哭雨 17
どさ、と音を立てて男は倒れ伏した。男の指先が痙攣している。
男の胸を突く。動かない。死んでいる。死んでいるならそれで良い。
むせ返るほどの血潮のにおいだ。生臭く鉄臭く、芳しくも厭わしい。
ひいひいと震える呼吸音が鼓膜を揺らす。音の先には女の姿が在った。
紫呉の網膜が女の姿を捉えた。先程執拗に紫呉を打った女だった。
頬の筋肉が動くのを感じた。どうやら自分は笑ったらしい。
女は息を呑み後ずさる。見るからに女は怯えていた。
女の足は震え役を成さず、女は尻餅をついた。棍を股の間に挟み、ずるずると後ずさる。
先程まで愉しげに自分を打っていた女が、今は無様に震え、今にも漏らさんばかりに怯えている。
愉快だった。
一歩ずつゆっくりと、女との距離を詰める。
女はゆるゆると首を振り、意味を成さぬ音を口から発している。口の縁に唾液が張り付き、汚らしかった。
棍は濡れていた。血だ。紫呉の血だった。
あの棍が己の身を打ったのだ。あの女が、あの女の腕が己を打ったのだ。そう思えば、余計に側頭部の傷がじくじくと痛みを訴えるようだった。
胸に湧くこの感情は、きっと怒りだ。もしかしたら喜びなのかもしれない。分からない。何でも良い。
女は己を打った。打ち、殺そうとした。この先も己に害を成すかもしれない。成さないかもしれない。
だが何だって良い。邪魔だ。それに傷が痛む。この傷を与えたのはこの女だ。ならば排除するしかあるまい。
「た、たす
女の声を遮り、紫呉は女の眉間に切っ先を突き立てた。女の目が、己の眉間を確認するようにぐるりと上向く。
刃を抜く。首が上方に傾ぎ、遅れて体が倒れた。地に伏す前、女の頭が樹の幹にぶつかり、ごつんと音を立てた。
女が手にしていた棍が転がる。だが女の手はそれを追おうとしない。絶命しているようだった。
これで良い。これで、女はもう自分に刃を向けられない。
木の葉を踏む音がした。振り返れば、男が二人いた。
首を巡らす。二人以外に姿は無い。
二人の男は震えながら、紫呉をじっと見ている。荒い呼吸が耳障りだった。
男たちは互いに目を合わせ、それを合図に紫呉に斬りかかってきた。
喉が震えるのを感じた。やはり自分は笑ったらしい。
大きく踏み込む。もう脳は揺れていない。足取りもしっかりしたものだ。
横薙ぎの刃を跳んで躱す。大きく振りかぶり、叩きつけるように男の体を裂いた。
刃は男の眉間を通り、腹を通り、股間を抜けた。丁度男の体を二分にするように刃傷は走り、追って血が噴き出した。
男が倒れる。着地と同時に、横様から突きに襲われた。身を逸らし、そのままの勢いで地に手のひらをついた。
後転する流れに任せ、足の甲で男の腕を蹴り上げる。手から離れ落ちた刀を取ろうと、男は慌てて膝をつき手を伸ばす。
紫呉は素早く体勢を整え、柄を取った男の手を踏んだ。男がこちらを見上げる。昏い目をしていた。白目が充血していた。
男の首元へ牙月を振り下ろす。血が噴き出す。
悲鳴が臓腑を撫で上げていく。
ぞくりと背が震えた。
牙月が鳴いている。悦び、打ち震えている。
男の体が強張り、やがて力無く地に伏せた。紫呉は踏んでいた男の手から、足を退けた。
男の指先で、虫が死んでいた。紫呉の足に圧され、潰されたのだった。
一転、夜の森には静寂が落ちた。生ぬるく湿った風が、汗ばんだ肌を撫でていく。
呼吸音に首を巡らせる。だが屍以外に誰の姿も見つからず、自分の喉が立てている音だと気がついた。
そう知った途端、喉がヒュウと音を立てた。唾液だか血だか知れぬが、何かが喉に引っかかり派手に咳きこむ。
ひとしきり咽せ、口元を拭う。だが己の手の甲に付着した血が、口元をべったり汚しただけだった。
大きく吸い込んだ空気と共に、理性が忍び込んでくる。生臭く湿気た空気に、鼻の奥がツンと痛んだ。
辺りを見渡せば、屍の群れだ。握った牙月の切っ先から血が滴り、ぱた、と音を立てた。
胸がざわめいた。
だがこの情動を、後悔と呼ぶにはおこがましいような気がした。
ひふみ、と視線で屍の数を数える。数え終えた直後に、血で濡れた袂の重さを自覚した。
ぎゅうと絞る。もう片方も絞ろうとして、右の手に牙月を持ったままだった事に気がついた。
