家族哲学 6
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有刺鉄線の張られた塀に登る。懐刀を取り出し、一部分を切った。
皓々たる月夜だ。月の『影』を冠する己だが、こんな時ばかりは少しその光を疎ましく思う。
影虎は吉江邸の木立に身を潜めて様子を窺った。
門番は夕方の男と入れ替わっていた。
今のところ確認が取れているのは門番の一人と庭の警備の二人。周期的に入れ替わっている。総勢何人かはまだ分からない。
本邸の奥に別棟がある。警備員の詰め所だ。警備頭の田中はそこに詰め、警備員達を纏めている。
影虎は懐に収めた小刀の中、一番小さな物を取り出し口に咥えた。
こうしておけば、もしうっかりとドジを踏んでバレた時に攻撃されても、声を抑える事ができる。ついでに反撃にも出やすい。
そしてその上から覆面をする。顔を見られる予定なぞ立ててはいないが、念には念を、だ。
身を潜めた木立の前、警備員が通り過ぎていく。手に持った提灯に照らされた顔は、夕方とは別の顔だ。
(さて、と)
足音と灯りが遠ざかっていくのを確認してから、影虎は行動を開始した。
詰め所に向かい、屋根裏に潜む。小屋組に張った蜘蛛の巣を手で除ける。
音を立てぬように這いながら、下から漏れてくる光を目指した。
そこに張り付き、影虎は下を覗いた。
眼下では、田中が金の勘定をしていた。蒼貨、金貨、銀貨、銅貨、それぞれを分けて横一列に並べている。
田中は四十がらみの細身の男だ。鉤鼻とぎょろりとした大きな目が目立つ。
田中の周囲には男が三人。夕方に見た門番と、庭の見回りをしていた男だ。
(って事は、田中を除いて外は合計六人か?)
田中は蒼貨の並びを節の目立つ人差指で、すうるりと一撫ぜし、とろける様に笑った。
そして口笛を吹きながら、大振りの財布に一枚一枚仕舞っていく。
「浅野戻りました!」
詰め所の戸が開き、青年が二人駆け込んでくる。手には紙に巻かれた何かを持っていた。
金を仕舞う手は止めず、田中は視線だけを戸口に流した。
「おお、遅かったな」
「すんません。何かさっき渡したとか渡してないとかで、ちょっといざこざしまして」
浅野と名乗った青年はブツを田中に渡して首を捻る。
「何だそりゃ? あいつとうとうボケたか?」
「そうなんですかねえ……」
眼下のやりとりを眺めつつ、思わず影虎は失笑した。もちろん声を立てずにだが。
紫呉が接触した売人と田中はやはり繋がっている。
「んで、そいつは誰だ?」
と、田中は浅野の背後の青年を顎で示す。
「こいつは俺の友人でして。最近金に困ってるみたいなんで、良かったらしばらく一緒させてやっても良いですかね?」
浅野の後ろで青年は申し訳なさそうに頭を掻く。
「お前が面倒見るなら別に構やしねえが。あと、金はそんなに払わねえからな」
田中は財布に頬ずりをした。青年は上擦った声で礼を述べ、頭を下げた。
(ふーん……)
眼下では新入りの自己紹介が始まっている。
影虎はその様子にじっと目を凝らした。
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何かが側にいる。
覚醒と同時に知覚した。
身を捩ると、ふわりと何かが鼻先を掠めた。
髪だ。僅かに灰色がかった薄茶の髪。
「……何故ここにいますか」
いつの間にやら布団に忍び込んだ須桜を、紫呉はごろりと転がして引き剥がす。
「んー……おはよう紫呉ー……」
「共寝を命じた覚えはありませんよ」
聞こえているのかいないのか、須桜はまだ眠たそうに目を擦っている。
(全く……)
いつの間に忍び込んだものやら。自分に気付かせなかったのは褒めてやりたいところだが。
「だって一緒に寝たかったんだものー……」
「僕は嫌です」
「だってその日の最後に見るのが紫呉で、寝てる間も一緒で、起きて最初に見るのが紫呉って素敵だものー……」
「僕は最初に須桜を見たくありません」
