瑠璃の昼行灯 零 7
三
何だか濡れた感触で目が覚めた。
「……ふあ?」
まだ眠気に支配された頭で周りを見渡す。
文机の教本が何故だか濡れていた。
(あー……あーあー……)
紗雪は濡れた口周りを袖で拭った。変な体勢で転寝をしていた所為だろう、体中がぎしぎしと強張っている。
うん、と背伸びをしてから首を回す。欠伸に滲んだ涙を拭った。
障子越しの光の加減からするに、もう昼前だ。
(……昼?)
慌てて立ち上がる。私塾がもう始まっている時間だ。
(……って、そうよ。今日は休みだわ)
急に立ち上がった所為か、眩暈がした。
文机に突っ伏す。慌て損だ。
そうだ、今日は私塾が休みだから、夜遅くまで勉強しようと思ったのだ。先日帰ってきて、食事も風呂もそこそこに、すぐさま勉強に取り組んだのだった。
いつ眠ってしまったのだろう。計画では朝日が昇るまで頑張って、それから眠って、その後出かけようと思っていたのに。
朝日が昇る所は見ていない。どこからか鶏の鳴き声が聞こえてきたのは覚えている。そしてもうこんな時間か、法学に飽きたから少し休憩して違う科目にしよう、と考えていたところまでは覚えている。
だがそこから先の記憶が無い。
文机に広げられた教本は法学のままだ。『少し休憩』のはずが、随分と長い休憩になってしまった。
ごろりとその場に体を伸ばす。
どうせ同じ睡眠なら、もっとちゃんとした睡眠を取っておきたかった。変な格好で寝てしまった所為か、体がだるいし、すっきりとしない。
計画も台無しだ。一度立てた計画が崩れてしまうと、何だかやる気を無くしてしまう。
(とりあえず、ご飯食べて、それから計量とか、覚える系じゃないやつにしよう)
そしてそれから、悠々館に行ってみよう。会えるかどうかは分からないが。
悠一は先日、無事に帰れたのだろうか。
逃げ出した破天は、壱班がちゃんと捕まえたのだろうか。
と、そこまで考えて、無用の心配だと紗雪は気付いた。
破天の人間と言えど、瑠璃の民だ。如月の顔は知らないだろう。
(あれって、やっぱりそういう意味なのよね……?)
先日の悠一の台詞を思い出す。
『だからぼくは、昼行灯なんて呼ばれてしまうんだね』
そしてあの苦しげで、寂しげな表情。
そこから導き出される答えに、おそらく間違いは無いだろう。
ぐい、と紗雪は自分の頬を抓る。痛い。現実だ。
如月の次男様が、あんなに自分の好みに合致していて、かつ、自分の事を気にかけてくれているだなんて、誰かに騙されているのではないかと思う。しかしまあ、自分を騙して得する人間なんていないだろう。それはそれで思い上がりという物だ。
流れる黒髪、柔らかな物腰、暖かな声音。
思い出すだけで、胸が苦しくなる。会いたくなる。
(……よっし!)
