哭雨 22
雨音に交じり、足音が聞こえた。廊下を歩む軽い足音は、だんだんとこちらに近づいてきている。
すらりと襖が開かれた。
須桜は襖に手をかけたまま、大きな目を更に大きく見開き、その場で固まってしまった。
首を傾げどうしたと視線で問うが、須桜は無言のまま立ち尽くしている。
襖にかけられていた手がずるりと滑り落ちて、それに次いで須桜自身もその場にへたりとしゃがみこんだ。
「……良かったぁ……」
涙まじりの笑み声に胸が痛んだ。須桜は四つん這いになって、ぺすぺすと妙な音を立てながらこちらにやってくる。影虎の隣に腰を落ち着け、そっと、紫呉の手に手を重ねた。須桜の手は熱を孕んでいた。
「……怪我を?」
「大した傷じゃ無いわ」
首を振る須桜を、影虎が何か言いたげにちらりと見やる。そんな影虎を、須桜もまた何か言いたげにちらりと見た。
紫呉は須桜の手の下から己の手を抜き、今度は自分が須桜の手に手を重ねた。熱い手をぐっと握ると、須桜は顔を上げて少し照れくさそうに(気まずそうに、かもしれない)笑った。
二人とも顔やら手やらに小さな傷が見て取れた。きっと見えぬ位置にも傷を負っているに違いない。
「……」
紫呉は二人を、二人まとめて抱きしめた。詫びる代わりに抱きしめて、礼を言う代わりに頬を摺り寄せる。
二人の首元に手のひらを寄せた。首はちゃんとつながっている。体温を感じる。脈動を感じる。生きている。二人も、自分も。
「……あの、ちょ、あの……紫呉? こういうの慣れてないから焦るんだけど」
あたしはどっちかっていうと愛されるよりも愛したいマジで派っていうか何ていうかなんだけどたまにはこれはこれでアリっていうか何ていうか。でもこんなのされたら調子のるっていうか自重できなくなるっていうか何ていうか。
ぶつぶつ呟きながら須桜は顔を赤くしている。
「……えーと。報告、しますよー」
影虎の声は無理に低く抑えた所為でやや聞き取りにくかった。
予想していなかった二人の反応に、少しばかり愉快な気持ちになる。二人が慌てているところをもっと見ていたくて、もう少しだけくっついていてやろうかとも思ったが、『報告』と言うからには真面目に聞かねばなるまい。紫呉は多少の名残惜しさを感じながらも、二人から体を離した。
影虎は一つ咳払いをして、そっぽを向いたまま話し出す。
「まあ俺は瀬川拓也の事を調べに行ってたわけですが」
えーと、と言葉を切り、影虎は頬を指先で掻いた。ちょっと待て纏めるから、と言った声はまだ動揺を含んでいる。
「なのでまあつまり、瑠璃に戸籍がねえって事は玻璃だろって事であって、まあつまり、玻璃に行ってたわけですが」
「二回言いましたよ、『まあつまり』」
「うっせ、黙って聞いとけ」
影虎はもう一度咳払いをしてから、しかつめらしい顔で腕を組んだ。
「有ったよ、玻璃に戸籍。もう死んでたけど」
「どういう事ですか?」
紫呉は身を乗りだした。既に話を聞いているのか、須桜は黙ったまま難しい顔をしている。
「言ったまんまだ。瀬川拓也は玻璃の人間。そんで、既に死んだ人間。ちなみに反逆の罪を問われてって事で死んでる」
「反逆……」
「そ。
『偽焔様』とは、玻璃を治める
瑠璃を収める如月が初代桔梗の名を襲名し代々血を繋いでいるのに対し、玻璃を収める日生もまた、初代焔の名を襲名し血を繋ぎ歴史を刻んでいる。
日生八重もまた、その歴史の中で『焔』の名を継いだ一人である。
だが彼女が『偽焔』と呼ばれ蔑されるには、理由が有った。
それは、彼女が日生の血筋に連なる者とは異なった容姿を持つからである。そのため彼女は、正等な後継者であるにも関わらず、弟にその地位を奪われ生きてきたのであった。
弟である、第十三代目日生焔・
八重の弟である与四郎は、それは見事なまでに日生の血の者を体現した姿を持っていた。その為、長子が名を継ぐという慣例を廃し、与四郎は焔の名を継いだ。本来名を継ぐはずであった、八重の存在を無かったことにして。
与四郎の死亡後、玻璃はもめた。いったい誰が家督を継ぐのか?
