家族哲学 7
華芸町の香具師たちは見世を仕舞い始めていた。今まで見世の前で足を止めていた客は、帰り支度を始めている。もしくは隣の区、愛染街へと足を運び始めている。
紫呉は薄暮の中、目的地を目指し人の間を縫って歩いた。
ある長屋の一軒、立て付けの悪い引き戸に手をかけ、ふと思いとどまる。そういえば先日、合図をしてから開けろと怒られたのだった。
「もしもしー。もしもーし雪斗ー」
紫呉は戸を叩き声をかける。だが返答は無い。気配を感じるから留守ではない。
ならば、と戸を引く。怒られてもそれは無実の罪だ。自分は雪斗の言う通り、きちんと合図をしてから開けたのだから。
「……どうしたんですか?」
「無理だ……オレ……もう無理だ……」
雪斗は傀儡師の黒子衣装のまま、部屋の中央で横倒しに寝転んでいた。どんよりとした空気が不気味だ。
「何かあったんですか?」
「何もねえよ……ねえのに……何で上手くいかねえんだよ……」
ぶつぶつと覇気の無い声で言いながら、雪斗は側の傀儡に手を伸ばす。
「何でだよもー……機嫌直せよ
雪斗は嬢を抱きしめ、ごろりと寝返りをうった。そして紫呉の姿を見るなり、大きく三白眼を見開く。
「ケガしてんじゃねえか」
「ああ……はい。少しね」
紫呉は青くなった頬を軽く撫ぜる。腫れはもうほとんど無いが、まだ少し痛みは残っている。
ふうんと頷き、雪斗は身を起こした。
「……別に、心配なんかしちゃいねえけど」
雪斗はぷいと顔を背け、赤銅色の髪を乱した。
「そんなに大変だったのか?」
「……いえ、さほどは」
先日の『里炎組』の騒動は、どちらかと言えば面倒で大掛かりのものだった。だが、素直にそれを告げて無闇に心配をかけさせる必要はない。
紫呉は開け放したままだった戸を閉め、草履を脱いで部屋にあがった。
「……ウソつけ。お前がケガしてんだ。『さほど』なわけねえだろ」
「…………須桜は無傷ですよ?」
「な……っ、バカ! 言ってねえしそんな事!」
雪斗は顔を真っ赤にして掴みかかってくる。が、伸ばされた手は紫呉の胸元を掴む前に止まった。
「気にしてないかもしれませんが……。須桜も影虎も無傷です。もっと気にしてはいないかもしれませんが正直に告げると、僕は顔以外に腕と脚に、あとは腹ですね。それも、……もう痛み止めもいらないほどに回復しています」
「……別に、聞いてねえし……」
雪斗は手を下ろし、そっぽを向く。憮然としたその横顔を、紫呉は暖かい思いで見やった。
先日得た傷は、ずいぶんと回復している。痛み止めが全くいらないと言ったのは嘘になるが、日常生活に困難は感じない。
と、須桜にも告げているのに須桜はまだ心配げだ。その所為か、……その所為だという事にしておくが、頻繁に寝所に通ってくる。
それに、……それにという事にしておくが、傷の様子も見たがる。もう傷もずいぶん治ったし、須桜に診てもらうほどではないのに。
心配してくれるのは有難い。だが、過剰な心配は少しばかり疎ましい。
自分がそう感じている事を影虎は察しているのだろう。だから須桜を遠ざけた。
自分を想ってくれているのは嬉しく思う。だがやはり、少し疎ましくもある。
いや、本当に疎ましいのは心配をかけさせている自分自身だ。怪我を負ったのは、自分自身の力量不足の所為なのだから。
「つか、何だよ今日は。何か用か?」
がしがしと髪を掻き乱し、雪斗は視線を背けたまま言った。紫呉は雪斗の前に座った。
「ええ。少し、聞きたい事があります」
「オレに?」
「はい。……傀儡の作成時には有機溶剤を使用する時もありますよね?」
「使うけど……。それがどうかしたか?」
「雪斗はいつも何処で購入するんですか?」
「オレは……っつーかオレらみてえな香具師は皆香具師の組合に入っているから、そこで買うけど」
「組合、ですか……。それは、そこに行けば僕でも購入は可能ですか?」
「や、ムリだな。組合証持ってるヤツじゃねえと……っつーか、何でそんな事……」
言いさしで雪斗は、はっと息を呑んで慌しく首を振る。
「吸うなよ! ぜってー吸うな! 良い事一個もねえからな!」
「いえ、僕は……」
「歯は融けるは脳みそ変になるわでマジ良い事無いからな! 良いな!? 絶対吸うなよ!!」
「…………………………………………はい」
雪斗の勢いに押される形で、紫呉は半ば呆然と返事した。
「何でいきなりあんなもんに興味持ってんだよ? 何か有ったか?」
「いえ、あの、僕自身に何かが有ったというわけでは無いんですが……。その、仕事上……」
「使うのか? 使う時気ぃつけろよ?」
「いえ、あの、使うわけではないんですが。その、仕事上、香具師以外の人間の入手経路が知りたくてですね……」
「香具師以外の人間の……」
「入手経路」
雪斗の語尾を補足し、紫呉はこくりと頷く。
雪斗は、あーと意味の無い母音を発し、赤い顔で気まずそうに目を逸らした。
「……さっさとそう言えよ」
「すみません」
「まあ別に良いけどよぉ……。香具師以外がどこから買うかって?」
「そうです。組合証が無ければ購入不可という事でしたら、組合証を持たぬ者はいったいどこで購入するのですか?」
雪斗は腕を組み、唸りながら首を捻った。
「他の地区がどうなのかは知らねえけど……。とりあえずこの付近じゃ、組合証を有料で貸してる奴がいるな」
「有料で」
「ああ。それか、自分が買った分を横流しするかだな。禁止されてても、それでもやっぱ楽に金儲けできるから横流しする奴はいっぱいいる」
「なるほど……」
おそらく、保護舎の少女もそういった経路で入手したのだろう。
香具師に、それも傀儡師など、制作に携わっている香具師に接触し、彼らから購入する。金さえあれば特に難しい事もない。……金も、愛染街にいれば身一つで稼ぐ事ができる。
「オレも、何回か中毒者っぽい奴に声かけられた事あるよ」
「……雪斗は」
売ったのか?
そう聞こうとして、紫呉は口を噤んだ。聞かずとも分かる。いくら金に困ろうとも、雪斗ほど清廉な者がそんな事をするはずもない。
「何だよ」
「いえ……。雪斗は、良い人ですね」
「はあ?」
思い切り嫌そうに顔を顰める雪斗に苦笑し、紫呉は立ち上がった。
「ありがとうございます。邪魔をしましたね」
「あー……うん、そうだな。全くもってそうだな」
犬猫を追い払うように手を振られ、戸口に追いやられる。背を軽く押され外に出されると、すぐに背後で戸が閉まった。
が、少しばかり戸を開き、雪斗は目を覗かせた。
「……どんな仕事か知らねえけど、あんま無茶すんなよ」
「…………はい、ありがとうございます。雪斗こそ、あまり根を詰めないように」
ふんと鼻を鳴らし、雪斗はぴしゃりと戸を閉じた。
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