哭雨 18
楓は、その場にずるりとしゃがみこんだ。
何故ここに、と不思議に思いはしたものの、無事でいたか、と安堵の気持ちが湧き上がる。
楓の側に向かおうと、足をそちらに向けた時だ。
「……どうして」
楓は呟き、辺りを見回した。そして口元を押さえる。嘔気を必死で堪えているようだった。
「……何で
言いさして、楓は背を丸めて吐瀉した。樹の幹に手をつき、苦しそうに吐いている。
紫呉は足を止めた。幹に手をついた彼女の親指には、屍と同じように包帯が巻かれている。
胃の中のものを全て吐きつくし、楓は紫呉を見上げた。大きな目には確かな怒りが見えた。
「……何で、殺したの」
震える声で呻き、楓は周囲を見回した。
「三吉さんと、舞さん、すごく幸せそうだったよ。二人目が生まれたんだ、って、……すごく……」
楓の声が涙に飲まれる。
さて、どれが三吉さんで舞さんだろうかと、紫呉は屍に視線を走らせた。見たところで分かるわけも無いのだが。
「……彼らは僕に刃を向けた。だから斬った。それだけです」
先程までの激情は嘘のように凪ぎ、静穏と言って良いほどだ。平坦な己の声を聞きながら、紫呉は何だか不思議な心地を抱いた。
「それだけ? 何よその言い方、何で、何で……っ!」
「では殺されて差し上げれば良かったんですか? 真っ平御免だ」
「うるさい、うるさいうるさい! そうよ、死んじゃえば良かったのに! 何で、何で拓也を殺したの!」
乱雑に言葉を紡ぎ、楓は拳を何度も幹に叩きつけた。
「拓也を返してよ! 返してよ……っ!」
楓は顔を両手で覆い、咽び泣いた。悲痛な泣き声が夜の静寂を打つ。
「……瀬川拓也の一件は、僕の与り知らぬ事です。彼を殺したのは僕じゃない」
「嘘!」
弾かれるように顔をあげ、楓が叫ぶ。
「そんな都合の良い話、信じれるわけないじゃない! だって私は見たもの! あなたの側で死んでる拓也を、私は、見たもの……っ!! 拓也もあなたが殺したんでしょう? こうやって、ものを斬るみたいに拓也を斬ったんでしょう?」
大きく瞠った目からぼろぼろと涙を零し、楓は早口に言った。殺してやる、と低い声で彼女は呻く。
取り出した小刀の鞘を払い、楓は立ち上がった。
「ねえどうして? 何でこんなに簡単に人を殺せるのよ。何でよ。何で、なのに、何であなたは普通に暮してるのよ。治安維持部隊の肩書きが免罪符になってるとでも思ってるの? ねえ答えなさいよ
「生き抜くと決めたんだ」
楓が言い終わるのを待たず、紫呉は言った。
ぽつりと、雨が地面を打つ。
忙しなく上下する楓の肩を濡らす雨粒を見やりながら、ようやく降りだしたかと、紫呉はそんな事を考えていた。
「報いは必ずや受けましょう。いずれ、彼岸にて」
「……っ」
「だが」
楓が何かを言おうとするのを遮る。
「今生は、生き抜くと決めた。奪った命を背負い、生き抜くと決めたんだ。その重みに押し潰され、地べたを這い蹲る事になろうとも。それでも」
紫呉はぶら下げていた牙月の切っ先を、楓に向けた。
「生き抜く覚悟は、とうに出来てる」
雨粒が直刃の上で弾け、細かな飛沫を散らす。
小刀を握る楓の拳に力が籠る。親指に巻かれた包帯に、じわりと血が滲むのが見えた。
俯いた彼女の頬に、濡れた髪が張り付いている。
「あなたを殺したいから、入天したんだもの」
楓は顔をあげ、こちらに一歩踏み出す。
彼女は笑みを浮かべていた。凄艶と言って良いほどの、美しい笑みだった。
「嘘の手紙まで書いて、家族も友達も置いてきて、それでも私はここにいるんだもの。あなたが仇じゃなきゃ、私、困っちゃう」
幼い物言いで、楓はくすくすと小さな笑い声を漏らした。
頼りない足取りで、楓はこちらに向かってくる。
ふと、紫呉は動きを止めた。
気配を感じる。
視線が突き刺さる。
ちりちりと焼けつくような視線が、背中を焦がしている。
視線の出所を探る。
意識を研ぎ澄ます。
どこだ、
どこにいる。
この気配、
この空気、
この視線。
これは、あの男のものだ。
紫呉は背後を振り仰いだ。
彼は、そこにいた。
樹の上にしゃがみ、膝に両肘をつき、面を思わせる無機的な笑みで紫呉を見おろしている。
彼は紫呉が気付いた事に対してか、少しだけ眉をあげて、驚いたような表情を浮かべてみせた。
彼の蜜色の髪は雨に濡れ、普段よりも僅かばかり濃度を増している。
だが瞳の色は変わらぬ。雨に濡れようとも、血に濡れようとも、あの色は決して変わりはしない。
そうだ。例えるならば、炎の赤より尚も紅い、紅緋の焔だ。
あの目はいつだって同じように、疎ましく燃える
紫呉は彼の名を呼ぼうとした。
だが出来なかった。
腰に、痛みを感じたからだ。
いや、痛みというよりも、ただ熱かった。燃える鉄板を差し入れられたのかとさえ思った。
強張る首を何とか動かし、背後を見やる。
楓がいた。薄く笑みを浮かべていた。
楓は紫呉の腰から刃を抜いた。
(抜いた?)
楓の手の中に、赤く濡れた小刀が有る。楓はいっぱいに目を見開き、手の中の小刀をじっと見つめていた。
そうか、刺されたのか。
刺したのか、
この女が、
こ
の
女、 が
紫呉は牙月を振りかぶった。
雨足は激しさを増してきている。