの、大切な人を殺した彼が」
「大、切、……な」
楓は呟き、暗い部屋にゆっくりと首を巡らせた。拓也の痕跡を探しているようだった。
そして涙を拭い、ぎりりと音を立て歯を噛みしめた。瞠った目には、色濃い怒りが見てとれる。
「……私は、どうすれば良いの」
低い声で楓は言った。声はもう震えていない。
加羅は片膝をつき、楓に視線を合わせた。
「まずは手紙だ」
「手紙」
「そう。友人や家族、近しい人に別れを告げる手紙を書く」
「別れ……?」
「ああ。友人も家族も全部捨てて、そしておれについて来て欲しい。そうすれば、おれはきみに復讐の場を与えてあげる。きみの手で、瀬川を殺した彼を屠る事だって可能だ」
「……」
「せっかくこれから、二人で幸せを築くつもりだったのにね。もう二度と叶わない。瀬川は戻ってこない」
彼が憎いだろう?
潜めた声で、耳元で囁く。
楓の目から溢れた涙が、床に零れ落ちぽたりと音を立てる。
楓はしゃくりあげた。肩を震わせ咽び泣く。
加羅は楓の涙を指で拭い、立ち上がった。
「瀬川が大切だったんだよね。よく知ってるよ」
楓は頷いた。
「そう、だよ。大切、だった……。今も、今だって」
涙の染みが広がっていく。加羅はそれを見つめていた。
と、裏口をこつりと叩く音がした。
「ここにいて」
楓の肩を軽く叩き、加羅は裏口へと向かう。
長屋の裏には男がいた。戸を閉める加羅に男は一礼する。
男は肩に、拓也の遺骸を担いでいた。逆の手には赤く濡れた小刀が有る。
「瀬川は如何いたしましょうか」
「連れて戻る。先に帰っていてくれ」
「は」
答えるなり、彼の姿は闇に紛れ見えなくなった。
加羅は裏口の戸に背を預け、小さく息を吐いた。月明かりに伸びた己の影をぼんやりと眺める。
「……大切、ね」
足元に転がる小石を爪先で玩ぶ。
加羅は鼻で嗤い、小石を蹴った。
「浅薄な言葉だな」
低く吐き捨てた声を、風が攫った。
夜の瑠璃は、まだ静謐を保っている。
- 【了】
- BACK
- 戻
- NEXT-STORY 哭雨