火炎の淵 14
くい、と袴を引かれる。
「ね、あたし、になだよ」
もう一人の少女だ。紫呉はしゃがんで視線を合わせた。
「になさんと仰るんですか? 素敵な名前ですね」
「えへ。ありがと」
「どういった字を書かれるんですか?」
「むずかしくてまだかけないの」
「おい二菜!」
「でもおにいちゃん、このひと、かわいそうだよ。ね、なんておなまえ?」
「僕は紫呉と言います。二菜さんは優しいですね」
「しいくん?」
「好きに呼んでください」
「ね、になとおともだちになる?」
「良いんですか? 嬉しいです」
えへへ、と二菜は笑った。つられて紫呉の頬もほころぶ。
「僕は友と呼べる人間があまりおりませんので。一の友と思っていた雪斗も、僕のことを顔見知り程度にしか思っていなかったみたいですし」
「ゆきくん、ひどいよ」
「な……っ、いや、別にオレは……。おい紫呉! お前なあ!!」
「何ですか坂崎殿」
「……っあー、はいはい。ダチですよ! 顔見知りじゃなくて!」
がしがしと汗で濡れた髪を掻き乱しながら、雪斗は顔を背けて言った。
「良かった。僕ばかりがそう思っているのかと思いました」
「……うっぜえなお前はほんとに」
「だよな! ほらみろ、雪斗さんやっぱりお前のことうざいってさ!!」
「お前もうぜえよ典我。煽んなって」
「だ、だって! オレこいつ嫌いだし!」
「奇遇ですね。僕もあなたの事を好ましく思っておりません」
「回りくどいんだよ! ふつーに嫌いって言えば良いだろ!」
「あーもう……。お前ら二人ともうぜえって。ケンカするならどっかいけよ暑苦しい……」
ぐ、と息を飲んで典我が黙り込む。二菜が典我の手を取って、にっこりと笑った。
「ね、なかよくしよ? になといっしょに、みんなでおままごとしよ?」
「……嫌だ。したいなら二菜だけでしろよ」
「や。おにいちゃんもいっしょがいいの」
典我の沈黙を了承とみなしたのか、二菜は典我の手を両手で握って、上下にぶんと振った。
「じゃあね、おにいちゃんがあかちゃん。にながおかあさんで、ゆきくんがおとうさんなの。しいくんは……」
と、二菜は困った顔をした。常の配役は父・母・赤子だけなのだろう。
微笑ましく思い、紫呉は助け舟を出す事にした。
「では僕は隣家のうら若き未亡人を演じましょう」
「みぼうじん?」
「はい。お父さんをねばねばした気持ちにさせてくれる素敵な女性です」
「やめろ! ガキの前で何つーこと言ってんだお前は!」
「やっぱりあなたはわたくしよりも家庭が大事ですのね……。それでもわたくしは本気でしたわ! あなたにとってはおままごとでも、わたくしにはあなたが全てだった!」
「やーめーろ!!」
「……っやっぱりオレ、お前嫌いだ! 二菜、行くぞ!!」
「あ、まって!」
お前マジうっぜー、と遠くから吠えながら、典我は二菜の手を引いて走り去っていく。
その背を見送りつつ、紫呉は少し残念に思っていた。もう少しねばねばと未亡人を演じていたかったのに。
「こんの、くそバカ!」
「いた」
後頭部を張り倒され、紫呉は頭を押さえて振り向いた。
「痛いです。そんなに思い切り殴らなくても良いでしょう」
「殴りたくもなるわ! ガキのケンカを本気で買うなよ、バカかお前は!」
「本気で売られた喧嘩は本気で買わなければ相手に失礼です」
「何だそりゃ! っつーか何だ未亡人って!」
「世の男性の夢でしょう。未亡人を慰めてさしあげるのは」
「オレの趣味はそっちじゃねえんだよ!」
「おや。……ああ、なるほど」
須桜に恋心を抱くのだから、まあ確かに年上の女性は雪斗の好みではないだろう。
「……んだよその顔。言いたいことあんならはっきり言えよ」
「僕に須桜は演じられませんよ」
「は!? べ、別に、んな事言ってねえし! っつーか何で須桜!? 関係なくね!?」
「そうですね、関係ないですね」
「……っお前、ほんっとマジでうっぜえ……」
「そんなにも鬱陶しい僕と友でいてくださるなんて、雪斗は本当に優しいお方ですね」
「…………ダチじゃねえし」
「顔見知り、ですか?」
そう呼ばれるのは、やはり寂しい。だがまあ、雪斗からすれば本当にそう思っているのかもしれない。紫呉ばかりがうかれてしまって、距離の測り方を間違えているのかもしれない。
