哭雨 19
一太刀に斬り伏せる。
絶命のその瞬間まで、楓は薄い笑みを浮かべたままだった。
楓の身体は仰向けに倒れた。ぬかるんだ地面は泥を跳ねさせ、紫呉の顔にまで泥が跳ぶ。
肩で息をしながら、紫呉は腰の傷口に手を伸ばした。
指が傷口にめり込む。血はとめどなく溢れ出している。
嫌な傷だ。
嫌な、傷だ。
血は雨と混ざり合い、脚を伝い落ちていく。それに伴い、だんだんと体温が低下していくのを感じた。
冷えた体は無様に震え、歯の根が合わずにがちがちと音をたてる。ただ傷口ばかりが、燃えるように熱い。
傷口の熱は次第に痛みに変わり、全身を痺れさせていく。
体が傾ぐ。だが必死で脚に力を込め、何とか体を支えた。
ぱん、ぱん、と手を打ち合わせる音が頭上から聞こえた。
「女の子相手に容赦無いね」
彼はにこやかに笑み、地面に降りた。泥が跳ね、彼の身につけた白の単も、黒の洋袴も茶色く染める。
しかし彼は全く頓着した様子を見せずに、左手首から瑠璃の数珠を外した。
紫呉は傾いだ体を、牙月を地面に立てて支えた。
脚が震えている。手も、腕もだ。血が足りず、体には力が入らない。
だが倒れてなるものか。
この男の前で、膝をついてなるものか。
激しく肩を上下させながら、紫呉は彼を睨めつけた。
「……変わらないね、その目」
彼は笑みを深めた。
そして黒器の名を呼ぶ。
鼓膜までもがイかれてきているのか、声が遠い。
しかし自分は知っている。あの黒器の名を。
『
瑠璃の数珠は、藍鞘の打刀に姿を変えた。
藍鞘から加羅が刃を走らせる。暗闇の中、冴え冴えと青白く刃が光る。
知っている。
この乱刃が、どれほどの斬れ味を誇るのか。
そうだ、この刃が己の身を裂いた。
この刃が、翔太の首を裂いたのだ。
加羅が地面を蹴る。
紫呉は牙月を地面から引き抜き、吼えた。意味を成さぬ、ひび割れた咆哮だった。
刃を横にして、加羅の斬撃を受け止める。しかし体には思うように力を込められず、情けなくも吹き飛ばされた。
何度か地面を跳ね、ようやく勢いが止む。手に、脚に力を込めるが立ち上がれない。紫呉は俯けに泥濘に伏せた。
意識が遠ざかる。加羅が跳ね上げる泥の音すら、遠くに聞こえる。
畜生。
何故、この体は思うように動かない。
何故、己の意識も繋ぎ止められない。
この世界で一番憎い相手が、今、目の前にいるというのに。
立て。
立て!
立ち上がれ!
「……ぁ」
雄叫びを上げたつもりの喉は掠れた小さな音を発するだけで、ぞっとするほど虚しく響いた。
牙月を握った手を踏みつけられた。加羅の汚れた洋靴を、霞んだ目が映し出した。
どうしようもなく体が重い。指先一つ動かせない。雨粒の冷たさすら感じない。
ざあざあとうるさいこの音は、雨音なのか、それとも、からだから流れおちる血しおがたてるおとなのか、それすらも、わからなかった。
「その足を除けろ!」
ひゅ、と風を切る音と共に石礫が二人の間を裂いた。加羅は跳んで、数歩下がる。
「これはこれは。お早いお着きだ」
「黙れ!」
須桜は駆け寄り、勢いそのままに棍を打ち付けた。しかし加羅は動じる素振りも無く、須桜の打撃を軽くいなす。
紫呉を背後に庇い、須桜は第二撃を繰りだそうとした。だが、雨でぬかるんだ地面に足を取られ、僅かに均衡を崩す。
それを、加羅は見逃さなかった。片膝をついた須桜の元に、加羅は機敏な動作で距離を詰める。
首元に振り下ろされた打刀を棍で受けた。ぶつかり合った得物が鳴らす音が、ひどく耳障りだった。
加羅が笑った。と思うなり彼は刃を退け、洋靴の爪先で泥濘を跳ね上げる。
泥に視界を奪われ、須桜は怯んだ。口に入った泥を吐き出す。立ち上がろうとする須桜を押さえつけるように、加羅は上段から向陽を振り下ろした。
棍を横にし、受け止める。が、力でも技術でも自分はこの男に劣っている。すぐに腕は震え、悲鳴をあげだした。
それでも、退くわけにはいかない。主を護れずして、何の為の影だ。
あの時、舞台から駆け出した紫呉を、須桜はすぐさま追った。だが只でさえ紫呉は足が速い。それにあの人ごみだ。須桜は紫呉の姿を見失った。
方々を探し回り、やっと見つけた時にはこれだ。
須桜はちらりと背後の紫呉を窺った。意識は有るのか無いのか、うつぶせた彼からは読み取れない。
いや、もしかしたらもう死んでいるのか?
まさか!
紫呉が死ぬなど、死ぬわけなど、そんな馬鹿な話があるものか!
大丈夫、大丈夫だ。僅かだが紫呉の背は呼吸に合わせ上下している。大丈夫だ。
だが早く治療をしてやらないと。傷が痛そうだ。痛そうだ。痛いのは可哀そうだ。早く治さなければ。早く、早く。
歯を食いしばり、渾身の力で加羅の刃を跳ね除けた。立ち上がる。
だが須桜が体勢を整えるよりも先に、加羅が紫呉の元へ駆ける方が速かった。己の横を過ぎようとする加羅を、視界の端に捉える。
須桜は咄嗟に二人の間に飛び込んだ。
背を、ばさりと斬られる。
その衝撃と痛みに崩れそうになるが、ぶんと紅雫を振り回して加羅を遠ざけさせる。
加羅が下がった。
須桜は腕を真直ぐに伸ばし、紅雫の先で加羅の頭部を指し示す。
「動くな」
こちらに駆けようとしていた加羅の足が、須桜の声にぴたりと止まる。
須桜は両膝をついた。本当は何としてでも立っていたかったのだが、体が言う事を聞かない。
それでも、震える腕で必死に紅雫を支えた。棍の先は震えながらも、加羅からぶれる事は無い。
「そこを動くな。指一本も動かすんじゃない」
棍を持つ手とは逆の手、背から流れ出した血が腕を伝い、指先から雫がぽたりと紫呉の上に落ちる。これ幸いと、須桜はひたすらに治れと念じた。
「もしも動けば」
息が荒い。声が震える。痛みに意識を持っていかれそうになる。
「もろとも吹き飛ばしてやる」
だがそれでも声を振り絞った。
須桜は血の伝う腕を振り、己の血を周囲に散らした。
言外に立ち去れと意味を込め睨み据えるも、加羅は感情の見えぬ顔で、こちらをじっと見つめるばかりだ。
痛い。
寒い。
視界が霞む。
呼吸すらも困難だ。
頼むからさっさとどこかへ行ってくれ。お願いだ、頼む。
ついに棍を支える力も痛みに奪われた。棍を地面に立て、それに縋るようにして体を支える。
意識が遠ざかっていく。
だのに何故この男は動こうとしない。立ち去ろうとしない。
いっそ泣き出したい気分だ、畜生め!