火炎の淵 3
竹林を抜ければ、そこには野原が広がる。雨露に濡れた草花が風に揺れる様は、いかにも爽やかだった。
ふいに加羅が足を止め、うんと伸びをした。
「正装は肩が凝るね。疲れたや」
「……何のつもりだ」
「別に。久しぶりに紫呉くんと二人で話したかっただけさ。邪魔なのが二人もついてきてしまったけど」
一歩下がった位置に控えた須桜が、明らかな敵意を見せる。紫呉が無言で制す様を、加羅は笑みを浮かべて眺めていた。
「ああ、それとも」
加羅が紫呉に向き直る。
「先日おれが瑠璃にいたこと? それとも二年前、おれがやっぱり瑠璃に忍び込んでいたこと? それとももっと前、六年前に、おれが、きみを刺したこと?」
ぐ、と紫呉は息を呑む。動揺する紫呉を尻目に、加羅は笑顔のまま続ける。
「こないだの傷の具合はどうだい? ねえ御影。きみも顔色が悪いようだけど」
「……若君に、ご心配頂くほどのものではございません」
「あっはは、気味が悪いな。無理にご丁寧に話してくれなくても良いよ。ここにはおれ達しかいないんだからさ」
笑う加羅を、須桜は憎々しげに睨めつける。が、ふいに加羅の隣に立つ汀に視線を転じ、訝しげな顔をした。
先程から加羅は、汀がいるにも関わらず一連の件を口にしている。という事は、この男も一連の流れを知っているのか。
……となると、八重はどうなのだ。知っているのか? 全てを?
「きみこそ何故だ?」
紫呉の思考を、加羅の声が遮る。
「何故、二影以外には知らせていない?」
「……それは、何に関してだ」
「おれときみとの間に起きた、全てに関して」
加羅の紅緋の目がこちらを見つめる。炎の色を宿したその目は笑みを模ってはいるが、幾許も感情を含んでいない。
「……戦になる」
「まあ、そうだろうね」
日生の若君が如月の次男を害したとなると、二里の関係も今のように穏やかではいられない。戦が起きる。必ずと言っても良い。
加羅が瑠璃に忍び込んでいた事にしたってそうだ。日生と如月の者に関しては、正式な訪問以外両里間の行き来は許されていない。戦が起きるとまではいかなくとも、関係の悪化は間違いない。
「だから、誰にも言わず黙ってるんだ? 優しいね」
揶揄するように言って、加羅はすっと目を細めた。
「戦になったら、どさくさに紛れておれを殺せるかもしれないよ? その方がきみも満足するんじゃないかい? 今の二璃の関係じゃ、絶対に叶わないだろうしね」
紫呉はぐっと奥歯を噛みしめる。怒りで身が震えていた。
加羅が憎い。憎くて仕方がない。でもどうしようもない。
加羅を手にかければ、今の二璃の友好関係は崩れ去るだろう。戦になる。
すぐ側にいるのに。手の届く位置にいるのに。今すぐにでも、その首を刎ねてやりたいのに。
しかしそれは絶対に叶わない。
加羅が日生加羅で、己が如月紫呉である限り叶いはしない。たとえ五体を満足に動かせようとも、決して叶いはしないのだ。
ぎり、と噛みしめた奥歯が音を立てた。
紫呉は左手首の牙月に手を伸ばす。打刀に変じさせ、刃を鞘から走らせた。
ふ、ふ、と短く荒く息を吐き、加羅の喉元に切っ先を突きつける。
加羅は薄く笑みすら浮かべて、睨む紫呉に視線を注いでいた。
大きく息を吐き、紫呉は己の喉元に突きつけられた刃先を見おろした。
互いの首と首に突きつけられた直刃と乱刃。陽光に煌く白刃が眩い。
腹が立つ。
柄に手をかけたのは紫呉の方が早かった。
しかし抜刀は加羅の方が早かった。
(腹が立つ)
紫呉は鋭く舌を打った。