何しろ、自分の周囲は上下の関係ばかりで固められている。横に広がる対等な関係、というものを、紫呉はあまり知らないでいるのだ。
昔、友と呼んだ者は、確かにいたのだが。
紫呉は無意識に服の上から腹の傷痕を押さえた。
雪斗は髪を掻き乱し、舌を打った。
「……座れよ。座布団も何もねえけどさ」
顎で茣蓙の隅を示し、雪斗は茣蓙の中心で胡坐をかいた。
「あいつら、飴細工師のガキなんだよ。最近、何か懐かれてて、よく観にきてくれる」
坊を磨きながら、雪斗は俯いて話した。紫呉は雪斗の言葉に従い、茣蓙の隅に腰を下ろす。
「それにしても、雪斗が戦物とは珍しいですね」
「あー……、まあ、な。ちょっと、芸の幅広げてみっかと思ってな」
「良かったですよ。雪斗の声に合っていると思いました。雪斗の情物も好きですが」
「……そりゃ、どうも」
照れくさそうに口の中でもごもごと呟いて、雪斗は坊を箱に直した。もう一つの箱から『嬢』と呼んでいる、もう一体の傀儡を取り出す。
嬢の糸の調整をする雪斗の手先を、何気なく見やる。以前の、闘技場の件の折に得た傷はもう治っているようだ。一時期は動かすのもつらそうだったのだが。
「怪我、治ったようですね」
「ああ」
「良かったです。大事な手ですから」
「……おう」
「雪斗?」
何だかさっきから妙に寡黙だ。いや、寡黙というか、妙に喋りづらそうというか他所事を考えている風情というか。
「お前は!」
「ぶ」
唐突に手のひらで目を覆われ、紫呉はその押される勢いで仰向いた。
「……あー……、その、……。……顔見知りじゃ、ねえから」
「はい?」
「だから! ……や、その。……っ……何でもねえよ!」
べち、と目元を覆っていた手で更に叩かれる。叩かれた目元がひりひり傷んだ。
雪斗はそっぽを向いている。耳までもが赤く染まっていた。
「……ははっ」
思わず声をあげて笑う紫呉を、雪斗は赤い顔で睨んでくる。
「……んだよ」
「いえ。嬉しいです。……」
続けて何かを言おうとしたのだが、何を言おうとしたのか忘れてしまった。ただ、頬が緩んでしまってどうしようもない。
雪斗は髪を掻き毟って、赤い顔で何やら呻いている。区切り直すように舌を打って、嬢の調整に専念した。
「おら、どっか行けよ。オレはまだこれから艶物すんだよ」
「では観てから行きます」
「観なくて良いんだよ! お前に観られてたら艶物とかより一層やりづらいっつーの!」
「そう言われたら観たくなるじゃないですか」
「良いから行けって! 邪魔だ!」
まるで野良猫を追い払うかのように手を振って、雪斗は袖に両腕を通した。頭巾を被り直し、前垂れを下ろす。
仕方なしに紫呉は立ち上がった。少し話し足りないが、これ以上怒らせるのも申し訳ない。
それではと一声かけて、紫呉は歩き出す。
「……お前、また何か抱えてんだろ」
背中に投げかけられた声に、紫呉は歩みをとめて振り返った。
「痩せた。っつーかやつれた。そんで無駄にはしゃいでる」
「そんな事は……」
「なくねえよ。ついでに怪我もしてる。結構ひどい。そんな事なくねえ」
紫呉が否定する前に雪斗は言って、前垂れ越しに強く睨んでくる。
「オレは傀儡師だぜ? 傀儡に人の真似させてなんぼの仕事してんだ。見りゃ分かんだよ、そんくらい」
雪斗は大きく息を吐いた。
「ダチで、いてやるから」
だから、と言葉を切って、雪斗は消えそうなほどに小さな声で言った。
「……無茶はすんなよ」
日は暮れつつある。愛染街へと向かう人が徐々に橋へと集まってくる。
「…………はい」
ようやくの事で返事をした紫呉の声は掠れていた。
前垂れの向こうで、雪斗は少し笑ったようだった。
雪斗は軽く腕を振り、手首を捻る。すると嬢の纏っていた衣装はしゅるりと脱げ、橋へ向かっていた人たちは思わず足を止めた。
しなりと崩れ、嬢はよよとむせび泣く。身を捩りもだえる嬢の姿に、群衆がおおと声をあげた。
川の向こう側から、脂粉の匂いを乗せたなまぬるい風が吹きつけた。
紫呉は今宵下ろされる橋に向かって、歩みを進めた。雪斗の声はだんだん遠ざかる。
全く、己はどこまで欲深なのだろう。
紗雪の友である楓の命を奪っておきながら、自らの友は失いたくないだなんて。
浅ましい。
浅ましく、愚かだ。
本当に、どうしようもない。