流動する虚偽 11
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影虎は腕を組み段上を眺める。
紫呉は男の拳を受け止め、腕を絡めるようにして男を投げ飛ばした。
彼は普段そんな攻撃を滅多にしない。相手の力を利用し、受け流す拳闘は影虎が得意としている型だ。
(遊んでやがる)
性格悪ぃでやんの、と影虎は呆れた。
昔は可愛かったのにな、などとつまらぬ事を考えた。いったいどこでどう育て方を間違え、今の彼になってしまったのか。
幼い頃影虎は、紫呉が生まれてくるのを心待ちにしていた。何しろ周囲は自分より年上の者ばかり。姉にいびり倒され、青生にいびり倒され、由月にいびり倒されの毎日だったのだ。
ちなみに由月が一番ひどかったように思う。このまま父上と母上に子が無ければ、お前は用無しだ、余り者だと何度いびられた事か。
だから自分より年下の者が生まれたら、絶対にいびり倒してやると思っていた。
しかし数年遅れて生まれてきた須桜をからかって遊んでいると、女の子に優しくできないなんて最低だと姉に罵られた。
姉には口喧嘩では勝てない。悔しさを飲み込み、影亮の目の届かぬところで須桜をいじめて憂さを晴らしていた(しかし何故かバレてこっぴどく叱られた)。
おかげで、幼い頃は女の子が嫌いだった。これでもし如月の子までが女児だったら、俺の人生終わった絶望だとすら思っていた。
なので、如月の二子が男児だと知った時は嬉しくて仕方がなかった。
紫呉を初めて腕に抱いた時を覚えている。ぐんにゃりと柔らかく頼りなく、赤くて不細工だった。
腕の中の赤子を見つめ、これからどうやっていじめてやろう、どうやってからかって遊んでやろう。そんな事を考えて心を躍らせていた。
これが己の主だ、庇護すべき存在なのだという自覚よりも、いじめる相手が出来た喜びの方が勝っていた。
眠る須桜をおんぶ紐で固定して背負った青生は、影虎の腕の中を覗き込み、大きな目をきらきら輝かせてこう言った。
『生まれたての赤子でも腹を開けば大人と同じものが詰まっているのだろうか?』
途端にべえべえと泣き出す赤子を抱き、護らねばならぬと、そう強く感じたのを覚えている。
(……早ぇもんだなあ……)
段上で暴れる紫呉を見やり、影虎は十五年という月日の速さに思いを馳せた。
自分の後ろをちょろちょろとついてまわっていた子供が、今や屈強な男をからかって遊んでいる。
紫呉は自分が得意とする型をあえて用いずに、男相手に普段は使わぬ型を試している。
本来彼は、直線的な攻撃を得意としている。遠当ては素早く、重く速い。線は読みやすいが、読めたとしても避けるのは困難だ。
先程から紫呉は、ギリギリのところで攻撃を避けている。その度に場内にはざわめきが満ちる。どうやら彼は、この場をとことん遊びつくすつもりらしい。
今度は取った腕を捻った。男が声を上げる。
関節技は須桜が得意としている。力で男に劣る彼女は、小柄な身体を活かし懐に潜り込み、防御の効かぬ身の内を痛めつけるのが得意だ。
紫呉が腕を離すと、男はほっとした様に息を吐いて紫呉から距離を取った。だが紫呉はそれを追おうともしない。荒い呼吸で自分を睨む男に、何か一言二言囁いた。
男はかっと頬を赤く染め、落とした打刀を拾い突きを繰り出す。紫呉は何食わぬ顔でそれを避けた。
くい、と袖を引かれる。紗雪が不安に眉を顰めていた。
「ね、ねえねえ影虎さん、お金全部賭けちゃって良かったの?」
「おー。この機会に稼がせてもらおっかなーと思ってさ。あいつが負けるとか絶対ありえねえし」
