流動する虚偽 14
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四
垣越しに拓也は段上を見つめた。
あの男は先日会った男だ。確か、治安維持部隊に所属していると言っていたか。
だとすると瑠璃の力を侮れない。あれほどの実力者を配するとは。
足元に長く伸びてきた影に、拓也は顔を上げた。
「やあ。出番はまだかい?」
僅かに茜を含み始めた午後の日差しを受け、加羅の蜜色の髪が美しく煌く。
「そろそろだよね、この時間だし」
と、加羅は空を見上げた。
拓也が段上へと向かうのはいつもだいたいこの時間だ。場を閉める直前、空が赤く染まり始める直前のこの時間。
垣の裏に控える娘が、ちらりちらりと横目で加羅を窺っている。頬が僅かに赤いのは、夕日の所為ではないだろう。
娘だけではない。小僧や闘士たちまでもが横目で加羅を窺っている。男たちは躊躇いがちに、眩しそうに彼を見ている。
だがその視線は、決して欲を纏った下衆い物ではない。
あれは畏れだ。自分ごときが視線を向けても良いのかと畏れつつ、それでも姿を視界に入れたいと思わせる何かが加羅には有る。
「…………、何故ここに」
若君、と呼びかけそうになり、拓也はそれを視線で封じられ、声と共にごくりと唾液を飲み込んだ。
畏まる拓也を見て、加羅は笑みを深める。
「きみの勇姿を見に来たのさ」
「……それは、……恐れ入ります」
その言葉の裏の意味を探ろうとはせずに、拓也はただ礼を述べた。加羅の紅緋の瞳が、賢明な判断だと述べている。
いや、彼の本意はいつも笑みに隠れて見えないから、ただの拓也の疑心なのかもしれない。本当に拓也の様子を窺いに来ただけかもしれない。分からない。
まごつく拓也を尻目に、加羅は拓也の肩越しにひょいと段上を覗いた。
ひゅ、と息を呑む音が聞こえた。
疑問符と共に、拓也は加羅の横顔を覗き見る。
見開かれた切れ長の目は、段上の二人を捉えていた。喉仏がこくりと上下する。
加羅は小さく息を吐き、目を閉じた。ゆっくりと目を開く。その時には既に、常と同じ感情の全てを覆う笑みが有った。
「それじゃあおれは、舞台を作りに行くとしようかな」
「……舞台、ですか」
「うん。気をつけた方が良いかもね」
何をだ、と拓也が問う前に加羅は空を指差した。
「雨が降るかもしれないからさ」
空には雲ひとつ無い。
拓也は首を傾げた。
加羅はもう一度段上を睥睨し、ひらりと身を翻した。
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辺りには火薬の臭いが立ち込めている。濛々たる砂塵と煙に身を隠し、須桜は近くの幹に背を預けて息を殺した。
右の腕を苦無で傷つけられた。爆発に紛れて、何とか結紐を奪われずに逃げたものの、見つかるのも時間の問題だ。須桜の来た道には点々と血痕が残っている。
幹から背は離さずに、ずるりとしゃがむ。紅の棍へと変じさせた紅雫を抱えたまま、懐から取りだした止血帯で手早く腕を括った。
止血剤を塗りこみ、煙幕の消えぬうちに少しでも影亮から遠ざかる。走る須桜の後を手裏剣が追う。
見つかってしまったか。軽く舌を打つ。
須桜は走りながらちらりと空を見る。空は茜に染まり始めていた。
期限は日が落ちるまで。それまでにどちらかが髪飾りを奪えば勝ち、との取り決めだった。
端から勝ちは狙っていない。影亮相手にそれは無謀な話。せめて引き分けに持って行けたらと思っていたが、どうやらそれも無理そうだ。背後に迫る気配は徐々に濃くなりつつ有る。
ならば、と止血帯を解く。見つかっているならばこれはもう不要。解いた帯を咥え、須桜は足を止めた。
逃げ切れぬなら向かってやる。零に近い可能性に賭け、須桜は棍を構えた。