「動かなかったな」
刃先を突きつけたまま、紫呉は加羅の背後の汀に言葉を投げかけた。
「須桜は今、咄嗟に僕を庇おうとしたが。お前は微動だにしなかった」
汀は薄い唇に笑みを滲ませた。唇を横に引いてニィと笑う様は、どこか爬虫類じみている。
「……なぁに。お二人の闘気にあてられて体が竦んでしまっただけです、よ」
背を丸め、肩を揺らして汀は笑う。
「それに、本気じゃあなかった、でしょ。本気で斬るつもりじゃあなかったですよ、ね」
ねえ次男殿、と汀は首をことりと傾げた。
薄気味の悪い男だ。加羅にも増して、何を考えているのか分からない。八重もだが、玻璃の人間は皆してそうか。
もう一度息を吐き、心を鎮める。
「どうする、日生。このまま本当に舞の練習でもするか?」
からかうようにそう言えば、加羅は目を伏せ、首元の刃先に視線を落とした。
「……双子獅子、か。懐かしいね。きみは覚えが悪くて、苦労させられた。何回も同じところで間違うんだから」
「……覚えていないな」
「それに、舞の練習をしていたはずなのに、何故か最後はおれもきみも泥だらけになっていたね」
「…………もう、忘れた」
「おれはまだ覚えているよ」
加羅は向陽を瑠璃の数珠に変じさせ、己の左手首に収めた。牙月の棟に手を添え、首元から退けさせる。
紫呉も牙月を水晶の数珠に変じさせ、手首に戻そうとして、やめた。須桜に手渡す。己の手元に黒器が有るのは、今の状態では恐ろしい。もし次に抜いた時は、今度は自分を制御できるか分からない。
「さて、どうしようか。舞の稽古なんて、おれもきみも元からやる気ないし。伯母上に何て言い訳しようかな」
「僕が知った事か」
「次男殿は先日の心労が祟り途中でお具合が悪くなって、とでも言っておこうか。実際顔色が悪いしね。傷は平気かい?」
からかう声音の加羅から、紫呉は鼻を鳴らして顔を背ける。
腰の傷が疼き始めた。痛み止めの効果が切れ始めているのか。
「……日生、お前は吉村楓を知っているのか」
「吉村? 知らないな」
「なら、瀬川拓也は」
「瀬川なら知っている。そこの、斉藤の部下だった」
それがどうかしたか、という口振りだ。
「きみこそ、どうして瀬川を知っているんだい?」
「殺されかけた」
「へえ?」
「お前と、瀬川の面識はないのか」
「あるさ」
薄く笑う加羅を紫呉は睨む。
やがて加羅は、ふ、と息を抜き、顔から表情を消した。
「……腹の探りあいはやめようか」
加羅は声に皮肉の色を滲ませた。
「おれが、今ここできみに告げられる真実は何一つ無いよ」
欄と光る紅緋の目が疎ましい。加羅は腕を組み、紫呉を真っ向から睨み据えた。
「知りたいのなら、おれを捕まえてごらん」
生ぬるい風が頬を撫でていく。加羅の頬に滲んだ不遜な笑みは、今日見た笑みの中で一番の笑みらしかった。
加羅は背を向け、庵の方へと足を向けた。二、三歩進めたところでふいに立ち止まり、僅かに俯く。
「一つだけ、言っておこうか」
雲が立ち込め始める。いかにも初夏らしい入道雲だ。
「おれは奪うよ」
きっとそのうち、夕立がくる。
「……どういう意味だ」
「言っただろう」
振り返った加羅は、いつもの面じみた笑みを浮かべていた。
「今ここできみに告げられる真実は何一つ無い。知りたいなら、おれを追ってきなよ」
加羅は立てた中指で、己の心臓の有る辺りをとんとんと二回叩いた。
紫呉が盛大に舌を打ち、親指で首を掻き切る仕草をしてみせると、加羅はとても楽しそうに声をあげて笑った。