流動する虚偽 13
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ぞくりと肌が泡立った。
(この目だ)
じっとこちらを見据える紫呉の目。まるで黒い炎のようだ。
斬撃を受け止める。腕がしびれた。
間近に黒い瞳がある。捕食者の目だ。戦地で見る紫呉の目だ。
本来なら自分に向けられる事の無い視線が、今自分に向けられている。
明確な殺意が肌を刺す。
影虎は刃を弾き返した。
(相手が俺でも一緒か)
なるほどね、と唇を舐める。
生命の危機に晒された紫呉は本能に従順だ。飼い馴らしきれぬ野生そのままに命を喰らう。
そう遠くない昔、刃を手にした紫呉をまるで餓狼のようだと笑った人は、お前は猛虎みてえだけどなと影虎を笑った。
そりゃ名前の所為でしょうと笑った影虎を彼は笑って、そうでもねえよとやはり笑った。
かつては当たり前のように側にいて、今はもう、当たり前のように側にいない人だ。
胸元を狙って突きが繰り出される。横に避けた影虎を追って、返し刀で下から斬り上げられた。
背を反らし避け、しゃがみ、足を払う。紫呉が跳んだ。影虎の肩に手をつき、くるりと宙を舞った。
自重と重力と勢いを味方につけ、紫呉は上段から刀を振り下ろす。
受け止めたものの力を殺しきれず、影虎は眉を顰めた。腕だけではなく肩口まで痺れが走る。
そんな影虎を見て、紫呉は唇を歪める。とん、と軽く地に下りるなり、顔を目がけて蹴りが襲い掛かってきた。
(瞳孔閉めろよ)
顔怖いっつーの。
心中で苦笑した。
すでに理性など焼き切れているのだろう。自分に害を成す存在を排除する、ただその思いしか無いのだろう。
幼い頃、失った影虎の足元に蹲って紫呉は泣いた。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返し嗚咽を零した。
護らなくて良い、だから死ぬなと泣いた子供が今、自分を殺そうとしている。
「……ははっ!」
頼もしい事だ。
それでこそ、安心して戦地に送り出せるというもの。
(けど負けねえよ?)
すんでの所で躱した刃が眼前を通り過ぎる。前髪を僅かに掠め、チ、と音を立てた。
突きを繰り出す腕を取って絡める。うつ伏せに地に倒し、腕を背に回させて体重をかけた。紫呉の関節がぎしりと悲鳴をあげる。
こちらを睨む目は刃のように鋭い。
紫呉は空いた手を自分の腹の下に潜りこませた。
腕が腹の下から現れると同時、影虎の顔目がけて小石が飛んでくる。
反射的に避けてしまった。その隙に紫呉は影虎の腕から逃れ、落とした打刀を拾い上げた。
紫呉は舌を打ち、ぐるりと腕を回した。
舌打ちをしたいのは影虎とて同じだ。顔目がけて飛んできた小石を、咄嗟に避けてしまった。
小石だと認識はしていた。当たったとて致命傷にはならないとも分かっていた。
だが判断を間違えた。手を離すべきではなかった。
(俺もまだまだだな)
爪先で軽く地面を二度叩き、地面を蹴る。距離を詰め真横に斬る。
負けてなるものか。
自分は草薙だ。戦い護るために生まれた。だと言うのに、護るべき主に負けたとなっては話にならない。
存在意義がどうこうという話ではない。単に矜持の問題だ。主に、しかも年下の男に負けるなど己の矜持が許さない。
下段から斬り上げられる。それを受け止め弾き返す。反撃される前にこちらから攻撃する。
幼い頃の姉は己の身を嘆いていた。何故自分は草薙なのだ。何故自分は『影』なのだ。決して涙を流す事無く、嘆いていた。
ここ十年ほどは、もうどうでも良いと諦めているようだった。逃げられぬなら受け止めるまでと、達観した素振りだ。本心はどうだか知れない。
何故自分は『影』なのか。影虎も考えた事が無いわけでは無い。
草薙は主の為に生き、そして死ぬ。戦いの中に名を残す事は無い。屍を残す事も無い。
だがそれでも構わない。己の名も存在も、主が覚えているのならそれで良い。逃げられぬなら飼い馴らされるまでだ。
欲を言うなら、飼い殺して欲しい。逃げたいなどと、微塵も思わせぬ程に。
喉仏目がけて突きを入れる。避けられる。影虎は打刀を手離し落とし、手指を紫呉の喉に食い込ませた。
紫呉が大きく目を見開く。
影虎は刀を手にする紫呉の腕を蹴り上げた。からんと虚しい音をたて、打刀が段上に転がる。
影虎を睨む紫呉の白目が、赤く充血している。
どくどくと紫呉の喉が脈を打っている。
腕に爪を立てられる。
掌の皮膚ごしに彼の熱を感じる。
思わず影虎は笑った。
こいつは生きているのだと思った。紫呉の熱越しに、己の生を感じた。
紫呉は影虎の腕を両手で掴んだ。影虎の腕を支柱にして体を持ち上げる。
ぐらついた影虎の腹に、鋭い蹴りがめり込んだ。
蹴りを反動にして紫呉は宙で後転した。降り立ち打刀を拾い上げる。影虎も刀を拾い、紫呉の斬撃を受け止めた。
鍔迫り合いながら、互いに大きく咳き込む。それでもやはり、互いに込める力は緩めない。
草薙からの、如月からの逃亡は望んでいない。
望むのは支配だ。諦念の余地の無いほどの檻と首輪で繋いでいて欲しい。
黒く燃える紫呉の目の中に己の姿が見えた。
影虎は確かな充足を感じた。
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