瑠璃の昼行灯 零 9
支暁殿をぐるりと囲む中央森の外、人通りの多い街道から少し外れた、細い通りにその家屋は有った。
いや、家屋と言うよりも、庵、と表現した方が正しいほどの、簡素な造りである。腰ほどの高さの、古びた門扉から庵までは距離が有り、更に一層喧騒からは遠ざかる。
庵の周囲には広い庭が広がり、庵の後ろは中央森とはまた別の森に面している。
むしろ庭と言うよりも、森を開いてその中に庵を建てた、という感じだ。
(これは……)
少しばかり、危険かも、と紗雪は瞬いた。
いや、悠一の事は好きだ。
もちろん好きだ。
将来的には、そういう風になれたらな、とも思う。
だがしかし。だがしかしだ。
「どうかした?」
玄関の門戸を開く悠一が、振り向きながら首を傾げた。
「あ、ごめん。何でもないの」
内心冷や汗を垂らしながらも、紗雪は笑みを浮かべて見せる。
そんな紗雪を見て、悠一は、ぽんと手を打った。
そして、どこか人の悪い笑みを浮かべて言った。
「大丈夫だよ。二人きりじゃないし」
「え、や、べ、別にそんな……!」
「これでぼく以外に、男連中がいっぱい、って言うんならもっとアレだけれども」
安心して、肩を軽く叩かれる。
「今は、たぶんぼく以外には女性が二人、かな。他の者達も、そのうち戻ってくるだろうけれど」
笑いながら悠一は下駄を脱いで上がった。
赤くなった頬を隠すように俯いて、紗雪も悠一に倣って長靴を脱ぐ。
その向こうで、悠一が何やら二人の少女と話していた。
黒髪を短く切った少女と、癖の強い茶色の髪をした少女だ。二人とも真っ白な袷に身を包んでいる。
ぽつぽつと、断片的に声がこちらまで届く。少女の丁寧な物言い。それに『悠一さん』と二人の少女は、彼の事を呼んでいる。
(って、事は……)
彼女達は、悠一の『影』だろうか。
如月の者には『影』がつく。
『影』とは如月の近習の者達の事だ。
如月一人につき『影』が二人。御影と、草薙の家の者である。
如月の長子には両家の長子が、第二子には両家の第二子が、といった具合だ。
御影家は御殿医であり、薬師でもある。御影の男は自在に薬を作りだし、女の血は治癒の効果を持つ。
草薙家は如月家の第一等の家臣だ。側近である。常日頃主の側に侍り護衛する。
御影、草薙両家の者のことを、玻璃の『
史書でそう読んだ事がある。紙の上だけでの事だろうと思っていたが、悠一に対する彼女達の振る舞いを見る感じ、本当の事だと思って良いだろう。
「いける?」
「あ、うん、ありがとう」
自然な仕草で手を差し伸べられる。その手を借りて立ち上がった。
「今の時期はね、縁側から見える緑がすごく綺麗だよ。少し前なら、桜も良かっただろうね」
縁側にはすでに、座布団が二つ用意されていた。
腰かけるとすぐに、少女がお茶を持ってきてくれた。
「……どうぞ」
その声に、硬いものを感じた。視線にもだ。硬く鋭い、値踏みするような、決して好意的ではない類だ。
礼を述べ、湯のみを受け取る。
自分の主が突然、どこの馬の骨とも知れぬ女を連れてきたら、そりゃあ愉快ではないだろう。仕方がないと思いつつも、こちらもやはり、愉快ではない。
黒髪を短く切った少女を見やりながら、紗雪はひそかに『勝った』と思った。自分の方が目も大きいし、肌も綺麗だ。まあ、許してやろうか、という気になった。我ながら嫌な女だ。
少女は廊下の角を曲がりしな、最後にもう一瞥残して消えた。
「あ、緑茶で良かった? ぼくの好みでいれさせちゃったけど」
「うん、ありがと。何でも平気よ」
雑巾の絞り汁でも入ってやしないかと、若干不安に思いつつも、熱い茶を啜る。特に味に違和を覚える事もなく、紗雪は胸を撫で下ろした。
悠一がすごい、と言うとおり、庵を囲む緑は見事なものだった。
庭、というよりも、森だ。
大樹が風に枝を揺らす。重なる葉と葉の隙間から、陽光が線状に漏れていた。
チチ、とどこかから小鳥の鳴く声が聞こえる。耳を澄ませば、葉と葉が擦れる音や鳥の声以外にも、虫の鳴き声も聞こえた。
木漏れ日に照らされた鮮やかな下生えには、小さな花々が交じっている。黄・菫・白。それら小さな花々の上を、蝶がひらりひらりと舞っていた。