影亮が跳ぶ。苦無での一撃を棍で受ける。腕に走る痛みに眉を顰める。
それを影亮は見逃さない。右腕を蹴られ、棍は須桜の手から離れた。
影亮の手が須桜の髪に伸びる。首を捻って躱し、その手に止血帯を巻きつける。
逃げられぬよう帯を絞って距離を縮め、影亮の後頭部へと手を伸ばした。
が、しゅるりと結紐を解かれる音に須桜は手を下ろす。
「残念でした」
悠然と微笑む影亮に、須桜は脱力してもたれかかった。須桜を抱き止め、影亮はぽんぽんと背中を叩いてくれる。
「……あー……悔しいー……」
「ふふ、ごめんなさいね」
唸りながら影亮から離れ、須桜は落ちた紅雫を拾い上げた。数珠に変じさせて手首に収める。
影亮は腕に巻きついた止血帯を解いている。頬が煤けていた。僅かに毛先が焦げている。
それは須桜も同じ事だった。頬は汚れ、毛先が少しばかり焦げている。先程須桜が起こした爆発の所為だ。
それにしても、と影亮は汚れた頬を拭いながら苦笑した。
「随分隠れるのが上手くなったわね。中々苦労したわ」
「本当?」
「ええ」
「……えっへへ、やったぁ」
須桜の頬が緩む。影亮は滅多な事では嘘を吐かない。その彼女が言うなら本当なのだろう。
綺麗に纏めた止血帯を須桜に手渡し、影亮は須桜の手を取った。影亮に蹴られた腕は赤く腫れていた。
「……折れてはいないわね」
「だって手加減してくれたでしょ?」
影亮がその気になれば、須桜の腕を折るなど容易い。腕の傷だって、手加減してくれたからこれくらいで済んでいるのだ。斬り落とす事も出来ただろうに。
「ありがとうございます、付き合ってくれて」
おかげで、青生特製の新火薬も試す事が出来た。
「どういたしまして」
優しく微笑む影亮の表情が、ふと曇る。
「影亮さん?」
袂で汚れた頬を拭われた。
「……あの子の為に、あなたがここまでする必要が有るの?」
影亮は須桜の背後に回った。焦げた髪を苦無で整えてくれる。
「須桜は御影。戦うためじゃなく、癒す為に在るのに。……なのに何故、戦うの」
髪を梳かれる。影亮はいつも須桜がしている様に、高い位置で一つに纏めて結った。
「……紫呉の為じゃなくて、あたしの為だから」
御影の女の血は治癒の効果を持つ。だがしかし、それでは彼が傷を負った時にしか役に立てない。
そんな事、まっぴら御免だ。だからこれは我儘。彼の力になりたいという、須桜の我儘だ。
「そう……」
吐息交じりの影亮の声に、彼女の心情は見えなかった。
「はい、これで完成」
「……ありがとうございます」
ぽん、と軽く肩を叩かれる。須桜がするよりも、格段に綺麗に髪を結ってくれた。左右対称な蝶結びに「おお」と感嘆の声を上げる。
ざかざかと荒い足音が近くを徘徊している。二人は揃って顔を上げた。
「ここに居たか影亮赤官が夜間演習の準備をそろそろ始めるそうだぞ」
薬箱片手に、青生が小走りにこちらに駆け寄ってくる。
珍しい事もあるものだ。久しぶりに、陽光の下で青生を見た気がする。
少しばかり息を弾ませた青生は、須桜の姿を目にして首を傾げた。
「何だ須桜まだいたのか今日戻るとか言っていなかったか」
「戻るわよ。そろそろ紫呉不足だもん」
近況報告の手紙は届いているが、やはりそろそろ本人に会いたい。字や足袋だけでは物足りない。
「てか何で兄貴がここに……って言うより、外にいるの」
青生はにたりと笑い、手にした薬箱を前面に掲げた。
「聞くまでも無い演習となれば青生の新薬を試す絶好の機会だろうが」
ふと青生は須桜の腕に目を留め、それはそれは嬉しげに笑った。
「怪我をしているな青生が診てやろう!」
驚くほどの瞬発力でがっしりと腕を掴まれ、須桜は逃げる間も無く青生に捕らえられた。
「痛い痛い痛い! 痛いってばもう!!」
「安心しろこれからもっと痛くなるそんな痛みなどすぐに忘れる!」
