哭雨 20
意識はまだ有る。
呼吸もしている。
心臓も動いている。
自分はまだ生きている。
だが、生きているだけだ。
それでは意味が無い。護れなくては、生きているだけでは、何の意味も有りはしない。
加羅を睨む。睨みながら、紫呉を想う。
傷はどれほど塞がった。血はまだ流れているか。
治れ、治れ、治れ。早く、早く治ってくれ。
びちゃ、と加羅が爪先で地面を叩くのが見えた。向陽を一振りして須桜の血を払い、構え直す。その一連の動作が、やけにゆっくり目に映った。
須桜はぐっと脚に力を込めた。歯を食いしばり、がくがくと震える脚に力を込めて立ち上がる。それに伴い、背中から血が溢れだした。
睨み据えて、息を吸う。ヒュウと喉が音を立てる。
失せろ、と叫んだつもりだった。だが実際に喉から零れたのは、ただの呻き声だった。
ふ、と視界が黒く染まる。
駄目だ。
今、意識を手離してはいけない。
そう願うのに、須桜の意識は黒く塗りつぶされていく。
加羅が何か言った。みあげたこんじょうだよみかげ。多分、そう言った。
須桜の後方、雨音にまじり、がさりと木々が揺れる音がした。次いで、ぬかるみを跳ね上げる足音も。
意識が真黒に染まる一瞬手前、須桜の網膜は人影を捉えた。それが誰なのか認識すると同時、須桜は繋ぎとめていた意識を手離した。
「何でてめえがここにいやがる」
影虎は右の手で長針を放ち、左の腕にはがくりと崩れた須桜を抱えた。
「きみこそ、どうして今までここにいなかったのかな」
軽い身のこなしで針を避け、加羅は何もかもを見透かしたような目で笑う。
影虎は鋭く舌を打って、須桜を肩に担ぎ上げた。逆の腕には、伏した紫呉の腹に手を回して、ぶらさげるようにして抱え上げる。
「早くしないと二人とも死ぬよ?」
「うるせえ。てめえに言われるまでもねえよ」
言い終わらぬうちに、影虎は駆け出した。後ろを振り返る事無く、ただひたすらに夜闇を駆ける。雨粒が頬を打ち、痛い程だった。
影虎が戻ってきた時には、舞台の周囲はすでに騒動に飲み込まれていた。状況把握に努める影虎の元に駆け寄ってきたのは、崇だった。
紫呉の後を鳩に追わせた。追わせた鳩を、他の鳩に追わせている。それを追えば紫呉は見つかるはずだ。崇は状況を知らせると共に、落ち着いた声でそう言った。
その鳩を頼りにここまで来たら、この惨状である。影虎の胸は焦燥と恐怖で焼け焦げそうだった。
担ぎ上げた須桜の体から熱い血がどろりと流れ出し、影虎の肩を濡らす。もう意識は無いだろうのに、彼女は時折治れ治れとうわごとを発する。
抱えた紫呉にいたっては、指先一つも動かそうとしない。だらんと垂れた腕が揺れて、指先が折節当たる。その力無い動きがより一層影虎の焦燥に拍車をかけた。
早くしないと二人とも死ぬよ。加羅の笑み声が耳に蘇った。
「……くそ……っ」
そんな事は分かっている。分かりすぎている。
だが死なせてたまるか。失ってたまるか。半身も、主も、決して死なせはしない。己はまだ月に繋がれていたい。
影虎はただ必死に脚を交互に動かした。裏道を選び、支暁殿をひた目指す。枝に皮膚を掻かれようとも、二人の重みに体が軋もうとも、止まるわけにはいかない。止まるつもりなど無い。
背を追う気配は無い。ありがたく思うがしかし、訝しくも思う。圧倒的有利に立っているだろうのに、何故加羅は追ってこない。
だが考えるのは後だ。今は逃げ切るのが先決である。忍んだ先で得た毒に、この体が侵されきるその前に。
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瞬く間に夜に消える影虎の背を視線で追い、加羅は首を振って頬に張り付く髪を散らした。ぬかるむ地面を踏み歩んだ先は、楓の元だ。
楓の腹は無残に裂かれていた。傷口はお世辞にも綺麗と言えず、ぎざぎざと歪である。力に任せて刀を振り下ろしたからだろう。
紫呉らしいと言えば、実に紫呉らしかった。いや、彼の太刀筋はどんなものであろうと、彼らしいと言えるのだが。するりと撫でるように軽やかに皮膚を裂く太刀筋も、力に任せて骨ごと叩き斬る太刀筋も、どれも彼らしい。いつだって彼の太刀筋の要は、斬る・殺す・屠る、生き延びる。それだけだ。斬り方など関係無い。
もう何も映さぬ楓の瞳はうすらと笑みを湛えたまま、雨を零す夜空を眺めていた。加羅は膝をついて、楓の瞼を下ろしてやった。
「おや、お優しい」
汀だ。楓の瞼に指先を触れさせたまま、加羅は動きを止めた。振り向かずとも分かる。汀は笑っているに違いない。
加羅の側に歩んできた汀は、影虎の消えた方角を手庇を作って眺めている。
「追わなくてもよろしいんで?」
「手負いの猛獣とやりあいたくはないさ」
「おや。若君ともあろう方が弱気な事を」
「慎重だと言ってくれ」
汀はさもおかしげに肩を揺らして笑った。いつにも増して何を考えているのか分からない彼の横顔を見やりつつ、加羅は黒器を常態の数珠に変じさせた。
「まあ、何にせよ」
腕を懐手に引き直し、汀は糸のように細い目を笑みの形に曲げた。
「良い、ね。彼は。とても、さ」
薄い唇を濡らす雨粒を舐め取る様が、まるで爬虫類のそれである。
「良いね、あの目。それに、太刀筋に迷いが無いよ、ね」
汀の視線は楓の傷口に注がれている。だが彼の黒い目は、楓越しに楓を斬った紫呉を見ているようだった。
「……ふふ、それでこそだ。それこそが、殺戮のあるべき姿だ。……くく、く、……あっはははは!」
背を逸らし、雨空を仰ぎ汀は笑う。ひとしきり笑った後、汀は糸が切れたように、声からも顔からもふつりと笑みを消した。
「実に、愉しみだ」
ぽつりと呟き、そしてまた、笑い出す。
笑い続ける汀を差し置いて、加羅は楓の体を肩に担ぎ上げた。
「おや、どうされるんで?」
「瀬川の隣に埋葬する」
「……おや、おや」
汀は裂けそうな程に唇を横に引き、ばっと芝居じみた仕草で腕を広げた。
「あなたは実にお優しい! 実に慈悲深い! そして、実に、傲慢だ! あなたはまさしく英雄だ!」
「好きに言え」
短く吐き捨てると、雨音をかき消すほどの汀の哄笑が夜の森に響き渡った。
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