どれもが同じ緑でありながらも、全く違った色味を持つ。それは木々それぞれの色でもあるだろうし、陽光の当たり方にもよるだろう。深緑も有れば、萌黄も有る。
緑だけではない、幹の茶もだ。赤みの強いものも有れば、黒に近いものも有った。
そして幹に苔むした緑ですら、それぞれに違った色を持っていた。
自分の家にも庭は有る。庭には池も有るし、鹿威しも有るし、鯉もいる。だがその庭は人工的で、どこか無機質だ。
だがここの緑は、人の手が加えられていない所為か、どれもいきいきと輝いて見えた。
久しぶりに、ゆっくりと緑を眺めた気がする。
何だか心が落ち着いた。
綺麗ね、と紗雪は呟いた。綺麗、としか表現できない。語彙の少なさを残念に思う。
隣で悠一が頷く。ざわざわと風に木々が揺れる。
二人は言葉もなく、しばらくの間じっと森を見つめていた。
たとえ言葉を交わす事がなくとも、居心地が良かった。間に落ちる空気は、穏やかで緩やかだ。
ふと、がさ、と低木が音を立てた。風の音のように、規則的ではない。
その音で、紗雪ははっとした。どれくらいぼんやりすごしていただろうか。
隣を見ると、悠一も同じだったようだ。少し気まずそうに笑った。
「お茶、温くなっちゃったね」
「あ、うん、そうね」
音がますます不規則になる。
首を傾げ、悠一を窺うと同時に、音の正体が姿を現した。
鳩だ。鳩の他にも、雀などの小鳥がいる。
くすりと悠一が小さく笑った。
「最近、誰かが餌をやっているみたいでね。よく鳥が集まってくるんだ。鳩とか雀とかは良いけど、鴉とか大きいのは少しびっくりするよね」
「分かる。何で鴉ってあんなに威圧的なのかしら」
鴉の態度の大きさに、何度腹を立てたことか。
ところでさ、とお茶を飲み干した悠一が紗雪に向き直る。
「紗雪ちゃんは官吏を目指してるんだよね? 七官吏の、どこを目指してるの?」
うーん、と唸りながら、紗雪もまた温くなったお茶に口を寄せた。乾いた口を湿して、足をぶらつかせる。
「そうねえ……。どれか選ぶなんて贅沢な話では有るんだけど、やっぱり第一志望は黒官かしら?」
「黒官か……。どうして?」
「うん、あのね……何だか照れるわね。笑ったりしない?」
「しないよ」
悠一は安心させるように柔らかく微笑んだ。紗雪は頷いて、自分の爪先を眺めながら続けた。
「……私ね、何かものを作るのが好きなの。お菓子だったり料理だったり、小間物だったり」
傀儡だったり。
「それで、私の作ったもので誰かが喜んでくれるなら、嬉しい。私の作ったものが、誰かの為になるなら、って、思うの」
だからよ、と悠一に笑いかける。
初めて、黒器を目にした時の心の震えは今も覚えている。
あれは、祭りの時だ。父と並んで奉納舞を待っていた時だった。
舞台に続く石畳の、両脇に並んだ石灯籠。
日が落ち、徐々に空が夜に支配される。
辺りに灯は無く、隣の父の顔ですら良く見えない。
笛の音が夜を裂いた。後方から一つ一つ、石灯籠に灯が点る。
蝶灯だ。
石灯籠の中、蝶の形をした灯が、ゆらりゆらりと羽ばたいている。
舞台まで灯が届いた時、鈴の音と共に、面をつけた如月が現れた。
彼(彼女かもしれないが)の周囲を、蝶灯が舞っている。
その向こうには、満月が照っていた。
魅入られた。瞬きも忘れる程だった。
その帰り道の事だ。父に、うるさいと言われる程に蝶灯の事を聞いた。
そして、瑠璃七官の一つ、黒官が作ったものなのだと知った。
それまでにだって祭りには毎回顔を出していた。だがそれまで、奉納舞を見た事が無かった。奉納舞よりも、屋台を雪斗と巡る方が主だったのだ。
そうだ、あの祭りは、雪斗が出て行ってすぐ後の祭りだった。
「作りたいってだけなら、何も官吏を目指さなくても、って話だと思うかもしれないけどね。他にもたくさん仕事は有る訳だし。……それでも、色々考えた結果、やっぱり黒官になりたいって思ったの」
それに『姫計画』の事も有るし。
心の中で付け加えたもう一つの理由は、流石に悠一に伝えるわけにはいかない。紗雪は曖昧な笑みに心中の声を隠した。
「……そっか……」
悠一は暗い顔をしている。紗雪から視線を逸らし、硬い表情で俯いていた。
首を傾げると、悠一は目を瞑って、口を開いた。
「でも君は、もう一つの黒器の事も知っているんだろう?」
硬い声音に、身を竦ませる。