哭雨 15
紫呉は下手に在った。
舞台にはすでに楽隊が座していた。張り詰めた空気がこちらまで伝わってくる。
舞台までまっすぐ続く石畳には、両脇に石灯籠が立ち並ぶ。
石畳には人々がひしめいていたが、落ちた暗がりのせいで姿はあやふやだ。ただ真黒い塊がざわめきを生み出しているように見えた。
空に落ちた帳は夜。重く垂れ込んだ曇天には、星も月も見あたらない。
湿気こむ空気を風が揺らす。楽隊がそれぞれに楽器を構えた。
途端に人々のざわめきは消え、静けさがぴんと満ちる。在るのは風に揺れる木々の音だけだ。
やがて、高い笛の音がヒィと夜を裂いた。
後方から一つ一つ、石灯籠に灯が点る。石灯籠の中、蝶灯がゆらりゆらりと羽ばたいていた。
ほどなくして灯が舞台まで届いた。鈴がシャンと鳴る。
その音と共に、紫呉は舞台へと摺足を運んだ。身の周囲に蝶灯を纏わせ、両の腕をすぅと広げる。
どん、と踵を踏み鳴らせば、笙の音色が天へと立ち昇る。
笛は高く響き、重なった笙竿の音色はどこまでも透き通り音々を包み込む。
太鼓は深く空気を震わせ、数多に集った音の束を鼓が導いた。
逆の指の先に添え扇を開き、円を描くように舞台を摺り歩く。
鈴の音に合わせ扇を持ち替え、ひらりと舞っては踵を鳴らした。
扇を閉じて振り下ろす。閉じた扇は刃に見立てられ、豊穣の邪魔をする災厄を断ち切るという。
扇を広げてくるりと回す。開けた扇は柔風に見立てられ、穀物へ豊穣を呼び込み誘うという。
石灯籠の蝶灯に照らされ、人々の顔が闇にぼんやりと浮かんでいた。
さて、いったいどこに破天は潜んでいるのか。この群衆のどこかに必ず身を隠しているはずだ。
舞台上から目を光らせる。しかしそれらしき気配は掴めない。
ふとその時、紫呉は客の中に異彩を見つけた。
白の単に黒の洋袴。腰には帯の代わりに皮の腰帯が巻かれている。
闇の中でも蜜色の髪はひときわ目立った。左の目は伸びた前髪に隠れて見えない。
蝶灯の薄明かりに照らされた白面に、彼は薄く笑みを浮かべていた。
紅緋の眼が、紫呉を捉える。
紫呉に走った動揺を悟ったのか、彼は目をゆるりと伏せた。
紫呉は舞も忘れ、ひたすらに彼の姿を見つめていた。
須桜の笛の音が少しばかり乱れた。紫呉の異変に気付いたのだろう。
群衆にも不審がる声が広がる。波のようにざわざわと声がこちらに押し寄せてくる。
紫呉の視線の先で、彼は笑みを深めた。
それと同時、爆裂音が鳴り響いた。群集が悲鳴を上げる。
爆竹だ。屋台の方角から、止む事無く次々と爆ぜる音が続いている。
壱班が警笛を鳴らす。また別の方角で爆竹が爆ぜた。
慌てふためく群衆の中、彼は変わらず腕を組んでこちらを見ている。
そして紫呉は気がついた。彼とはまた別、離れた位置に何の動揺もしていない男がいる。
男は懐から小刀を取りだした。大きく振りかぶる。爆竹は陽動か。
小刀がこちらに飛んでくる。避けてはいけない。避けては楽隊に当たってしまう。
紫呉は扇を広げた。扇で小刀を受け止めようとした。
しかし無用だった。小刀は紫呉に届く前に、矢に打ち落とされた。由月が射たのか。
壱班に拘束された男が何かを叫んでいるが、ざわめきに飲まれて声はこちらまで届かない。
舞台に転がる小刀を須桜が拾い上げる。爆竹の音も悲鳴も未だ止まない。
紫呉は舌を打った。視線の先で、彼が笑顔で小さく手を振ったからだ。
歯噛みする。彼の背が、群衆に紛れ消える。
紫呉は舞台の裏手に駆けた。剥ぎ取るようにして面を投げ捨てる。
衣装も脱ぎ捨て、彼を追った。呼び止める須桜の声がした。
逃げ惑う人々が邪魔だ。押しのけるようにして彼の姿を探す。
だが見つからない。汗が頬をつたう。この汗は暑さだけの所為ではない。
途端、人々の悲鳴が膨れ上がる。金属的な悲鳴が鼓膜を打った。
視線を巡らせれば、幼子を腕に捕らえた女の姿が見えた。親指に包帯を巻いている。
その幼子には見覚えが有った。先程紫呉にぶつかった、あの子供だ。
幼子の顔は恐怖で引きつっている。女は空いた手を懐に伸ばした。
だが女の手は懐を漁る事無くだらりと落ちた。銃声と共に、女の腕には紅い穴が開いた。
影鷹が狙撃したのだ。女は叫び、撃たれた腕を押さえる。赤官が女を捕縛した。
呆然としている幼子を、紫呉は抱え上げた。適当な壱班を引きとめ、幼子を預ける。
恐慌する人々を壱班が誘導している。砂埃に視界が霞んだ。
ぼやけた視界の隅に、蜜色が映る。蜜の髪がふわりと揺れる。
見紛う事はない。あの眩い金。あれは、彼の髪だ。
彼は紫呉を導くように駆けていく。紫呉はその背を追った。
罠だろうとは分かっている。しかし追わずにはいられない。
彼の背は群衆を抜け、街道を抜け、森へと消えた。
闇の落ちた森は、しんとひそやかだ。
紫呉は足を止めた。首を巡らせるも、彼の姿は見つからない。
汗を拭う。乱れた呼吸を整える。意識を研ぎ澄ます。
そして、紫呉は嗤った。
「出てこい」
剣呑な気配が自分を取り囲んでいる。
やはり罠か。
数は五。いや、六……七……、まだ在るか。増える足音を数えつつ、紫呉は彼の気配を探る。
だが彼の気配は感じない。巧妙に隠れているのか、それとも既に姿を消したか。
自分を取り囲んだ男女は、皆一様に親指に包帯を巻いていた。親指の爪と共に手紙を送りつけてきた、破天の輩か。
彼らの手にした得物が鈍く光る。その凶暴な光に、紫呉の心臓は昂った。
彼らはじりじりと輪を狭めてくる。ぱきりと小枝が折れる音がした。
「……起きろ牙月」
紫呉は左手首の黒器に手を伸ばした。水晶の数珠を抜き取り、一振りの打刀に変じさせる。
緋鞘のそれを腰に差し、鍔に親指をかけた。柄を握れば、慣れた感触が手のひらに馴染む。
男が声を上げて斬りかかってくる。鯉口を切り、抜き様に斬り伏せた。
「餌の時間だ」
ど、と鈍い音と共に男が倒れる。
頬に男の血が飛んだ。
喜悦に満ちた牙月の咆哮が聞こえた気がした。