「安心できるかあああ!!」
ごつりと脳天に拳を落とされ、青生はぎゃっと叫んだ。
「痛いだろうがハゲ亮!!」
「それじゃあね、須桜。私は赤官の手伝いに行ってくるわ」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「聞いているのかハゲ亮無視するな!!」
「聞きたくないのよ」
手を振る影亮に会釈して、須桜はぶつぶつと不満を零す青生を半眼で見やった。ふんと鼻で笑う。
「影亮さんに比べて兄貴は子供ねぇ」
「何を言う影亮がオバサン臭いだけだ青生は普通だ」
「兄貴が普通の基準だったら、世の中おかしな事になるわよ」
「やかましいぞ馬鹿妹が」
「い……っ!!」
傷口に真水を乱暴にぶっかけられ、須桜は悲鳴を飲み込んだ。歯を食いしばって痛みに耐える。
「しかし相変わらず解せんな何故お前が戦闘訓練を積む」
「……さっきそれ影亮さんにも言われた」
水を拭い、青生は傷口に手早く軟膏を塗りこんだ。
おや、と須桜は瞠目する。青生の薬にしては沁みない。
腫れた箇所に別の軟膏を塗りつつ、青生は鼻で笑い飛ばした。
「は、そりゃあそうだ身の程を知れという事だいくら御影が足掻こうと草薙には及ばん邪魔にしかならん弁えろ馬鹿者」
反論の言葉を須桜は探す。だが何も思い浮かばない。
青生の言う通りだ。くるくると腕に巻かれる包帯を、須桜は無言で眺めた。
この怪我だって、影亮の攻撃を咄嗟に防いだ故だ。致命傷を得るよりは、と思っての事だったが、それならばせめて利き腕ではない左手を使うべきだった。
実戦訓練を積んで久しいが、それでもやはり咄嗟の判断はまだまだだ。
「青生には及ばんがお前の医療技術は中々のものだ治癒の血も有るのだから後方支援に徹すれば良いだろうが」
「……その血が、万能だったらそうするわよ」
御影の女の血が治癒の効能を持つと言えど、それは決して万能ではない。傷の治りを多少援ける程度のものだ。
死に向かう人間を、救えた例は一度たりとて無い。
上目にこちらを覗く青生から、須桜は視線を逸らした。
「…………まあ一番弁えるべきは紫呉だがな己の身分も弁えず何故渦中に飛び込むのだ馬鹿だ馬鹿としか思えん」
む、と須桜は口を尖らせる。反論しようと口を開いた須桜を、青生は遮って言った。
「だが愚かではないと青生は思う」
びしりと眉間を爪で弾かれた。
「お前も紫呉もだ」
青生は立ち上がり、背を向けて歩き出す。
弾かれた眉間を押さえ、須桜は兄の背中をぱちくりと見つめた。
立ち上がり、青生の背を追う。須桜は笑いながら青生の隣に並んだ。
「……何だ何を笑っている気味の悪い」
「別にー。……もうすぐ紫呉に会えるんだー、って思ったらにやけてきちゃっただけ」
という事にしておく(それも確かに事実だが)。
青生は薬箱を抱え直し、半眼で須桜を見やった。
「全く理解出来んな奴の何がそんなに良いのだ」
「何がって言われてもねえ……。紫呉だったら何だって良いのよ」
「……は、狂信者め」
「良いわね、それ」
「…………前言を撤回しよう」
と、青生は須桜の後頭部を叩いた。
「やはりお前は愚かだ」
溜息混じりに言って、青生は歩調を速めた。首を傾げる須桜だ。
が、右の腕に違和を感じ、すぐにその意味を理解した。
腕を押さえ、すでに随分前を行く青生を恨みがましく睨む。
「わはははは時間差攻撃だ油断したな馬鹿め!」
「……っこの……っアホ兄貴……っ!」
じんじんと痛みを訴える右腕に涙が滲む。
何が攻撃だ。治療=攻撃の式なんて、普通は成り得ないだろう。
高笑いと共に青生が走り去る。
声にならぬ悲鳴を堪え、須桜は兄の薄汚れた背を涙目で睨みつけた。
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