火炎の淵 21
「よう、待たせてくれたじゃねえか」
昭夫の方が言った。その声には、待たされた分の埋め合わせをねだる響きがあった。浩志は昭夫の後ろで、卑屈そうな薄ら笑いを浮かべていた。
「なあ、あんたの言われた通りにしてきたぜ」
「ああ。礼を言うよ」
「礼なら言葉だけじゃなくて、ちゃんとモノにして返してほしいもんだな」
昭夫は野卑た声で笑った。
瑠璃の里の荒くれたちを金で操り、駒にしていたのは加羅だった。
加羅はまず、荒くれたちに愛染街の店を揺強請りにいかせた。店の統一をしなかったのは、鳥獣隊を表に引きずり出す為だ。荒くれが店を強請るなど、ありふれた話だ。彼らの目につかせる為には、どこかにきな臭さを演出する必要があった。
「何かさっき、喧嘩みてえな音が聞こえたんだけど……」
浩志が、おどおどと視線をさまよわせながら言った。
「ああ、そうだな」
加羅は適当な相槌を打つ。
情報屋を使い、紫呉を誘き出すよう彼らに指示したのも加羅だった。
紫呉に縁のある情報屋を使わせたことに特に意味は無い。意味を作るとするならば、その方が効果的に思えた、というところだろうか。
「……なあ、でも、槙の兄貴、死んじまったぜ」
「ちょうど良いじゃねえか! あいつのでかい顔にゃあうんざりしてたんだ!」
「でも……」
「うるっせえな! びくびくしてんじゃねえよ!」
小競り合いを繰り広げる昭夫と浩志を、加羅は冷めた目で眺めていた。
槙が死んだのは計算外だった。阿片に溺れている事は知っていたから、中毒死の可能性も有るには有ると思ってはいたが。
彼らに与えた役目は、紫呉を誘き出し、喧嘩に巻き込むこと。そうして壱班を誘い出し、紫呉の身をしばし壱班に留め置かせること。
それも、加羅が坂崎雪斗の襲撃に行く間の、時間を稼ぐ為だ。
その事自体に、大した時間は必要ない。負傷した坂崎雪斗を発見する役目も、紫呉自身でなくても良かったのだ。
必要なのは、加羅が坂崎雪斗を傷つけたという事実。
そして、それを紫呉が知るということ。
紫呉が後日、坂崎雪斗の負傷を知ったとしても、彼は加羅のした事だと知るだろう。
だって加羅は、先日彼に奪うと告げた。その言葉から、加羅の名を引き出すのは容易いだろう。
己がくだらない喧嘩に巻き込まれている間に、大切な友人が傷ついていたと知ったなら、紫呉の衝撃はいかほどだろうか。
そうなればきっと、紫呉はきっと己を責めるだろう。己の所為ではないだろうに、心の柔らかな部分に引掻き傷をつけて、きっと彼は嘆くだろう。
そして加羅を恨むだろう。やり場のない怒りを加羅にぶつけて、必ずや牙を剥くだろう。
「なあ、ところで報酬は?」
昭夫はいそいそと手を差し出してくる。
加羅はそんな昭夫を、憧憬にも似た軽蔑の目で見やった。
槙もそうだった。金だの阿片だのの享楽を欲し、加羅が持ちかけた胡散臭い話にも乗ってきた。金や薬で動いてくれるのは都合の良い限りなのだが、勝手にも呆れた心地を抱いてしまう。
「今まで、ご苦労さま」
加羅は昭夫の手に、数枚の金貨を握らせてやった。ついでに阿片の包み紙も。
浩志の手にも、同じように報酬を与える。二人ははしゃいだ声を上げて、喜んでいた。
ふ、と加羅は息を吐き、向陽を打刀に変じさせた。
「な、何のつもりだ!」
ぎょっとして、昭夫は身を引いた。あたふたと取りだした小刀を抜き、切っ先を加羅に向けてくる。
「きみ達はもう、用済みだ」
向陽を腰帯に差し、加羅は鍔に指をかけた。
いきり立った昭夫が、怒声を撒き散らしながら小刀を振りかぶった。
右足を一歩踏み出す。
柄を握り、鞘を傾ける。
鞘を引き、しゅらりと刃を抜き放った。
「あ」
昭夫が声を漏らした。顔面を丁度上下間二つに分かつように走った刀傷から、紅い色が零れ落ちている。
そしてようやく、斬られたことに気がついたようだった。昭夫は断たれた顔面を修復するように、両手で頭部を押さえている。
「あ、あ」
見る間に、指の隙間から血が噴き出した。ずれた頭蓋の隙間からも血は溢れだし、昭夫の顔面を紅く染めていく。
血振りして、刃を納める。キンと高く鳴ると同時、昭夫の体がぐしゃりと地面に崩れ落ちた。
ひぃ、と浩志が情けなく息を飲む。浩志は足元に流れてくる昭夫の血を避けるようにして、ぴょんと跳ねた。
加羅は血だまりを踏まぬようにして、昭夫の手から小刀を取った。軽く指に滑らせて斬れ味を確かめる。
ひぃひぃ騒ぐ浩志と目が合った。加羅を制するように両手を伸ばし、浩志は首を振りながら後ずさる。
加羅はことさら急ぐ事もなく距離を詰め、体ごとぶつかるようにして浩志の腹に小刀を突きたてた。
ぐう、と唸る声がすぐ耳元で聞こえた。加羅の体を離そうと、浩志の手が肩にかかる。
爪を立てられ、僅かに痛んだ。差し込んだ刃をぐいと捻る。柔らかな臓腑を抉る感触が生々しかった。
刃は抜かずそのままに、加羅は体を離した。浩志が崩れる。ひゅう、と生気の抜けるような息を漏らし、浩志は加羅を見上げていた。
加羅は懐から取りだした小刀を抜き、浩志の手に握らせた。鞘は捨てる。こちらを見る浩志の目から、光が消えようとしていた。
長く、息を吐く。
見上げれば、夜の淵を月が渡っていた。底も見えぬほどに夜は黒く燃え立ち、その黒の深さはまるで紫呉の瞳を思い起こさせた。
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