もう一度布団に潜り込もうとする須桜を押し返す。意識がはっきりしてきたらしい須桜は、頬を膨らまして不満を訴えた。
「良いじゃない、ケチ」
「ケチじゃありません。当然の権利主張です」
紫呉はきっちりと折りたたまれた、枕もとの着替えに手を伸ばした。昨晩影虎が用意しておいてくれた物だ。
しかし、久しぶりにすっきりと目を覚ます事ができた。熟睡時の目覚めの悪さを自覚している紫呉だ。普段なら目を覚ましていても、覚醒するまでもう少し時間がかかる。
その点においては須桜に感謝すべきなのだろうが、決して礼は述べてやらない。
「ほら、着替えるんで出ていって下さいよ」
「え、何で?」
「……着替えるからです」
無理やり襖の外に須桜を押し出し、紫呉は勢いよく襖を閉めた。棒を立てて開かぬようにする。
別に見られて困るものでもないが、だからといって見られて愉快なわけでもない。ならば見られない方が良い。
がたがたと襖を開けようと奮戦していた須桜だが、やがて静かになった。
ふうと一息ついて、紫呉は夜衣を脱ぎ落とす。
「いや待て須桜、襖破壊はやめろ。どうせ直すの俺なんだからさ……」
何やら不穏は台詞が聞こえてきて、紫呉は脱いだばかりの夜衣をもう一度身につけた。
つっかえ棒を取り払い襖を開けると、影虎に捕獲された須桜の姿が有った。
「もー……何でお前はそう我慢がきかねえの……」
「だってあたし自分の気持ちに嘘はつけない」
「んん、良い台詞だ。でもやめとけ」
「……とりあえず、礼を言います影虎」
「いいえー。おアツイ夜を過ごしたようで?」
からかう声音の影虎には、ただ無言で睥睨を返す。須桜から手を離し、影虎は腕を組んだ。
「報告。例の田中氏は紫呉が接触した売人から大麻を購入してるみてえだ」
紫呉は一つ頷き、部屋に入るように示す。
「報告二。門番は一人。庭番は二人。周期的に入れ替わってる。外の警備は今のところ確認できてるのは合計で六、いや、七か? 新入りが一人増えた」
布団をたたみ、それに背を預けるようにして座る。その前に影虎と須桜は二人並んで座った。
「報告三。田中は奥の詰め所に詰めてる。交替した休憩中の警備員もここにいるみたいだな」
影虎は顎を一撫でし、首を捻った。
「吉江本邸にはまだ入ってねえ。だから、田中と吉江のつながりがどんな物なのかは、まだよく分からない。田中が売人から大麻を買ってるのは確実だが、それと今回の少女誘拐云々と関係があるのかも分からない」
「ですが、吉江本邸に何か隠されているのは確実なんですよね?」
「ああ。あの掃除夫のおっさんの様子からするとな」
「でもそれが、今回の件と関係あるのかどうかはまだ分からない、と」
「そうだな。今度中に入った時に全部分かってくれりゃ良いんだが。……あ、報告四。屋敷の塀の西側んとこの有刺鉄線の一部は撤去済み。こいつが本星だった時の為に一応な」
「了解しました。……では、影虎はこのまま吉江・田中の周辺を探って下さい。僕と須桜は吉江・田中の周囲を探ると同時に、他の者が星である可能性を探り動きましょう」
「おー」
「了解」
「……っと、報告五。警備員達の繋がりは希薄。ってかすげえ適当。金での繋がりって感じだな」
影虎はうんと伸びをし、大きな欠伸をした。
「ぅあー眠ぃ。んじゃ俺一回寝るわ」
「はい。お休みなさい」
欠伸をしながら自室に向かう影虎が、あ、と声を上げて振り返った。
「そういやお前ら朝飯食った?」
「いえ、まだですが……」
「んじゃ何か作っといてやるよ」
「……休んでも結構ですよ?」
「俺が寝てる間お前らに働いて貰わんとだからなあ。良い朝飯は一日の源だし。おら須桜、手伝え」
「え、やだ面倒臭い」
「……正直は美徳と申しますケドねー」
影虎は須桜の腕を掴み、ずるずると引きずって炊事場に向かう。
角を曲がりしな、ちらりと視線を寄こされた。それに手を軽く上げて返事をする。
(お気遣い痛み入りますよ)
襖を閉め、ほっと一息つく。
ようやく紫呉は夜衣を脱ぎ、着替えに手を伸ばした。