戻れと念じるが、牙月は言う事を聞こうとしない。嘆息して、左の手指を柄と手のひらの隙間に潜らせようとする。
だが、紫呉の手はぎっちりと柄を掴み離れない。
もう誰もいないと分かっている。追っていたあいつの気配だって感じない。なのに体は言う事をきかない。
屍が己を見ている。
紫呉は目を眇めた。
(……背けるな)
目を背けるな。
面を上げろ。
背負うと決めたんだろう。
生き抜くと、決めたんだろう。
奥歯を噛みしめ、屍の濁った眼球を見つめ返す。
屍の目が、己に語りかけてくる。
『どうだ、満足か』
『我らの肉の感触は悦かったか』
紫呉は肩口で汚れた顔を拭った。だが着物はどこもかしこも血で汚れ、結局着物の血が顔に付着しただけだった。
女に打たれた側頭部を始め、傷口が痛みを訴えている。体中が痛んだ。
戦うと、そう決めたのは自分だ。だから、傷を負う事は恐くない。怖いけれども恐くない。
紫呉は手の牙月を見た。右の手は、まだ意志に反して開かない。牙月はまるで紫呉の手の一部のように、ぴたりと手のひらにくっついて離れない。
牙月は刃も鍔も柄も血にまみれ、ぬらぬらと光っていた。だが牙月はまだ足りぬとでも言うように、震えて吠える。
仰向けば曇天が見えた。重く垂れ込んだ空は、いつもよりも近くに在るように感じた。
痛みは恐くない。
恐いのは、悦楽に呑まれる自分だ。
女の肉を断って、男の骨を断って、背筋に震えが走った。
あの震えは恐怖じゃない。嫌悪でもない。
快感だ。
紫呉は息を吐いた。
月は見えない。だが見えぬだけで、雲の向こうでは皓々と照っているのだろう。相も変わらず、桔梗も美しく咲いているのだろう。
きっと葉は瑞々しく生気に溢れ、茎はぴんと真直ぐに伸び、花弁は堂々と咲き誇っているに違いない。
柄を握る右の手指を、逆の手で離させようとする。
ぱき、と小さな音がした。左手の爪が割れた音だった。
そうだ。帰ったら、須桜にこの爪を治してもらおう。爪が割れていると、着物やら何やらに引っかかって何かと不便だ。
それに割れた爪で黒豆を撫でるとなると、毛が爪に絡んで痛い思いをさせてしまうかもしれない。となると、しばらく寄ってきてくれなくなってしまう。
腹も空いた。何か温かいものが食べたい。うどんとか蕎麦とかの類が良い。影虎に言えば、きっとすぐに作ってくれる。
そういえば、今日は雪斗は来ていたのだろうか。傀儡舞の参考に、と毎回祭には来ているから、きっと今日も来ていただろう。
紗雪はどうだろう。来ていたならば、雪斗と一緒に来ていたのだろうか。二人とも、騒ぎに巻きこまれずにいてくれたら良いのだが。
舞を見に行く、と崇は言っていたが姿を見かけなかった。屋台が忙しかったのだろうか。いや、単に自分が見つけられずにいただけかもしれない。
洋は、今日の事をどう記事にするのだろう。次に会った時に、またぐだぐだと嫌味を言われるに違いない。まあ、仕方が無い。
莉功は今頃、事後処理に追われているだろう。影鷹が狙撃したあの女あたりに、尋問している最中かもしれない。
己の姿を見たら、青生は傷の手当をしたがるに違いない。影亮はきっと、呆れた顔で心配してくれる。
ほんとあんた何者なの何やってる人なの、と浅葱は訝しげな顔をするだろう。次に、まあ金払うなら何でも良いけど、とでも言いそうだ。
帰ったら、由月は何と言うだろう。汚い姿だね、と少し困ったような顔で、優しく笑ってくれるだろうか。
父と母は、何と言うだろうか。兎にも角にも、二人ともまずは溜息をつくだろう。その次の言葉は予想がつかなかった。
じんわりと手指の力が緩む。小指から順に指を開かせ、牙月を逆の手に移す。紫呉は、右の手を何度か握ったり開いたりを繰り返した。
手指が己の意志で動くことに、安堵を感じた。まだ強張っているものの、何とか動きはする。
右の手のひらには、くっきりと爪の痕が残っていた。その爪の、爪と肉の間には血が流れ込み、固まりかけていた。
紫呉は牙月を利き手に持ち直し、振り下ろして刀身の血を払った。
戻れと命じようとしたその時だ、背後でかさりと葉を踏む音がした。
数間先の樹の影に身を寄せて、こちらを見つめる女がいた。
彼の女は、吉村楓だった。