瑠璃の昼行灯 零 8
店から少し離れた、石灯籠の前に佇んでいた悠一は、にこりと笑って軽く手を上げた。
「おはよう。って、そんな時間でもないか」
「いえ、お、おはよう、ございます」
胸に手を置いて、上がった息を整える。
「声をかけようと思ったんだけれどね。壱班の人と、話が弾んでいるようだったから……」
ぶんぶんと首を振る。
そんな事気にしないで、それから、気を使ってくれてありがとう。そう言いたかったが、息が整わず上手く言葉にならない。
しばらく沈黙が落ちた。
二人の間に、紗雪の荒い呼吸音が落ちる。
それもずいぶんおさまってきた頃、紗雪は深呼吸を何度か繰り返し、顔に浮いた汗を
「良かった」
「え?」
「もう一度君に会えて」
悠一は柔らかな微笑を浮かべる。
瞬く間に、紗雪の顔が熱くなった。
だから、もう、何なのだ。期待してしまうではないか。
これでそういうつもりが全く無いとかだったら、罪作りにも程が有る。
「昨日さ、よくこの辺りには来るとは言っていたけれど、いつ頃にいる、って事は聞きそびれちゃって……。失敗したなあって思ったよ」
乱れた髪を手櫛で整え、紗雪は悠一を見上げた。
「ずっと店にいるのも変だし、店の前にいるのも変だし、どうしようか、今日は帰ろうかなって思っていたらね、ちょうど君を見つけたんだ」
良かった、ともう一度悠一は呟いた。
その言葉に自然と顔がほころぶ。
嬉しい。
同じ気持ちでいてくれた事を、とても喜ばしく思う。
「あの……私もさっき、一回店に来て、いなくて、帰ろうかなって思って、もう一度お店覗いてみようって思ってここに来て、それで……」
「そうだったんだね。ふふ、ぼくと一緒だ」
「そう、ですね……」
二人同時に笑いあう。
「あ、そうだ。ねえ、敬語じゃなくて普通に話して欲しいな。そっちの方が君が近くなった気がするから」
全くもう。どうしてこの人はこんな恥ずかしい台詞を口に出来るのか。からかわれているのでは、とついつい思ってしまう。
紗雪は熱くなった頬を数回叩き、落ちてきた髪を耳にかけた。
「……分かったわ、悠一」
上目に悠一を見やり、可能な限り挑戦的な笑みを浮かべて言う。もし、からかわれているのだとしても、あなたの言葉に惑わされてなんかいないのよ、という意思表示の為に。 (実際の所は、惑わされに惑わされているのだが)
悠一は一瞬目を瞠ったが、すぐにいつもどおりの柔和な笑みを浮かべて言った。
「それでは、お手をどうぞ?」
すっと優雅な仕草で手を差し出され、紗雪は赤面した。
本当にもう、惑わされてばかりで癪だ。
掌に汗が滲む。どうしたの、と言うかの様に悠一は小首を傾げる。
「……じゃあ、ありがたく」
とは言ったものの、このじっとり濡れた手を彼の手に重ねるのは気が引ける。紗雪は悠一の小指の先を、僅かに握った。
悠一の小指を掴んだまま、彼の半歩後ろほどを歩く。
くすくすと楽しげに悠一が笑っている。どうにかして一矢報いたいものだが、良い方法が思い浮かばない。とりあえず、彼の指を握る指先にぐっと力を込めてみた。
悠一は僅かに柳眉を顰め、痛いよ、と漏らした。
「……誰にでもこういう事してるの?」
「誰にでもはしないね」
ずっと以前に読んだ読売の記事を思い出す。
曰く、如月の次男殿は夜な夜な花街を歩き回り、賭場やら遊郭やらに顔を出しているとかいないとか。
「じゃあ誰にだったらしているの?」
「側にいてほしいと思った人にだけ」
卑怯な答えだ。紗雪は頬を膨らまして俯いた。卑怯だと分かりながらも、嬉しいと思ってしまう自分が悔しい。
「……ぼくは、そんなに信用が無いかな?」
悠一の顔が寂しげに曇る。紗雪は慌てて首を振った。
「うあ、や、そういうわけじゃないのよ? ……いや、うん。そういう、事なのかしら……。ごめんなさい。私が知ってる悠一の事って、その、読売の情報しかないから……」
「読売?」
「え、と、その。……あまり、良い風には書かれてないじゃない? 次男様はいつもこれこれこうだー、って感じで……。それを全部信じている訳じゃないけど、やっぱり、その、気になるっていうか……」
主に色めいた方面の事が特に。
気まずい沈黙が落ちる。怒らせてしまったかと、ちらりと悠一を窺う。
「……なるほどね」
悠一は軽く握った手を口元にあてて、にこやかに笑った。
「でも、全部を信じているわけじゃないんだろう? それだけで、ありがたいよ」
思わず、ぐ、と変な呻きを漏らしてしまった。
憂いを含んだ彼の笑みが、あまりにも綺麗すぎたからだ。
胸を押さえて、顔を背ける。全く、好みに合致しすぎているというのも困りものだ。
「ところで。ねえ紗雪ちゃん、その腕はどうしたの?」
「え、何?」
「これ」
と、悠一の指を掴む腕を、ちょいと指で指し示される。そこには先日の稽古で得た青痣が有った。
「あー……これね。この前友達にちょっと稽古つけてもらったの。その時に、ね」
「稽古って……、ああ、そうか。紗雪ちゃんは官吏を目指してるんだっけ」
「うん、そう、それで。……あれ? 私悠一にその事言った?」
「教本を見て、そうかなって思ったんだ。違った?」