「あれ? あの人お知り合いなんだ?」
「そ。同僚だよ」
「そうなんだぁ。若いのにすごいねー」
賭けて良かったー、と楓は瞳を輝かせた。
ギン、と鈍い音がした。ようやく紫呉は抜刀した。男の刃を紫呉は眼前で受け止めている。
しかし、汗一つかいていない涼しい顔は相変わらずだ。身の危険を感じたわけではなく、そろそろ男を負かしにかかるつもりなのだろう。
男の刃を弾き返す。男の側頭部を狙う。受け止められた。大きく踏み込み懐に入る。肘で男の顎を跳ね上げた。
次いで柄を腹にねじ込んだ。男が呻く。身体を丸めた男の首筋に刃を滑らせる。
口上役が男に是か否かを問うている。男は首元の刃を掴み、己の首から刀をどけさせた。是だと叫ぶ。
紫呉の目に楽しげな光が浮かぶ。楽しげと言うには随分に加虐的な色ではあるが。
男の口元が血で汚れていた。先程顎に肘を打ち込まれた時に、舌を噛んだのだろう。
その血を肩口で拭い、紫呉に向かう。男は隙まみれだ。だが紫呉はその隙を狙わず、わざと自分に隙を作っている。
(……楽しんでやがる)
紫呉の黒い瞳は欄と輝き、薄い唇には僅かに笑みが携えられている。
楽しげで何よりだ。随分と趣味の悪い楽しみ方だが。
しかし気持ちは分からないでもない。これは普段の戦闘とは違い、賭けるものは命ではない。金と矜持のみだ。
己の命を奪われる心配もない、相手の命を奪い背負う覚悟もいらない。ただ力と力をぶつけ合う。
自分の持つ力と技とを相手にぶつける。相手の熱を感じる。それが自分の熱に変わる。
夢中になる。さあ次はどうくるか。どうするか。相手の敵意が心地良い。意識して攻撃を加えるのが楽しい。
影虎は腹の底に熱を感じた。
これは戦意だ。
(落ち着けよ)
自分の熱に誘われたのか、左手首の清姫までもが昂っている。息を細く長く吐いて心を鎮める。
だが羨望は消えない。
戦いたい。
紫呉の気勢を向けられているあの男に、影虎は羨望を感じていた。何故あの場で対峙しているのが自分ではないのかとすら思う。
男に向けられる嘲弄や敵意。それらを自分の物にしてみたい。普段は向けられる事の無いその視線を浴びてみたい。
道場で対する事は有る。しかしそこに敵意は無い。勝敗も無い。
一度彼と敵として対して見たかった。己の臣下が敵として眼前に現れた際、彼はいったいどんな色を見せるのだろうか。
もし自分が敵意を向けたら? 殺意を向けたら? いったいどんな反応をしてくれるのだろう。
(趣味悪ぃ)
これでは紫呉の性格をとやかく言えない。だが興味は尽きない。
だん、と大きく踏み込む音がした。場内がざわめく。
紫呉は男の眉間に切っ先を突きつけている。
「続けますか?」
「あ、当たり前だろうが! まだ、まだまだだ! 俺はこんなもんじゃねえ!」
紫呉はふと笑みを漏らすと、切っ先で男の眉間を突いた。男はぐらりと傾いで尻餅をつく。
「そういうの、何て言うか知ってますか?」
「…………は」
「負け犬の遠吠え」
紫呉はゆっくりと切っ先を滑らし、男の喉で刃を止めた。ぐ、と肉に刃先を食い込ませると、男は糸が切れたかのようにぐったりと弛緩した。
口上役が勝敗を告げる。
嵐のような怒号が飛び交う。場内ほとんどが男に賭けていたのだろう。悄然と垣の向こうへ消える男に、石やら塵やらが投げつけられる。
ざわめきの中、紫呉がこちらを向く。
熱を宿した黒い眼がゆっくりと伏せられる。薄い唇にうすらと笑みを浮かべる。こちらに来いと指先でさしまねく。
ざわりと熱が膨れ上がった。
身が震える。
知らぬ間に、随分と誘い方が上手くなったものだ。