家族哲学 11
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「遅かったじゃねえか」
影虎は味噌汁の味見をしつつ、視線をあげた。
「須桜はまだか?」
「田中の所です」
「は?」
「田中というより吉江の所ですかね」
「……潜入?」
「そのようです」
紫呉は浅葱から聞いた話を影虎に語った。
「ふーん……。じゃ、掃除夫影虎はどうにかして須桜と接触すりゃ良いわけだ」
「ええ。お願いします」
「了解。あー今日須桜いねえって分かってるんだったら、こんなにメシ作らなかったのにさ」
「僕が頑張りますよ」
「頼むわ。まあ俺も食うけど。朝飯残りで良いか?」
「何でも。影虎の作るものは美味ですから」
「おや有難いお言葉。褒めて何出そうってんだ?」
「あなたは何をしようと埃すら出ないでしょうに」
「いやいや、叩かれても出ないんでなくてね、出さないの」
「ご立派です」
顔を見合わせて笑いあう。
「手伝いましょうか?」
「おー。んじゃ皿出して。割るなよ」
「流石にそこまで不器用じゃないですよ」
椀や皿を出して並べつつ、紫呉は不平を述べた。
「吉江の事調べてみたんだ」
影虎は味噌汁を椀に注ぎながら言う。
「四十八歳。問屋を継いだのは四年前。最近は商売が軌道に乗ってるみたいで、屋敷に戻るのも結構遅いみたいだな。でも、どんだけ遅くなろうとも絶対屋敷には帰る」
「そのまま店に泊まった方が楽なんじゃないですか?」
「だよな。俺もそう思う。あんだけ金有るんだったら、店に仮眠室なり何なり作れるだろうし」
「……それをしないという事は、やはり屋敷に何かが有るんですかね」
「そんで早く帰れる時は即行帰るんだ。すっげえ家好きなのかね」
そりゃねえか、と言った側から影虎は自分の言を苦笑して取り消した。
盆に料理を載せ、食堂へ移動する。座卓に料理を並べてから、影虎は三角巾を外し割烹着を脱いだ。
「しかし須桜も大胆な事するな。まあ平気だろうけどさ。いただきます」
「いただきます。黒器は持ったままですし。まあ平気でしょう」
今日の夕餉は玉葱の味噌汁に、鰆の味噌焼き、春野菜と卵の炒め物、そして銀シャリというのがまさに相応しい白米。
間に合わせで悪いけど、と影虎は言っていたが、間に合わせでも充分に美味い。良い臣下を持ったものだ。
「そうだ。有機溶剤の入手経路を雪斗に聞いてきたんですが、思いのほか簡単に手に入るんですね」
「ああ、だろうなあ。横流しみたいな感じだろ?」
「ええ。……しかし、常に横流しをしていたら自然と購入は増える。組合はその香具師を怪しまないんですかね」
「怪しいって思ってても黙認じゃね? で、そろそろ黙認もやべえなあって頃に一気に締める、と」
「香具師も驚くでしょうに」
「自業自得。お前が哀れむ必要ねえよ」
「まあ、そうなんですけれども」
その香具師が雪斗の知り合いで無ければと思う。
雪斗の有機溶剤の嫌悪ぶりには驚いた。彼本人の性質も有るだろうが、何か有ったのかと不安になる。
「えーっと……掃除に行くのが明後日か。上手い事須桜と会えたら良いんだけどな。そしたら手間省けるのに」
「手数をかけますね」
「いいえー。腕の見せ所デスよ」
にやりと笑った影虎の桃色の瞳が、僅かに剣呑な光を燈す。お茶を注ぎながらも策をめぐらしているのだろう。
邪魔はするまいと思いつつも、紫呉は影虎の湯のみの隣に自分の湯のみを差し出した。
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見張りは、座敷牢に続く襖の前に一人。
吉江の部屋の前に一人。
屋敷内に総計何人かは不明だ。外は詰め所込みで七名。だとすれば、屋内も同じぐらいと見ていいだろうか。
