哭雨 14
紫呉は須桜の手首を掴み、手のひらを無理やりに引き剥がした。須桜は抵抗したが、やがて諦めて大人しく手を下ろした。
「ほら、早く来なさい」
ついて来いというように、由月は二人に背を向けた。後を追おうとした紫呉だが、ふいに由月が足を止めたので、ぶつからぬよう慌てて足を止めた。
「須桜」
「はいっ!」
由月の声に、須桜は萎縮してぴんと背を伸ばす。由月は、それはもう楽しそうに笑っていた。
「お前の笛を楽しみにしているよ。せっかくの機会だ、お前は中々の吹き手なのだから、集まった民草にせいぜい聞かせてやりなさい」
笑み交じりの由月の声に、須桜は見るからにぎしりと硬直した。口を固く引き結び、何度もこくこくと頷く。
須桜の強張った頬に冷や汗がツゥとつたったその時、楽隊が彼女に声をかけた。須桜はその声に大仰に肩を跳ねさせた。
一礼し駆けて行くその背を、由月は肩を揺らして眺めている。
「……兄様」
「何だ」
「……いえ。意地の悪いお方だと」
紫呉の皮肉など気にした様子も無く、むしろそれすら楽しいというように、由月は扇子を口元に添えて笑った。
「しかし、須桜も言っていたが何故お前はそんなに普通なんだい。面白くない」
「……まあ、そこそこには緊張しておりますが」
「そこそこか。からかい甲斐の無い」
そう言った由月の横顔は、心底面白くなさそうだった。表情に出ぬ質で良かったとつくづく思う。
本当は、紫呉だって緊張しているのだ。須桜の言う様に普段は舞などせぬし、人前に出る事だって慣れていない。
だのに、失敗は許されない。もし自分が失態を見せれば、それはすなわち由月の失態となる。いくら洋が記事で手助けしてくれているとは言え、それに甘えるわけにもいかない。
それに、破天の手紙の事も有る。いつ、どこで、どのように破天が行動を起こすか予測もつかぬ。
影虎も、まだ帰ってこない。
それら全てを誤魔化すように、須桜をからかって遊んでいたは良いが、今更に悪い事をしたと思う。緊張の余り失敗しなければ良いのだが。
まあ、大丈夫だろう。須桜が自分に、ひいては如月に恥を掻かせる真似など、しようはずも無い。
「ところで兄様」
二人を見とめ、紫官が駆け寄ってくる。
「兄様は、舞の間はどこにいらっしゃるのですか?」
慣れぬ事なので勝手が分からない。紫官は紫呉の体に黒の晴れ衣装を添えて寸法を測っているようだが、どうすれば良いのか分からず慌ててしまう。
「私は影鷹殿たちと共にいる。ほら」
「あ、はい」
袴の紐を解かれ、落ちた袴から足を抜いた。由月は紫呉の黒の単の、胸元の辺りを軽く叩いた。ちょうど、小刀などを収めている辺りだ。
「これは、着替えずいた方が良いか」
「それで良いのでしたら」
「どうせ見えんのだから構わんさ」
代わりに渡された、豪奢な刺繍の施された袴を身につける。澪月に着るには少々分厚い。
単の上からは更に数枚を重ねられた。風通しの悪さに辟易した。
他にも足袋やら何やら何から何まで黒の晴れ衣装に整えられ、髪も綺麗に梳られ、全ての着替えが終わった頃には、紫呉は異常にぐったりと疲れていた。
「……改めて、兄様を尊敬します」
「ほう」
紫呉は縁台に腰を下ろし、膝に肘をついて項垂れた。手扇で風を送る紫呉を見かねたのか、由月が扇子でそよそよと扇いでくれる。
「……敬い尊び礼をつくします」
「言い方を変えただけだろうに」
隣に座った由月が腕を組む。風がやんだのを少し惜しく思ったが、兄の横顔には冷ややかさが浮かんでいる。もっと扇いでくれなど、到底言い出せる雰囲気では無かった。
「さて、破天はどう出るやら」
そう言った声も冷ややかだった。
裏手に在していた赤官や壱班も、それぞれ配置につくため移動を始めている。
紫呉は懐に手を入れた。すぐに取り出せる位置に小刀が有るのを確認する。指先に触れた慣れた感触に、安堵を誘われた。
由月が懐から小刀を取りだした。鞘を払い、指の腹に刃をあてがう。少しの逡巡の後、由月は刃を指から遠ざけた。
「こちらを向きなさい」
声に従い、体ごと由月に向きなおる。
「汗で流れてしまうだろうから」
苦笑交じりに指先に口づけを落とし、その指で紫呉の額に如月の紋を描く。それもそうだと、紫呉も苦笑した。
「どうかお前に、如月の加護があらん事を」
次いで由月は、小刀で指の腹を裂いた。指に滲む血を舌で拭いつつ、血で濡れた刃先を紫呉の口元にあてがう。
随分と婉曲した加護の施しだ。ついでに言えば物騒でもある。紫呉は間近で鈍く光る刃に視線を落とした。
「無論、私自身も助力は惜しまない。お前に害をなそうという者は、悉く射殺してやろう」
「お言葉、ありがたく」
紫呉は舌を傷つけぬよう注意を払い、刃を濡らす由月の血を舐め取った。ぬるりとした感触と共に、鉄錆の味とにおいが口中に広がる。
「……ですが、兄様のお手を煩わせては爪牙の名折れ。お心だけありがたく」
「……ふん」
由月は鼻で笑い、小刀を鞘に収めた。
「たまには兄ぶってみようと思ったのだがね。まあ良い、そもそもお前の意見を私が聞き入れる必要なぞ無いさ。好きにやらせてもらうよ」
「はい」
不機嫌を装った兄の声音に、ひそやかな苦笑が思わず漏れた。それを見た由月は、扇子でべしりと紫呉の脳天を叩く。そして、痛いと漏らした紫呉に満足そうに笑った。
脳天を撫でる紫呉にひらりと手を振り、由月は立ち去った。影鷹の所へ行くのだろう。
由月の姿が薄闇と一体化した森へと消える。森は湿気た風に揺れ、ざわざわとささめいていた。
紫呉は目を閉じた。瞼裏に訪れる暗闇に意識を集める。
長く息を吸い込み、同じだけ時間をかけて細く息を吐く。数回繰り返せば、緊張が薄らいでいくようだった。そしてその分、集中は高まっていく。
乱髪飾りのついた狐面と、扇子を手に紫官がやってくる。されるがままに整えられながら、紫呉は意識を研ぎ澄ました。
こちらへ、と紫官に導かれる。