家族哲学 12
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影虎は矢口の札を確認する。他の掃除夫の札を眺め、矢口の札を取った。
(青い札が出席って事か?)
茶、青、赤の三種類の札から青の札を取り出し、それを一番上にして札をかけ直した。
周囲の見よう見まねで道具を用意し、吉江邸へと向かう。
常はかけぬ眼鏡の所為で、何だか眉間がむず痒い。ついでに言えばぴっちりと後ろに撫で付けた髪のおかげで、額を撫でる風が不思議な心地だ。
別に姿を変じる必要は無いが、この後高確率で襲撃が予測されている屋敷に面から忍ぶのだ。素顔のままは流石に躊躇われる。
門番が鋭い視線を寄こす。それに萎縮した風を装い、影虎は小刻みにお辞儀を繰り返した。
「すんません、俺、矢口さんの代わりのもんなんですが」
ご丁寧に声まで変えておく。
「……矢口はどうした?」
「急病っす。あ、俺は影山政虎って言います」
どうぞご贔屓に、と手を差し出す。だが門番は手を取らず、仏頂面のまま門を開けた。
「おや、こりゃあ失礼しました」
差し出した手を気まずそうに振りながら、影虎は門を潜った。
門番は特に怪しんでいない。名を名乗ったのが効いたか。
門番が玄関口の警備と話している。玄関口に立った男が手招きをした。
それに会釈を返し、影虎は押し車を押してそちらに向かった。
警備の男に見守られながら、影虎は中に足を踏み入れる。
「いやあ、何か緊張しますねえ」
きょろきょろと辺りを見渡す。
「何でだ?」
「やっぱ初めてのお屋敷ですしねえ。それにこんなでっかい所は今まで勤めてきて初めてなもんで。警備の方に見守られながら掃除するのも初めてなもんで」
慣れぬ素振りは緊張しているからだと言い訳をすると同時に、今までも仕事はこなしてきたのだと主張する。
「しかしほんと、でっかいお屋敷ですねえ。警備の方もこんなにいっぱい。吉江さんはおすごいんですねえ」
警備が何か口を滑らさないかと軽口を叩く。
「黙って働け」
「おや、すんません。よく言われるんでさあ。お前は無駄口が多いってね」
頭を掻き、影虎は口を噤んだ。
はたきをかけながら、釘の甘い天井を探す。
ぞうきんをかけながら、釘の甘い床板を探す。
塵箱を清めながら、何かおかしな物が捨てられていないかを確認する。
(しかしさっすが俺)
屋敷内は見取り図とほとんど相違ない。
「おい、お前ら捨てるもん無いか?」
屋敷の東、襖を開くなり警備が声を張る。
襖の奥には男が三人。
(ここが屋内の詰め所か)
中にいた男が塵箱片手にこちらにやって来た。
「あれ、初めて見るな」
「あ、俺矢口さんの代わりでして。影山政虎って言います。多分次までには矢口さんの病気も治ってるだろうから、今日だけなんすけどよろしく」
へらりと笑って手を差し出す。塵箱が渡された。
「いやあ、中々にお厳しい」
笑いながら、塵箱の中身を押し車の中の袋に移動させた。
(玄関口に一人。ここに三人。あと何人だ?)
詰め所の三人は、座卓の周囲に寝転び、各々に好きな時間を過ごしていた。これなら襲撃も容易い。
警備に見張られながら、屋敷の北の奥に向かう。
北の奥、襖の前には男がいた。これで五人目。
「見ない顔だな」
「ああ、俺矢口さんの代わりでして。影山政虎って言います。あっはは、この台詞もちょっと言い飽きましたねえ」
襖に手をかけると、警備の男がそれを制した。
「おや、どうしたんですか?」
「……そこは、汚いからな」
「いやいや、汚い所を綺麗にするのが俺ら掃除夫のお仕事ですから」
ご遠慮せず、と影虎は笑いながら襖を開ける。警備の男は慌てる。
「あら、女中さんですかい?」
「…………ああ」
男の目が泳ぐ。嘘をつくならもっと堂々とつけば良いものを。
「ちわっす。俺矢口さんの代わりの影山政虎って言います。いやあ、今日だけってのが残念だなあ。せっかくこんなに綺麗なお女中さんがいる所なのに」
牢の鍵はおそらくこの男が持っているのだろう。
牢の鍵は簡単な作りだ。いざとなったら破壊して抜け出せるだろう。
木格子の向こう、三人の少女がいた。一人はもちろん須桜だ。
須桜は膝をかかえ俯いていた。膝で隠れて見えないが、おそらくは笑っている。似合わぬ眼鏡と髪形を笑っているのか。それとも変えた声音を笑っているのか。
「何か捨てるもん有りますか?」
格子に手をかけて覗き込む。長い髪をした一番年長の少女は、無表情にこちらを見上げてきた。黒髪の少女は部屋の隅に座り込んだまま微動だにしない。
二人とも特に健康状態に支障はなさそうだ。
「特に無いんでしたら俺はこれで」
ちらりと須桜を窺う。須桜は影虎の背後の警備に視線を投げかけた。
ふいに立ち上がると、その男目がけて須桜は何かを投げつけた。
痛、と男は小さく呻く。その足元に、丸められた紙が転がった。
「死んじゃえ馬鹿」
須桜は吐き捨てる。
影虎はそれを拾い上げ、押し車の中の袋に投げ入れた。
「おや、痴情のもつれですか? ……っと、睨まないで下さいよ。また軽口が過ぎましたかね」
ご勘弁を、と両手を挙げる。男は忌々しげに須桜を睨みつけた。ふんと鼻を鳴らして踵を返し、乱暴に襖を閉める。襖の前の警備が不審な顔をした。
「いやあ、別嬪さん揃いですね。俺もこんな所で働きてえや」
「うるせえぞ! 黙ってろ!」
「あいや、何べんもすんません」
男は拳を固める。影虎は首を竦め、深くお辞儀をした。
「もう今日は良い。帰れ」
「いやあ、でもまだお部屋が残ってるんですが?」
屋敷の西側の部屋を指差す。部屋の前には警備がいた。
「あそこは別に良いんだ! 良いから帰れ!」
「そんな怒らないで下さいよ。怖い怖い」
となると、あの部屋は吉江の部屋か。
男は顔を真っ赤にしている。鼻息荒く、影虎は玄関へと追い立てられた。
「……ねえ旦那ー。俺の家ね、両親が死んじまって、叔父と姉との三人暮らしなんすよ」
「……それが何だ」
「いやあ、まあつまり生活が苦しくってですねえ」
「強請ろうってのか?」
「……おや。強請られるような事情でもお有りで?」
にやりと笑って見上げると、男はぐ、と言葉に詰まってあちらこちらに視線を彷徨わせた。
「何も強請ろうってわけじゃない。言ったでしょ? 俺もこんなところで働きてえやって。口きいてくれませんかね?」
男の視線は定まらない。
「……俺じゃ、それは決められない。田中さんがいないと……」
「へえ。その田中さんってのは今どこに?」
「今日は、夜しかいない」
「なるほど」
く、と影虎は喉の奥で笑った。
「……では、今日の晩にまた」
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