与四郎の息子はまだ幼く、家督を継ぐには頼りない。そこで名が挙がったのが、八重だった。
そして八重が家督を継ぎ、十四代目日生焔を名乗るようになって六年。その六年の間、囁かれ続けている噂がある。
『先代焔・与四郎様は、八重様に殺されたのではないか?』
『八重様は家督欲しさに、弟を殺したのではないか?』
そして彼女は蔑される。
偽焔様、と。
「で、だ。生前……かっこ仮、な。生前の瀬川拓也は
「実際は生きていて、……」
「ああ、今度こそ死んだ。殺された。誰にだか何でだかは分からんけどもさ」
護焔隊とは、偽焔様たる日生八重が自身の為に創設した部隊である。
本来ならば、焔の護衛には瑠璃の『二影』と並び称される『
二吼とは
と言っても、焔が二吼を任命するのではない。二吼の名ともなっている竜造・辰覇の名を持つ黒器が、彼らを選ぶのだ。
黒器に選ばれた彼らは親から授かった名を棄て、竜造を、または辰覇を名乗る。そして焔を護る二対の龍となるのである。
先代焔・与四郎の二吼は、八重の守護を拒否し、今は与四郎の息子の側に在った。
二吼に守護を拒否された八重が創ったのが、件の護焔隊である。
「護焔隊隊長の名は斉藤汀。瀬川拓也はこいつの部下だ。……だった、のが良いかもな」
以上、と報告を締めくくった影虎は、疲れたのか長く息を吐いた。彼の溜息に重ねて、須桜もまた、ほうと息を吐く。それで、と口を開いた彼女の声は低く掠れていた。
「一度死んだ瀬川拓也は、吉村楓と恋をして、また死んだ。吉村楓も……」
「僕が殺した」
須桜の言葉尻に重ね、紫呉は言った。須桜は少しだけ責めるような目をして、紫呉を見た。
「……何で?」
「吉村楓が、僕を殺そうとしたから」
じっとこちらを見つめる須桜の瞳を、じっと見つめ返す。
「……その傷」
と、須桜は紫呉の腰を指差した。紫呉は腰を押さえ、自嘲に唇を少し曲げる。
「ええ、吉村楓に刺されました」
紫呉の腰の辺りに視線を流した須桜が、ふっと目を眇めて馬鹿にした声で言う。
「素人の女の子に刺されたの? どれだけ油断してたのよ」
「ものすごく油断していましたね」
「馬鹿じゃない? 馬鹿よ、ほんとに。……無事で、良かった、けど……」
須桜は俯き、目元を擦る。もう一度、けど、と言葉を繋ぎ、須桜は俯いたまま言った。
「……紗雪には何て言うの」
雨が風に舞い、ザァと音を立てた。薄暗い室内は俄かに湿度を増したような気がする。
「……祭が始まる以前に、偶然紗雪に会いました。その時彼女は言っていました。吉村楓から手紙がきた、しばらくは瀬川拓也と旅行に行っている、という内容の手紙だった、と」
薬が切れたのか、腰の傷が痛み出した。痛みに浮かんだ冷や汗を拭い、紫呉は言葉を続ける。
「瀬川拓也も吉村楓も死んじゃいない。ただ、旅行に行っているだけです。長い旅行なので、しばらくは瑠璃に帰ってこない」
溜まった唾を飲み下す。ぶり返した痛みに血の気が引いていく。須桜は紫呉の肩を軽く押し、支えながら布団に寝かしつけた。
「……分かった」
紫呉の顔を覗きこむ須桜の顔は無表情で、何を思っているのかは知れなかった。
ふいに須桜は紫呉の胸元に額を寄せ、心臓のある辺りに耳を寄せた。触れる柔らかな髪がくすぐったかった。
しばらくそのままじっとしていた須桜だが、ぱっと身を離し袂を探る。片手で紫呉の口を半ば無理やり開けさせ、取りだした丸薬を口中に放り込んだ。
「……っ苦い、ん、ですが!」
「そりゃそうよ、兄貴が作ったんだもん。ちなみに水で流そうとするともっと苦くなるのでオススメしません」
でも即効性は半端ないわよー、と須桜が言う通り、先程まで体中を満たしていた痛みがすっと退いていく。痛み止めか。
「……分かったわ。吉村楓の生家が最近になって店仕舞いしたのは、きっと娘夫婦の旅行について行ったからね。今頃きっと、樹海の外で、子供が生まれたら何て名前にしようとか、そういう話をしてるのね」
そうだな、と影虎も頷く。
須桜は紫呉を裏返し、腰の傷に軽く手を当てた。
「……こんなに油断するなんて、あの馬鹿の所為?」
くすくす、と小さな笑い声が背中に降ってくる。須桜の笑い声は止まない。
「ほんと、何なのあの馬鹿。何でいるの。何がしたいの」
笑いながら須桜は紫呉の背を撫でる。
「……意味わかんない」
弱々しく呟いたその声も、笑みを含んでいた。
「…………須桜も、会ったんですね」
「まあね。一生会いたくなかったけど」
「僕もです」
「……そう、ね」
「意味の分からん事、もう一個有るぜ」
影虎が思案声で言った。
「お前ら二人が意識無い間にさ、現場に行ってきたんだ。そしたら、吉村楓の遺骸が無かった。肆班と話つけて破天の奴らの遺骸も見てきたけど、回収された遺骸の中にはやっぱ無かった」
「それは……」
「さあな。何でだかは俺にゃあ分からんよ」
と、影虎は肩をすくめてお手上げの態度を示す。
「……本当に、意味の分からないことばかりですね」
思わず漏らした嘆息は、静かな部屋に妙に大きく響いた。