流動する虚偽 6
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やけにきらきらとした目で見つめられ、影虎は居心地の悪さを感じた。
「えっと……初めまして。影山政虎です。影虎って呼ばれてるんで気軽にそう呼んで下さい」
「初めまして吉村楓です! そのうち瀬川楓になるんで楓って呼んで下さい!」
差し出した手をぎゅっと両手で握られる。楓は何かに気付いたように、目を丸くして首を傾げた。
「失礼だけど影虎さん、お仕事何されてるんですか?」
「治安維持部隊で働いてます」
「ああそれで!」
ぽん、と楓は両手を打ち合わせる。ころころとよく表情の変わる少女だ。
「拓也もね、影虎さんみたいな手してるの」
影虎の掌の皮は、日々の鍛錬のおかげで随分と分厚くなっている。
「ああなるほど……。遅れました、ご結婚おめでとうございます」
「えへへ、ありがとうございますー」
楓は頬を染めて後頭部を掻いた。
「まあ立ち話も何なんで上がってくださーい……って、拓也の家なんだけど。てか何か紗雪静かね。どうかした?」
「いや、何か、緊張しちゃって」
「何でよー」
からからと笑いながら、楓は戸を開いた。
華芸町の奥地、香具師たちの長屋が集まった地域だ。もう少し足を伸ばせば玉骨(玻璃との里境の塀)も見えてくる。
拓也は所用で帰りが少し遅くなるとの事だ。待ち合わせの場には楓の姿しかなかった。
お茶を用意してくる、と楓が席を外した途端に紗雪は頭を抱えた。
「ああああごめんね影虎さんほんっとごめんなさい」
「いや良いよ。何か楽しくなってきたし」
「うう……」
「まあ少しばかし気が引けるなあ。あんなきらきらした顔されたら」
「それよ……。ほんとそれ……」
「いっそのことマジで恋人になっちゃう?」
「え」
「嘘ウソ。俺は好みじゃないって知ってるよ。俺も紫呉の友達に手ぇ出す気無いし」
「からかわないでよ……」
「っはは、肩の力抜けたろ?」
「ううう……」
楓の足音が近づいてくる。紗雪は身を起こして、乱れた髪を手櫛で整えた。
「お待たせしましたー。お茶どうぞ」
「どうも」
礼を述べてお茶をすする。うん、良い温度だ。良い嫁になるだろう。
紗雪はぎくしゃくとした動作でお茶をすすった。楓はお盆を抱えて、じっとこちらに視線を注いでいる。
何だ、と首を傾げて目で問えば、楓は実に楽しそうに笑った。
「えっとー、二人がくっついた経緯とか聞いちゃっても良いですかー?」
紗雪が咽る。
「いや、それは……っ」
咳き込みながら、慌てて紗雪は首を振った。
「何でよー。教えてよケチ」
「いや、ケチって言うか……その……」
紗雪は髪と同じくらい赤い顔をして、助けを請うようにこちらを見上げた。涙の浮かんだ目に悪戯の虫が首を擡げる。
「……照れてんだよな?」
紗雪の髪に指を絡ませ低めた声で耳元に囁けば、紗雪はぎゃっと叫んで影虎を突き飛ばした。
初な反応に影虎はくつくつと肩を揺らす。
「やだもう羨ましいー。あー良いなーそういう新鮮な感じー」
ばしばしと紗雪の肩を叩き楓は笑う。紗雪は耳を押さえ、されるがままに叩かれていた。
と、からりと玄関の戸が開く音がした。
「あ、拓也帰ってきたかも。ちょっと見てくるね」
ぱたぱたと楓の足音が遠ざかっていく。
紗雪は顔をあげ、きっと影虎を睨んだ。その視線を受け止め、影虎はにたりと笑う。
「紗雪ちゃんて耳弱ぇの?」
「な、し、知らないわよそんなの!」
「あー良いねーそういう反応。新鮮新鮮」
「もー……私で遊ぶの止めてよ……」
紗雪は疲れた顔でぐたりと項垂れた。
