火炎の淵 10
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三
文机に頬杖をついて、日生加羅は少し前の出来事に思いを馳せる。
あれは一月と少し前、澪月の頃の話だ。祭の準備に慌しい瑠璃の里の片隅で、加羅は吉村楓と顔を合わせた。
楓は加羅の姿を見とめるなり、にこりと愛らしい笑みを浮かべた。親指には血の滲んだ包帯が巻かれている。
「こんにちは」
楓の声は明るい。少し痩せただろうか。その所為か、大きな目が一層大きくぎらついて見えて、どこか薄ら寒いような感じを覚えた。
軽く手を挙げて挨拶に代え、加羅は腕を組む。興奮した様子で近況を語る楓を、土蔵の壁に背をもたせかけてぼんやり眺めた。
楓は加羅に従順だった。手紙を書けと言えば、その通りに手紙を書いた。破天に入天しろと言えば、その通りに入天した。
「ねえ、次はどうすれば良いの?」
幼い子供が教えをねだるように、楓は無邪気に問うてくる。
「……祭の当日、おれが彼を誘き出す。きみは破天の彼らと、行動を共にしていれば良い」
「分かった。そうすれば、拓也の仇が討てるのね」
「ああ」
こくりと頷き、楓は単の上から懐をぎゅうと押さえた。そこには、加羅が与えた小刀があるはずだ。
瀬川拓也の仇討ち。楓を突き動かすのはその思いばかりなのだろう。
今もし、拓也を殺したのは彼――紫呉ではないと告げれば、楓はどんな反応をするのだろうか。
加羅が、辰覇に命じて殺させたのだと告げれば、彼女はいったいどんな反応をするのだろうか。
少しばかり興味が湧いた。しかし告げても何の益にもなりはしない。だから告げずにおいた。
そしてもう一つ、興味が湧く。
楓自身にだ。
ここまで瀬川拓也を愛し抜ける彼女自身に、興味を抱いた。
だからこそ、聞きたくなった。
「きみは、瀬川が何者かは知っているのか?」
拓也が楓と出会う前、いったい何をしていたのか。楓は知っているのだろうか。
「知らないわ」
にこりと笑う。
「知らないけど、良いの。関係ないわ。私は、拓也が好き」
でも、と楓は言葉を区切る。
「何も知らないわけじゃないわ。拓也は、あなたと同じ手をしてた」
すい、と楓はこちらに寄ってくる。にこにこ笑って加羅の手を取ったかと思えば、
「汚い手」
まるで汚物を見る目で吐き捨てる。
「あなたの手は、人の命を奪った事のある手よね」
楓の言う通りだ。この手は幾人もの命を奪ってきた手だ。刀を振るう事に慣れた手だ。手の皮は厚くなり、爪は欠け、傷痕は幾多にものぼる。
「瀬川と同じ手なんだろう?」
「そうね。でも拓也は良いの」
楓は加羅の手を振り払った。
「私は拓也が好き。拓也を赦す理由なんてそれだけで良いわ」
「なるほど」
加羅は唇に笑みを浮かべた。
「きみは、分かりやすくて良いね」
「ありがとう。あなたは、分かりにくい人ね。今も。気持ち悪い笑顔ね。嘘の顔よ」
「そんなことないさ」
「そう? なら、そう思ってるあなたは変ね」
くすくすと笑って、そして、楓は長く長く息を吐いた。息を吐ききった彼女の顔からは、表情という表情が抜け落ちていた。
「それで、誘き出した後は?」
「その小刀で彼を刺せば良い。教えただろう? 簡単だ。両手で持って、体ごとぶつかる。それで大概の相手は死ぬさ。思っている以上に簡単にね」
「そう。簡単に死ぬんだね」
拓也みたいに。
呟いて、楓は笑う。涙を零しながら、笑みを浮かべた。
「でも、本当に殺せるの? あの人は、拓也を殺した人。なのに私が、そんなに簡単に出来るものなの?」
「出来るさ。おれがいる」
「なぁに、それ」
「だっておれは、彼の仇だから。彼は必ず、おれに気を取られる」
「……あなたは、彼の大切な人を殺したの?」
「ああ」
「……そう。ひどい人」
「そうだね。そして彼は、きみの大切な人を殺した」
「……そう、だ、ね。彼も、ひどい人」
「ああ」
「私も、彼を殺せば、ひどい人ね」
楓は己の両手を見おろして、微笑んだ。
「私も人殺し。あなたと一緒ね。彼とも一緒。拓也とも一緒」
