哭雨 5
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二
雨は昼下がりにやみ、雲間から光が差し込んだ。生ぬるい風が雲を散らし、青空が覗く。
随分久方ぶりに青空を見るような気がした。加羅は手庇を作って空を見上げた。午後の陽を受けて、手首の瑠璃の数珠が煌いた。
青空には虹が見える。
瑠璃の里は祭りの準備で賑わっていた。
立ち並んだ屋台は、祭り当日に向けて仕入れに大忙しだ。日雇いの人足は、奉納舞を捧げる舞台や櫓の設営に取り掛かっている。
「わぷ」
どん、と腰の辺りに衝撃が走ると共に、幼い声が聞こえた。加羅にぶつかった勢いで後ろに転びそうになる幼子の手を、慌てて掴む。
「ありがとう」
七つか、八つほどだろうか。女の子だ。にこりと笑った顔は無邪気そのもので、思わず加羅の頬にも笑みが滲んだ。
「気をつけて」
「うん。ね、おにいちゃん見て。虹」
加羅の袖を引っ張り、幼子は空を指差した。加羅は屈んで、幼子の視線の高さに合わせる。
「うん、綺麗だね」
「きれい!」
手を叩いてはしゃぐ幼子の髪を撫でてやる。その髪は素直で柔らかく、指先に心地良かった。
「こんな伝説知ってるかな。あの虹はね、炎と龍なんだ」
「そうなの? 知らない」
「赤い炎と、それぞれ三色で彩られた二頭の龍。空駆けの焔と、龍の伝説だ」
「知らない。でもお月さまにお花が咲いてる事は知ってるよ」
「物知りだね」
ぽん、と頭を撫でると、幼子は得意げに胸を反らせた。
「桔梗のお花が咲いてるんだよ」
「そうなんだ」
古くから瑠璃に伝わる伝承である。加羅も知っている話だが、知らぬ顔で驚くフリをした。
ふいに幼子が雑踏に首を巡らせた。母親だろうか、上品な女性が幼子の名を呼び手招いている。
「お母さんだ! じゃあねっ」
「うん。転ばないよう気をつけて」
大きく手を振る幼子に、手を振り返す。やがて幼子の姿は雑踏に飲まれ、見えなくなった。
加羅は立ち上がり、後方へと視線を流した。
「何の用だ、斉藤」
小路から人影が姿を現す。
「おや、気付いていらしたんで」
「何の用だ」
加羅は男と向かい合い、腕を組んだ。
「子供にはお優しいです、ね」
男はくつくつと肩を揺らす。常の笑みが剥がれている事を自覚しつつ、加羅は不愉快な思いで男を見た。
男の名を、斉藤汀という。
三十路がらみの男だ。懐手の着流し姿に、縞の羽織。彼が歩く度に高下駄がからころと音を立てる。
ほとんど白に近い薄茶の髪に、まるで糸のように細い目。体温を感じさせぬ容貌は、どことなく爬虫類を思わせた。
「斉藤」
さっさと用件を言えと言外に滲ませて、彼の名を呼ぶ。
「いえ。特に用といった用は無いんですが、ね」
汀は、くっと喉を引き攣らせるようにして笑った。真意の見えない目を、加羅は瞳に力を込めてじっと見つめ返す。
しばし沈黙が落ちた。賑やかな喧騒が鼓膜を振るわせた。
「瀬川くんの事なんですが、ね」
笑みを湛え、汀が口を開いた。
「あの背中の傷。一撃ですよ、ね」
「……だから何だ」
「相当の腕前だよね。すごいよね。いったい誰だろう、ね」
すごいよね、と汀はもう一度繰り返した。汀から視線を逸らさず、加羅は組んでいた腕をほどき腰に片手を当てた。
「瀬川の恋人が犯人を見ていたと、そう言ったはずだ」
「ああ。そう言えばそうでした、ね」
汀は懐の中で腕を組みかえる。
「その恋人くんは、今はどこに?」
「今日も元気に犯人を憎んでいるさ」
「犯人、ね」
汀の視線が加羅に注がれる。加羅は何も言わず、その視線を受け止めた。
「……楓、と言う名だっけね。可哀そうだよね。うん、可哀そうだ」
「妙に気にかけるんだな」
「そりゃあまあ、ね。瀬川くんは元ぼくの部下なわけだし、ね。その恋人となっちゃ、一応気にかけも致しますよ」
汀は薄い唇を笑みの形に曲げた。
「それじゃあぼくは、一旦戻る事に致しますよ」
ぺこりと会釈し、汀は加羅に背を向けた。数歩進んだところでぴたりと足を止め、こちらを振り返る。
「ああそうだ。……転ばないよう、気をつけて」
先程加羅が幼子に投げた言葉をそのままに、優しげな声音で汀は言った。
眉を顰める加羅を愉快そうに見つめ、汀は踵を返した。
加羅は舌を打ち、伸びた前髪を掻き乱す。
虹はもう消えていた。
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