火炎の淵 5
腰が痛い。傷の所為ではない。青生の所為だ。自然、眉間の皺も深まるというものだ。
「浮かない顔をしているな」
言いながら由月は矢をつがえ、流れるような動作で引き絞った。
「まあお前はいつもそんな顔をしているが。もう少し愛想というものを覚えた方が良い」
空気を裂いて放たれた矢は、見事的の中心を射た。
「傷が痛むのか?」
次の矢を渡す紫呉をちらとも見ず、由月は問うた。
「……いえ、そういうわけでは」
「なら構わないが」
「お気遣い頂きありがとうございます」
タン、と高い音を立てて的を射た矢は、今度は少しばかり中心から外れていた。
それを憮然と見やる由月に、紫呉は頬が緩むのを感じる。有るか無しの微笑を浮かべる紫呉に気づいたのか、由月は不機嫌な顔をして紫呉の脳天を弓で叩いた。
「……っいった!」
「射てみなさい」
「弓は苦手なんですが」
「だからだ。私が笑い者にしてやろうと言っているんだ。早くなさい」
由月は一つに束ねていた髪をほどき、笑顔で早くしろと促がす。
兄に逆らうわけにもいかず、脳天を摩りながら紫呉は弓を手に立ち上がった。
正確な技法・作法かどうかはさておき、とにかく矢をつがえ、引き絞る。
放たれた矢は的にかすりもせず、ぽとりと地面に落ちた。
肩を揺らして笑いを堪える由月が腹立たしい。
「……だから、苦手だと言ったじゃないですか」
「知っている。だからやらせているんだ。あいかわらずの下手糞ぶりだな」
「知ってます」
「そう拗ねるな。ほら、もう一回射てみなさい」
「嫌ですよ」
弓矢を突っ返し、紫呉は腕を組んだ。もう矢渡しもしてやるものか。
尚も笑いながら、由月は次の矢をつがえた。
構え、射る動作は隙も無駄もなく、美しい。弓に明るくない紫呉がそう思う程なのだから、その道の者だってきっと、見事だと賛辞を呈するに違いない。
と、紫呉は常々思っているのだがそれを由月本人に伝えた事は無い。
どうにも照れが勝つのだ。言わなければ伝わらないし、口に出さねば伝えられないのだと分かってはいるのだが。
伝えたい言葉をいつでも伝えられるわけではないと、知ってもいるのだが。
そんなに大仰に述べるほどの事でもないと思う。だがそれでも、とも思う。
「兄様」
「何だ」
「…………見事な、お手前です、ね」
「何を当然の事を」
「まあ、確かに、……そうなんですが」
「……賛辞はありがたく受け取っておくが」
兄の声が震えているのは、どうやら笑いを噛み殺しているからのようだった。腹が立つやら妙に恥ずかしいやらで、とにかく紫呉は俯いたまま早口に言葉を継いだ。
「ところで影虎からの報告の件はいかがなされますか」
「ああ、そうだな」
由月は弓矢を置き、懐から手紙を取りだした。
先程、影虎から届いた文だ。最近の愛染街での動向を記したものだった。
近頃、いわゆるならず者が幅を利かせているらしい。各店に現れては圧力をかけていくとか。
彼らの言い分は、曰く、店を守ってやる。だから金をよこせ。よこさなければ暴れるぞ。
店としては、不承不承彼らの言い分を呑む以外に無い。客に手を出されてはまずいからだ。
それに、居酒屋等の飲食店ならばまだしも、娼館であれば店の商品を傷つけられでもしたら更にまずい。客足が遠のいてしまう。
しかし、彼らが店に出向くおかげで質の悪い酔漢等が減っているのも事実だ。通う客としては、安心して店に顔を出せる。
同様の手口は今までにも何件か有った。だが、最近やたらとこの手の話を耳にする、と影虎は記している。
肉だけでなく野菜も食え、で〆られていた手紙を手に、紫呉はすぐさま弓場の由月に会いに向かった。
手紙を一読した由月は、弓の稽古を再開した。考えをまとめているのだろうから、と紫呉も黙して矢渡しに徹していたのだった。
「そう、急ぐ必要のある案件ではないと思うがね。お前はどう見る?」
「僕もそう思います。ですが、多少気にかかります」
「奴らの目的か?」
「はい。それもですし、……何故、店の統一をしないのか」
「ああ。ただ金をせしめたいのならば、娼館に限った方が奴らにとっても効率は良い」
「娼館には腕利きの用心棒がいる店もある。だから避けて他の系統の店に、と見る事もできますが……」
「ああ」
由月は手紙を紫呉に渡し、腕を組んだ。
「第二案件だな。率先して動かずとも良いが、目を配っておきなさい」
「はい」
由月が頬に笑みを滲ませた。濃紫の瞳に冷たい光が灯る。
「お前は本当に便利だね、紫呉。頭の回りも悪くない。腕も立つ。何より、私に忠実で従順だ」
受け取った手紙を、折り皺に沿って畳む。
「役立たずも愚か者も私には不要だ。お前はまさに、私の金の卵だよ」
「……略せばきんたまですね」
「私の生殖機能を担おうなんておこがましいよ」
手紙を懐に仕舞い、紫呉は弓矢を手にした。矢をつがえ、的を狙う。
「そろそろ傷の具合も良くなってきましたし、僕も数日中に発とうと思います」
「ああ。良い働きを期待している」
そう言う由月の声は、響きばかりが柔らかだった。
放たれた矢は、やはり的にかすりもせずに地面に落ちた。