「あ、ううん。違くないわ」
そうか。あの時落としてしまった教本を拾ってくれたのが悠一だった。あの時のおかげで、今こうして喋っていられるのだから破天様々とも言える。
「……痛そうだね」
悠一が眉を寄せる。白い頬は心なしか、常以上に白さを増している。
「もうほとんど痛くないのよ? ……ねえ、もしかしなくても悠一って痛い話とか、血とかってすごい苦手?」
「ああ、うん……。情けない話だけども、見るのも怖いくらいだよ」
そういえば先日も、破天と壱班の争いを見て青ざめていた。
「だから、ね。どうしても、暴力は苦手で……。これじゃあ駄目だと、分かってはいるんだけれども……」
悠一は俯いて言った。形の良い唇には自嘲の笑みが浮かんでいる。
紗雪は、勇気づけるように力強く悠一の掌を握った。
「私もよ」
「……え」
悠一が疑問符を浮かべる。
紗雪は悠一の隣に並んだ。
「私も、痛いのとかは嫌。どうにかしなきゃって分かってるけど、いつも思うけど、できないの。怖くて」
じっと、視線を注がれているのを感じる。
「官吏になりたいって思う気持ちは本当だけど、実戦稽古とかが怖くて嫌って思うのも本当なの。できるなら避けたいわ。やりたくない。……でも、やっぱり官吏になる為には必要だし……。って、分かってるけど、嫌で、怖くて、……困ったものね」
掌を握り返された。
「……うん、困ったね」
悠一が大きく息を吐く。
「ぼくもね、兄の、役に立ちたいって思う気持ちは本当なんだよ。この瑠璃を、少しでも良くできたら、って。でも、役に立たなくて……。考え方が合わなかったり、ね。それに、何をしても、比べられて……。兄の事は尊敬しているけれど、兄の役に立ちたいけれど、そんな時は少し、兄が疎ましくなる、かな……」
困ったね、と悠一は笑い交じりにもう一度呟いた。
「うん……。比べられるのは、苦しいわよね……」
自分もそうだ。
何をしても青官長の娘だから。
何をしても青官長の娘のくせに。
頑張って、努力して、ようやっと得た何かも、青官長の娘なのだからこれくらいは当然だと言われてしまう。
頑張って、努力して、たどり着けなかったならば、青官長の娘のくせに何故これくらいできないのかと言われてしまう。
そして最近は、そこに長男の事まで付加される。
真春君は流石だな、流石は坂崎の嫡子だな、それに比べてあの子は駄目だね、また試験に落ちたのかい、何をしているんだ、努力が足りないんじゃないのかい、全く、どんな風に勉強しているんだか、云々。
紗雪は嫌な思い出を振り払うかのように、首を軽く振った。
せっかく悠一と一緒にいるのだ。嫌な思いに支配されたくない。
今はただ、紗雪として、一人の十七歳の少女として悠一と接していたい。
「……ぼくがね、君と話したいって思ったのは、君が青官長の娘だって、そう聞こえたからなんだ」
思わず足が止まった。
足を止めた紗雪に引っ張られる形で、悠一も足を止める。振り向いた。
「……ごめん。言い方が悪かったね」
ごめん、となおも謝る悠一に手を引かれ、もう一度歩を進める。
「うぬぼれっていうか、自分勝手っていうか、うん……、恥ずかしい話なんだけれども」
悠一は軽く咳払いをして続けた。
「痛みをね、分かってくれるんじゃないかと思ったんだよ。……きっと、ぼくと同じ痛みを抱えてるんじゃないかな、ってね。……だから、話してみたい、って思った。いきなり話しかけるのも変な話だし、何かきっかけがないものかな、と思っていたら、ああいう事が起きてね。丁度良かったよ」
くすくすと悠一は肩を揺らす。
「……今はね、少し、苦しくて……。皆とは少し離れた場所に住んでいるんだ。……離れていたとしても、状況は変わるものではないけれど、それでもやっぱり、気持ち的には少し楽かな」
と、悠一は自嘲と悲しさがないまぜになったような、複雑な笑みを浮かべた。
「そう、なの……。今はどこに住んでるの?」
「うん、案内するよ。というよりも、さっきからね、実はそこに向かっていたんだけれども」
勝手にごめんね、と悠一は苦笑した。
「いや、ううん、全然!」
慌てて否定する。良かった、と安堵の表情を浮かべる悠一に、紗雪も安堵する。
だが。
(……えっと、つまり……)
家に、お呼ばれする、という事は。
これは何だ、つまり、『そういう事』の前兆なのか?
ならば、如月の者を示す桔梗の花の刺青も、本日お目見えという事なのか?
(そんな破廉恥な……!)
いやいや、まさか。
こんな貴公子然とした悠一がまさか『そんな事』を考えているわけがない。
だがしかしだ。
影虎も言っていたではないか。胡散臭い、と。絶対裏有るだろお前、と。
(いや、うん、思い上がりというものよ)
そうだ。思い上がりだ。そうに違いない。
(それに、もし本当に『そう』だったとしても、それを逆に利用すれば良いのよ)
既成事実ができるというものだ。そうだ、『姫計画』も躍進するに違いない。
「……ええと、どうかした? ぼく、何か変な事でも言った、かな……?」
「いえ全く!」
「う、うん、そう……? なら良かった……」
怪訝そうな顔をする悠一をよそに、紗雪はひそかに気合を入れた。