火炎の淵 15
四
己が人殺しである事など十分に承知している。幾人にも恨まれている事も、もう戻れぬ位置に立っている事も。
そのくせに、それでも、友を失いたくないと、友でありたいと、そう思う自分はどれだけ愚かしいのだろう。
楓は紗雪の友人だ。友人だった。そうだ、彼女はもういない。死んだ。殺した。紫呉が殺したのだ。
白月が昇り始め、愛染街への橋が下ろされた。今宵は五橋だ。橋の向こうの柳が風に揺れ、まるで手招きをしているようだ。
人々は我先にとこぞって橋を渡り始める。店先には着飾った少年少女が並び、提灯は次々に灯火を咲かせた。
紫呉は橋の欄干に両腕を乗せ、川を覗き込んだ。薄暮を写し取った川の流れは紅の提灯の光を乗せ、ゆらゆらと流れている。
奪った命が絡みついて、押し潰されそうだった。
それでも、生き抜くと決めたのだ。
押し潰されようとも這い蹲って、背負い、抗い、生き抜くと。
(……重たいな)
だが投げ出すつもりは毛頭無い。死を迎えるその時までは、抗って、また奪って、また背負って。
たとえ、血に狂おうとも。
ふ、と息を抜いて紫呉は欄干から身を離した。愛染街へと足を向ける人の流れに沿い、己もまた歩を進める。
肉を斬って、骨を断って、血にまみれて悦楽を覚えるこの身体。それがいったいいつからだなんて、もう分からない。
ただ事実として、それは纏わりついてくる。
否定したいと思うたびに言い聞かせる。目を背けるな。目を背けるな。
だが受け入れたくないと思っているのも、また事実だ。傲慢で我儘な願いだ。人殺しの分際で。
友でいてやると言ってくれた、雪斗の声が耳に蘇る。
嬉しかった。
僕はあなたの妹の友人ですら手にかけたのですよと告げても、同じ事を言ってくれるのだろうかと馬鹿な事を考えた。
しかも彼女を斬った時に在ったのは快感なんですよと、もし告げたらだなんて、馬鹿な事を。
どうしてあんなに優しく在れるのだろう。どうして自分なんかを受け入れてくれるのだろう。
優しい男だと思う。優しくて、強い。それに清廉だ。
そんな事を言ったらきっとまた怒るのだろうと思うと、紫呉は何だか嬉しいような楽しいような、泣きたいような気持ちになってしまった。
彼の手を離したくない。これもまた傲慢な願いだ。分かっている。
それでも叶うのなら、ずっと友でありたいと願ってしまう。
本当に、嫌になるほど己は愚かだ。
ザアと湿った風が吹く。脂粉の香りに呼ばれるように、街を歩く人々は店の中へと吸い込まれていく。
紫呉は透蜜園を目指していた。浅葱に聞きたい事があった。
例の、店へと現れる荒くれ者たちの事だ。宮子の店に現れた彼らの名前は、紫呉たちも掴んでいた。
首領格の名は槙。取り巻きは浩志に昭夫。彼らは店から金をふんだくる他に、薬物を取り扱ったり堵場をひやかしたりして日銭を稼いでいるようだ。
彼らの、もっと詳しい情報を掴んでおきたかった。由月からはどうこうしろという命をまだ受けてはいない。だがもし命が有った時、すぐに行動に移せるように。
角を曲がる。表通りの喧騒がスッと遠のいた。
透蜜園へと続く通りの両脇には石灯籠が並んでいる。奥に見える透蜜園の簡素な構えが蝋燭の薄灯りに揺れ、いかにも夢幻的であった。
灯りに揺れる己の影を踏んで歩き、門を目指す。扁額のかけられた門をくぐる際、両脇に立つ門番に睨まれるのは、いつものお決まりだ。
寄こされる視線をやり過ごし、引き戸を開ける。片眼鏡の初老の番台が俯いたまま顔を上げないのも、やはりいつものお決まりだった。
番台の脇に備えられた箱から、紫呉は浅葱色の紙を探した。店の商品を買う際には華絵の紙なり色紙を渡すのが決まりだ。
しかし浅葱色の紙は見当たらなかった。出かけているのか、それとも別の客が訪れているのか。
番台はちらりとこちらを見やると、無言で呼び鈴をりんと鳴らした。番台の背後の戸が開き、童子が現れる。綺麗な縹色の目をしていた。
童子は紫呉の側にやってきて片膝をついた。
「浅葱
と、手紙を渡された。受け取るなり、彼はすぐさま来た戸の向こうへ消えてしまった。
手紙にはただ一言『朱窟』と記されていた。
ここに来い、という事なのだろうか? いったい何の用だ。
紫呉は礼を言い、園を後にした。朱窟を目指して歩き始める。
朱窟とは、ここから南の奥へと歩を伸ばしたところにある阿片窟の通称だ。由来は店の女の着物が朱色だからとも、店の前に植えられた花の色が朱色だからとも言われている。
街は奥に行くにつれ、治安が悪くなっていく。壱班の監視の目が届き切らぬせいだ。違法を一所に集わせて、然るべき際には一掃できる、という利点はあるには有るのだが。しかし民の聞こえは悪い。
確か、近日中に規制を強化すると莉功が言っていたか。自分の担当区域になりそうで嫌だわーめんどいわー、とぐずっていたのを思い出す。
それにしても視線が痛い。浮いているという自覚はある。店の売り物という風情でもないだろうし。
寄こされる尖った視線が不快だが、紫呉は素知らぬ顔をして歩いた。