「ま、あれで楓ちゃんも信じたっつーか、疑わないだろ」
「うう……そうかもだけど……」
紗雪は何やらぶつぶつと口の中で呟いている。だが不服げに寄せられていた眉はやがて緩み、ありがとうと苦笑交じりに呟いた。
「っはは、どーも」
「まあ……元はと言えば私の所為だしね……」
紗雪は自分を戒めるように数回頭を叩いた。
紗雪のとまどいは、友人を騙してしまっているという事に罪悪を感じている事が原因だろう。微笑ましく思う。その真面目さを好ましく思った。
優しい少女だ。こんな些細な嘘に振り回されるようでは、人を騙すには向かない。
影虎はふと掌を見つめ、先程の楓の言葉を反芻した。
『拓也もね、影虎さんみたいな手してるの』
二人分の足音がこちらに近づいている。一つは軽やかな楓の足音。もう一つは緊張を含んだ重い足音。
「ごめんなさい、お待たせしましたー」
座布団を用意する楓を横目に、影虎は拓也を見上げた。
年は二十五、六だろうか。背が高い。地味な色の袷に包まれた身体は衣類の上からでも、鍛え抜かれている事が十分に分かる。
痛んだ茶色の髪に鋭い眼差し。よく日に焼けた肌。右の眉尻から顎下にかけて傷痕が残っていた。刃で裂かれた痕だ。
拓也は影虎に視線を据え、小さく頭を下げた。眼差しには警戒と不審が宿っている。
影虎はその視線に気付かぬフリで朗らかに笑った。
「どうも、こんにちは」
座布団に腰を落ち着けた拓也に右手を差し出す。拓也は影虎の右手を見つめ、それから、笑みを浮かべる影虎の顔へと視線を滑らせた。
ゆっくりと差し出された手を強く握る。拓也の視線の不審な色が更に色濃くなった。
「どうも、影山政虎です。治安維持部隊で働いてます」
問われる前に告げれば、拓也は僅かに肩を揺らした。
「緊張しなくても民間人を捕縛とかしませんよ」
冗談めかして、何も分かっていないフリで笑う。拓也は何も言わずに頷いただけだった。
「ごめんなさい、拓也ってば無口で。ね、拓也、こないだ言ってた二人だよ」
楓の声に合わせて紗雪はぺこりと頭を下げた。拓也も軽く会釈する。
「ところで拓也さんは何のお仕事を?」
純粋な好奇心を装い首を傾げる。
「……それは…………」
低い声だ。じっと見つめ先を促がす。
「……えっとね、拓也は前まで働いてたお店を辞めさせられちゃって、今は日雇いの仕事してるんです。ね?」
「……ああ」
「もう、お客様なんだからもっと愛想良くしようよ」
「……ああ」
「もう……っ」
頬を膨らませる楓だ。しかし拓也に注がれる視線は優しく、慈愛に満ちたものだった。
拓也は茶を飲み干し、楓に向かって無言で湯飲みを差し出す。楓は何も言わずに茶を注いだ。
自然なやりとりだった。何度も何度も繰り返し、これが二人の当たり前になったのだろうと思う。
鍛え抜かれた身体、頬の傷、掌の硬さ。不審に思う事はたくさん有る。が、楓は全てに納得済みのようだ。ならば自分が口を出す事ではない。
もし拓也が何か怪しい事に従事しており楓が騙されているなど有りでもしたら、流れ流れて紫呉が嘆く事になる。
拓也は紗雪の友人の伴侶。拓也に何か有れば楓は嘆く、楓が嘆けば紗雪が嘆く、紗雪が嘆けば紫呉が嘆く。それは避けたかった。
が、取り越し苦労だったようだ。影虎は緊張を解いた。それに気付いたのか拓也も警戒を解いた。
(……気付くって事は、やっぱおかしいんだけどな)
楓も紗雪も影虎の緊張状態には気付いていない。察していたのは拓也だけだ。
「……あの、日雇いのお仕事ってやっぱりしんどいんですよね?」
おずおずと紗雪が尋ねた。
「……ああ」
「あ、と、すみません。あの、兄が日雇いの仕事たまにしてて、しんどいしんどいって愚痴ってるものだから」