「ほら、ゆーっくりとしてきな」
男がにやにやと笑いながら襖を開く。
狭い座敷の向こうにはまた襖。そこに吉江はいるのだろう。
(どうしようかしらね)
男は襖の向こうに声をかけている。
「入りなさい」
柔らかな声をしていた。男は須桜の肩を叩き退出した。
自分がここに呼ばれた理由、それは伽をさせる為だろう。
正直に言えば嫌だ。
(どうやって切り抜けよう)
須桜は左手首の黒器を撫ぜる。
ここで吉江を殺害するのは容易い。だが、由月の命は組織の壊滅。だとしたら、吉江だけでなく田中たち警備組も手にかける必要がある。
それに少女を保護する必要がある。牢の鍵を壊し、桐子と琴を逃がす事はできるだろうが、田中たちを襲撃すると同時に二人を護るのは難しい。
流石に一人では荷が重い。何人か逃がしてしまうだろう。
(……まあ、なるようになれだわ)
須桜は襖を乱暴に開け放した。
「……これこれ。元気の良い子だね」
褥に座した男は恰幅が良かった。白髪のまじり始めた髪を後ろに撫で付けている。だが湯上りの為か、二房三房額へと垂れていた。
(何か適当に怒らして、それで、正当防衛って感じに持っていけたら良いんだけど)
殺害するのではなく、とりあえず一晩眠らす事ができれば良いのだが。
薬を使って眠らせる事は簡単だが、それでは吉江に存在を不審がらせてしまう。それではいけない。
その場を動かず、吉江に目を据える。僅かに笑みを含む吉江の視線が身体を這う。
「……こちらにおいで。何、ひどい事はしない」
柔らかな声が気味悪い。不快だ。
演技ではなく、自然と溜息が漏れた。
吉江の眉がぴくりと跳ねる。
「お前も、帰る家が無いんだろう?」
可哀そうに、と吉江はゆるゆるとかぶりを振った。
吉江は立ち上がり、こちらにやってくる。二度三度、労るように須桜の肩を優しく叩く。
「でももう大丈夫だ。私が、お前を護ってあげよう」
「その代わりに抱かせろって?」
肩を叩く吉江の手が止まった。
「馬鹿みたい。っていうか、馬鹿そのもの」
吉江の目から笑みが消える。右手が振りかぶられる。口内を噛まぬよう歯を食いしばった。
「口の悪い子だ」
頬を張られた。今日はこれで二度目だ。
「すまないね……。でも、お前が悪いんだよ? 帰る所も無いくせに、生きていく術も無いくせに、そのくせ、私にそんな口を利くから」
優しく、優しく頬を撫でられる。虫唾が走った。須桜はその手を乱暴に払った。
吉江は払われた手を呆然と見る。が、やがて笑みを漏らして須桜に手を伸ばす。
「……はは、これは、支配のしがいが有りそうだ」
須桜は吉江の手から逃げる。吉江は追ってくる。
「ほら、逃げるんじゃない。目隠し鬼でもしたいのかい?」
にこやかに笑いながら、吉江は手を揺らめかせて追いかけてくる。
「はは、追い詰めた」
部屋の隅に須桜は立った。吉江は荒い息遣いで勢いよく手をこちらに伸ばす。
それを避け、須桜はしゃがんだ。
吉江は均衡を崩して転んだ。側の脇息が音を立てて転がる。
背に回り、首筋に手刀を落とす。気を失っているのを確認してから脇息を掴み、吉江の側頭部を加減して打った。
辺りを見渡す。小ぶりの片袖机の引き出しを引く。帳簿やらと共に万年筆があった。
それを拝借し懐に仕舞う。引き出しを全て開け、紙を捜した。新品の物は無い。
塵箱を漁る。空白の多い反故を数枚取り出し、同じく懐に収めた。
手を加えた部分を元通りにし、須桜は襖を開く。慌てた素振りで警備を呼んだ。
「ねえ! 旦那が滑って転んで怪我をしちゃったの!」
「は!? 何だって!?」
警備が駆け込んでくるのを横目に、須桜は笑った。
少し説明が過ぎた台詞だったかと。
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