哭雨 21
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四
パタン、パタ、タ、タタタ、タタ、タン、という音は雨音かと思いきや、どうやら紫呉が右手に提げた牙月の刃先から滴る血が立てている音のようだった。
紫呉は屍の上に立っていた。屍は恨めしげな目でこちらを見ているから、きっと自分が斬ったのだろう。と、どこかぼんやりした頭でそう思う。
そして気付く。
これは夢だ。
だって、血のにおいがしない。鼻が麻痺したのかとも思ったが、嗅覚がイかれたとしても鼻の奥をツンとつくあの感覚は残るから、その感覚が無いという事はつまりこれは夢なのだ。
屍のぐんにゃりとした、それでいて固い感触が草履越しに足裏に伝わってくる。重くはないのか、と問おうとしてやめた。相手は屍だ。無意味である。
血振りして見渡せば、一つ二つと前後左右に屍が増えていった。瞬く間に屍は視界を埋め尽くした。
屍ばかりならば刃を収めても問題あるまい。そう思い紫呉は納刀しようとして、やめた。遠くに見知った姿が見えたからだ。
加羅だ。
何故ここにいるとそう思った瞬間、体が意思に反して強張った。固まった。
動け、と思ったのと、斬れ、と思ったのが同時だ。そして斬られたのもまた、同時だった。
左の胸元から右の脇腹にかけて、ずぅらりと撫で斬られる。
血が噴き出す。脚から力が抜け、膝から崩れた。膝をついて、体を折り曲げ、肘をついた。うつ伏せに倒れた。動けない。紫呉はまだ牙月を握っている。
口から溢れた音を字で表すならば、ごえ、だとか、げあ、だとか多分そんなものになるだろう。兎にも角にもそんな音と共に口から血が溢れたのだが、さてこの血は体のどこを流れていたものだったかと、どうでも良いような事を考える。裂かれた腹から流れる血は、紛れもなく腹を流れていた血だと分かるのだが。
何とか首を動かして見上げれば、加羅の顔が見えた。しかし表情は見えなかった。紫呉はまだ牙月を握っている。
加羅の表情は分からぬが、じっと紫呉を見おろす紅緋の目ばかりが欄と光っていた。それを疎ましいと思う。
加羅が何か言った。が、聞き取れなかった。表情も分からない。
パタン、パタ、タ、タタタ、タタ、タン、という音は雨音かと思いきや、どうやら加羅が右手に提げた向陽の刃先から滴る血が立てている音のようだった。
加羅が血振りをして、向陽を振りかぶる。首を落とされる、と思ったが、実際に首を落とされたのは紫呉ではなく翔太だった。
紫呉を庇って、翔太は二人の間に飛び込んできたのだった。
一撃目で、翔太は首を裂かれた。血が噴き出して、翔太の体が傾いだ。返す手の二撃目で、翔太は首を落とされた。
ぼさっ、ごろごろ、ろ、ろ。字で表すなら、多分、そんな音。紫呉はまだ牙月を握っている。
翔太の首筋からは血がざあざあと噴き出している。止まらない。首を、元あった場所にくっつけなければ。そうすればきっと、あの血は止まるはず。
早くしなければ。早くしないと、翔太が死んでしまう。それは嫌だ、駄目だ。駄目だ。死んではいけない。
翔太の体が倒れる。首筋からは今なお血が勢いよく噴き出して辺りに降り注ぎ、ざあざあと音を立てている。
早く、早くしなければ、翔太が、
動け、なあ、動いてくれ。
早くしなくては死んでしまう。
翔兄が、首を早く、翔兄の。
首を。
せめて名を呼ぼうとした。呼んで、彼の魂を呼び寄せようとした。
なのに声は出ない。ただ、げえげえと血が出るだけで声が出ない。名を呼べない。翔兄と、そう、呼びたいのに。呼び寄せたいのに。彼の魂を。
加羅がじっとこちらを見ている。欄と光る紅緋の目でこちらを見ている。紫呉はまだ牙月を握っている。
握っている。
なのに、体は動かない。動かせない。紫呉はまだ牙月を握っている。握っている。ざあざあと翔太の血が降り注ぐ。加羅はこちらを見ている。
動け、
動けよ、何の為の牙だ!
動け、噛みつけ、喰らいつけ、喰い千切れ、突き立てろ!
なあ、動けよ、早く、早く、早く!
じゃなけりゃ死ぬぞ、殺される、首を落とされて死ぬ、死ぬ、翔兄のように首を落とされて!