「あはは、ごめんごめん紗雪。別に拓也怒ってないから。ね?」
「……ああ」
「いっつもこんななんだよ。だからよく誤解されちゃうんだけど。でも私は拓也が優しいって分かってるからねー?」
「…………ああ」
楓は拓也の顔を覗き込む。拓也はすっと視線をそらした。
「やーだもう、照れちゃってー」
けらけら笑って楓は拓也の肩をばしばしと叩く。
「もう、惚気ないでよ」
「さっきのお返しだもんねーだ」
「さっき? ……って、ああ、うん、……そう……」
紗雪は赤い顔をして俯いた。楓はからかうように紗雪の肩を小突く。
「拓也ね、今は闘技場で働いてるんだよ」
「闘技場?」
きょとんとした顔で紗雪は首を傾げた。楓は首肯し拓也の顔を覗き込む。拓也が何も言わないのを悟ると、こちらに向き直って言葉を続けた。
「最近近くにできたの。言ってみればまあ、堵場なんだけどね」
そこまで言って楓は、あ、と口を押さえて影虎を上目に窺う。
「……もしかして違法だったりしますか?」
闘技場の事は影虎も知っている。紫呉が先日話していたし、自分も耳に挟んだ事があった。
「いや、そんな事はないですよ。ま、華芸町やら愛染街やらは無法の法みたいなもんなんで」
安心して下さいと告げると、楓はほっと肩の力を抜いた。
この二区に関しては里も黙認している状態だ。全てを取り締まる事は到底無理である。だからと言って放置するわけにも行かず、表面上は壱班が介入、取り締まりを行っている。
しかし裏では二区の上層部と繋がりが有り、お互いに目を瞑りあっている状態である。
「それでね。拓也はそこの闘士なんだー。ね?」
「……ああ」
「それはそれは。大変でしょうね」
「……あの、闘士って?」
影虎の袖を軽く引っ張り、紗雪は小声で聞いた。
「えっとな、……説明するとなると難しいな」
まず客は木戸で入場料を払う。引き換えに番号札を貰う。闘士と闘士を争わせ勝敗を決する。賭ける際に金と共に番号札を渡し、自分の賭けた闘士が勝てば率に合わせて金が戻ってくる。負ければ金は没収だ。
「まあ、双六とか花札とかの博打と似た感じかな。争うのが采やら札じゃなくて人ってだけで。んで、その人ってのが闘士だ。……ああ、闘犬とか闘鶏が一番似てるかな」
なるほど、と紗雪は頷いた。そして気遣わしげに拓也の顔の傷を見やる。
「……お気遣いなく」
その視線に気付いた拓也が、低く小さな声でぼそりと呟いた。
「拓也ね、闘士の本命なんだよ!」
自慢げに笑い、楓は拓也の腕に己の腕を絡めた。拓也は僅かに眉を顰めたが、結局は好きにさせている。
「私もたまに観に行くんだけど、拓也すごいんだから! 今まで全然負けた事無いしー、飛び入りの闘士とかにも絶対負けないしー。ね?」
「……ああ」
楓は拓也の逞しい腕にぐりぐりと額を押し付けた。これには流石に拓也も身じろぎ、軽く楓の身体を押し返す。不満げな楓に人前だと呟けば、楓は満面の笑みを浮かべた。
微笑ましい光景だ。幸せそうな彼らに自然こちらの頬も緩む。
(……けど)
闘技場ができたのはここ最近の事。当初から拓也がそこの闘士を勤めているとしてもおかしい。
(あの手)
あの掌の硬さ。あれは一朝一夕で得られるものではない。影虎のこの手は生まれて二十一年、闘争に従事して得たものだ。
拓也は何かを楓に呟き、ほとんど無表情と変わらぬ笑みを浮かべた。楓は頬を赤く染め、ばしばしと拓也の肩を叩いている。
影虎は少し温くなったお茶で、乾いた唇を湿らせた。
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