まるで歌うように、楓は言う。大きく瞠った目から、ぼろぼろと涙が零れた。
同情はしまい。それはあまりにも傲慢だ。こうなるよう仕向けたのは己自身なのだから。
「……それじゃあ、おれは行くよ。さようなら、瀬川楓」
「……残酷な人。……さよなら」
別れを告げ、その場を去る。振り返りはしなかった。
あの時、加羅は楓に嘘を吐いた。
確かに紫呉は加羅に気を取られるだろう。隙は生まれるに違いない。
だが紫呉ならば、己に刃を向ける楓を許しはしないだろう。必ず牙を剥く。楓の刃が彼に届く前に、楓は彼に屠られるだろう。
その考えは半分当たって、半分外れた。紫呉は楓を斬った。だが、楓もまた紫呉を刺した。
楓は最期に笑っていた。
彼女は満足して逝ったのだろうか。仇を討てて。拓也と同じ手になれて。それとも、紫呉や加羅と同じ手になった己を嗤って逝ったのだろうか。
知る由は無い。そしてそれを知ろうとするのもきっとまた、傲慢だ。
障子越しに月明かりが射しこみ、加羅の姿を照らし出す。加羅は頬杖をやめ、背筋を正した。
楓の刃が紫呉に届いたことは想定外だった。そんなにも、加羅に気を取られたのだろうか。
それほどに、彼の怨恨は深かったか。
それもそうかと加羅は嗤った。
この手が彼の腹を刺した。この手で彼を斬った。この手で彼が師と慕った男の首を刎ねた。
男の名は矢岳翔太といったはずだ。
享年は二十五。乾弐班の班長を務めた男だった。
「……お兄ちゃん……」
ふいに縁側から控えめな声が投げかけられ、加羅は腰を浮かした。
「……あの、ね……」
障子戸を開けると、そこには
「うさぎ?」
「……うん。……お父さんが、四葉にって……」
九つになる彼女は、春日井竜造の愛娘だ。今日は、黒髪をお下げに結っていた。というのも、彼女の髪形は娘を溺愛する父の手によって毎日替えられるので、定まっていないのだ。
「……なまえ……」
と、四葉は加羅を見上げる。その目は父譲りの明るい若草色で、竜造との血縁を感じさせた。
「おれがつけても良いの?」
こくん、と頷く。
加羅はかがんで四葉に視線を合わせ、四葉の腕の中の生き物に目を遣った。
白くて小さな兎は、ひたすらに稚く愛らしい。兎の目といえば赤いものと思っていたが、彼(彼女か?)は黒い目をしていた。ひくひくと鼻を動かし、加羅の方をじっと見ている。
「……すあま?」
いや、すあまだと白さしか表現できていないか。もっと、こう、白くて柔らかい感じの……。
「……豆大福……いや、白玉?」
「白玉…………」
こくんと頷き、四葉は微笑んで兎こと白玉に頬をすり寄せる。
「……っ四葉あああ、お前はほんっと良い子だなあああ、若の変な
「……お父さん……、おひげ痛い……」
どこからか湧いて出た竜造が四葉を抱きしめ、ぐりぐりと頬ずりした。
「よおーし、今日もお父さんと一緒にお風呂入ろうな! そーら高い高ーい、からのー、蜻蛉返りー、そしてお父さんの抱っこだー!」
ぎゅー、と効果音を口にして竜造は四葉を抱きしめまくる。四葉が何も言わないのは、多分目を回しているからだ。
瞬く間に娘を抱き去る竜造の背を、加羅は半ば呆れ交じりに見送った。
「若、良かったのですか」
「何がだ」
竜造とすれ違った壬生辰覇は、その空色の瞳に僅かに呆れとも見える色を浮かべ、竜造の消えた方へと視線を送る。
「白玉で」
「……そんなに変か」
ぴったりだと思うのだが。やはり豆大福の方が良かっただろうか。
「いえ」
辰覇の感情が読めないのはいつものことなので、彼が納得したのか否かは分からなかった。
まあ良い。
「朝には戻る」
縁側から庭へと降り立ち、加羅は告げた。
「ならば私も」
「いや、一人の方が動きやすい」
辰覇の随行を断り、加羅は手首の向陽に指先を触れさせた。瑠璃玉の数珠は月明かりを冴え冴えと反射させ、まるでそれ自体が光を放っているかのようだ。
「ご無事で」
「ああ」
ひらりと手を振る。
背に辰覇の視線を感じたが、加羅は振り返らず歩を進めた。
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