誰か助けてくれ、早く、助けてくれ、殺される、嫌だ、駄目だ、死ねない、死ねない、助けてくれ、助けてくれ、
ここで死んだら加羅を殺せない!
◇◆◇
目を覚まして、真っ先に視界に飛び込んできたのは真白い布だった。どうやら自分はうつ伏せに布団に寝かされているらしい。
外は雨のようだ。風に煽られた雨粒がざあざあと音を立て、うるさいほどだった。軒先からでも雫が垂れているのだろう、パタンパタンと高い音も時折聞こえた。
障子越しに差し込む光は薄暗く、時刻を知らせるのに役立たない。だが灯は燈されていないから、まだ夜ではないのだとそれだけは何とか知れた。
紫呉は霞む視界をどうにかしようと、きつく何度か瞬かせた。おそらく何日かぶりの光に驚いているのか、目はそれでも上手く機能してくれない。目を擦ろうと手を上げて、紫呉は痛みに呻いた。
腰が痛んだ。腹ではなく。
紫呉は痛みをやり過ごし、ゆっくりと仰向けになった。左の胸元から右の脇腹にかけてそっと撫で下ろす。
そこの傷は、もう既に治っている。塞がっている。今痛む傷は、そこではなくて刺された腰だ。
(……刺された)
そうだ、刺された。吉村楓に。そして斬った。吉村楓を。
(……紗雪)
思い浮かべたのは、友の名と顔だった。
彼女に、どう言えば良いのだろう。
「……ん」
思考を小さな声に遮られ、紫呉は寝転んだまま首を巡らせた。
障子の逆側の傍らに、影虎が座していた。胡座した膝に肘をつき、うとうとと居眠りをしている。
何だかものすごく久しぶりに見るような気がする顔にほっとすると同時、申し訳なさが胸に湧いた。
心配を、かけてしまったのだろう。影虎の顔色は悪く、憔悴した風情だ。
ふいに影虎の頭ががくんと揺れた。ぅお、と驚いた声を発し、影虎は眠たげに目元を擦る。
欠伸に浮かんだ涙を拭っていた影虎だが、紫呉と目が合い、桃色の目を大きく見開いた。ぱち、ぱち、と瞬かれる数を紫呉は何とはなしに数える。
さて、何と言おうか。おはようございますでも、おかえりなさいでも、何だかおかしいような気がする。
どうしたものかと悩んでいたら、ぐうと腹が鳴った。気恥ずかしさを誤魔化すように紫呉は腹を押さえ、視線を逸らした。
「……うどん」
「あ?」
「うどんが食べたいです」
蕎麦でも良いです。
そう付け加えると、しばしの後に影虎は呆れたようにふっと息を抜いて、紫呉の頭を軽く叩いた。
「……アホか」
影虎の呆れきった声が少し震えていたので、紫呉は何ともいえない気持ちになる。頭を叩く手はだんだんと乱暴なものになっていくが、やめろと言う気にはならなかった。
ひとしきり頭を叩き、影虎は最後にぐしゃりと紫呉の髪をかき混ぜ、逆の手の平で紫呉の目元を覆った。
「ただいま」
視界を遮られていたので、そう言った影虎の表情は見えなかったが、何となく想像はついた。約束の期日を守らなかった事は、もうどうでも良い事に思えた。
「……おかえりなさい」
目元を覆う影虎の手をのけようと、紫呉は影虎の手首を掴んだ。そこには数珠の感触が有り、清姫がちゃんと主のもとにある事に安堵を覚える。
影虎の手をどかす。彼の手首には確かに清姫があった。やはりこの黒曜の数珠は、影虎の手首を彩っているのが一番しっくりくる。
紫呉は己の左手首に視線を流した。そこには牙月がある。今は水晶の数珠の態をしており、大人しくしていた。
これで、たくさんの破天の者を斬った。吉村楓も。
だが、加羅を斬る事は叶わなかった。
脳裏に浮かぶ加羅の姿に、腹の底がふつふつと煮えあがる。
いったい何故、奴があの場にいたのだ。何故、何の為に。いったい何が目的だ。疑問は尽きない。
紫呉は体を起こそうと、腕と腹に力を込めた。痛みに思わず声が漏れる。支えようと手を伸ばす影虎を視線で制し、どうにか一人で起き上がる。甘えたくなかった。
「会いましたか」
息を吐いて、尋ねる。誰に、とは言わなかったが、影虎は険しい顔で頷いた。
無言が落ちる。途端、雨音が膨れ上がったような気がした。