頑張ろう。とりあえずご飯だ。そして勉強だ。
紗雪は頬を叩いて気合を入れ、勢いよく立ち上がった。
ぼんやりと店を遠巻きに見つめながら、紗雪は嘆息した。
(いつぐらいにいるかって、聞いておけば良かったわ……)
よく買いに来る、としか悠一は言っていなかった。もっと、詳細を聞いておくべきだった。
あの日の、例の騒動を悠一は見ていたという。
あの告白の一件があったのは確か、夕方頃だ。夕日で空が染まり始める頃。
そして昨日、悠一と出会ったのは、夕飯時だった。太陽の残り灯が、空の隅に僅かに光る時間帯。
今は午後。真昼と夕暮れの間の時間だ。日差しも和らぎ、黄身の強い陽光を受けて長く影が伸びている。その先にはいつもの様に、繁盛している悠々館があった。
悠々館はいつも繁盛しているが、誰が店頭に立つかによって、客層が少し異なってくる。
店主が店番をしている時は、歳若い少女が多い。
店主の息子が店番の時は、紗雪の母と同年代の女性が多い。
女将さんが店番の時は、男性客が増える。
本日店頭に立っているのは店主だ。忙しく働く店主を見つめ、少女達が何やらきゃあきゃあと盛り上がっている。
まあ確か格好良い、と言うか、雰囲気が有る。
短く刈った髪に、無精髭と捻り鉢巻。まさに、いぶし銀という言葉が良く似合う。理想の父親、といった感じだ。
ぼうっと店を眺めていると、紗雪を追い越して店に向かっていった少女達に睨まれた。彼女達も店主を贔屓にしている子達だろう。
別に自分はそんなんじゃないのに、と少しばかり腹立たしさを感じる。
が、確かにずっとここで店をぼんやり眺めていたら不審だ。それに、いらぬ恨みは買いたくない。
とりあえず、この場から離れる事にしよう。紗雪は踵を返した。
とはいえ、あまりこの場から遠ざかりたくないのも事実だ。紗雪は店の裏手に回った。
と、ばさりと羽音がして紗雪は目を瞠った。
鳩が飛び立っていく。
裏手では、息子がどうやら休憩中のようだった。
頭に巻いた手ぬぐいに、高い身長。明るい笑顔。人懐こい雰囲気の彼は若い少女達にも人気が有るが、それ以上に母親世代の女性に人気が有った。
彼は木箱に腰かけ、ぶらぶらと足を揺らしている。その足元にはまだ何羽か鳩が残っていた。彼は何か小さく千切り、足元の鳩に与えてやっている。
彼は紗雪に気付いて、軽く頭を下げた。紗雪は会釈を返し、その場を去った。休憩している所を邪魔しては悪いし、客としては言葉を交わした事は有るが、それ以外で話した事は無い。彼の私的な時間を共有出来る程、親しくは無かった。
(どうしよう……)
目的もなく、ただ人の流れに沿って足を進める。
とりあえずは家へ戻ろうか。
いやしかし、その間に悠一が来たらどうしよう。
とはいえ、このままずっとこの付近に留まるのも不審人物になってしまう。
歩きながら、紗雪は首を捻った。
(……帰ろうかな)
何だか虚しい。
いつにも増して丁寧に髪を梳かしてきたし、お気に入りの紅も差してきた。長靴だって磨いたし、香だって焚いてきた。なのに全部、から回りだ。
大きく嘆息する。とりあえず、もう一度店を覗いてみて、それで見当たらなかったら帰る事にしょう。
そう思い、紗雪はもう一度店へと足を向けた。
期待に胸を高鳴らせながら、遠目に店を覗いてみる。
(……やっぱり、いないわよね……)
そうそう都合の良い話は無いか。紗雪はがくりと肩を落とした。
と、その肩を軽く叩かれ、紗雪は勢いよく顔を上げた。
あまりにも勢いが良すぎたのか、少しばかり驚いた顔をしている彼を見やり、紗雪は思わず呟いた。
「……何だ……」
「あら。何だか期待外れな顔なあ」
苦笑交じりに、影虎は言った。
「あー……ごめん。ちょっと、人探してたの。その人かと思ったのよ」
「そっか。そりゃ悪い事したな」
「ううん、こっちこそごめん。失礼な発言したわ」
「お兄さん紗雪ちゃんのそういう素直なとこ好きよー」
あはは、と笑いながら、項垂れる紗雪の頭をぽんぽんと軽く叩いてくる。
「で? どなたをお探しで?」
「……未来の旦那?」
「ほう」
影虎は、少し大げさに驚きの表情を浮かべた。制服の腕を組んで、うんうんと頷く。
「何かちょっとバカにしてない?」
「や、バカにっつーか、驚いたっつーか」
膨れ面で影虎を見上げ、紗雪は言葉を続ける。
「昨日ね、この辺りで会ったの。すっごい私好みの人」
「顔が?」
「顔もだけど、何ていうのかしら、……立場……?」
「中身は?」
「それはこれから詳しく知っていくの」
「んー……何だ、それだけ聞いたら何となく、紗雪ちゃんが嫌な女な感じに聞こえるなあ」
「何とでも言って」
頬を膨らまして顔を背ける。
「そりゃあ確かに、悠一がどんな人ってのは詳しく知らないけど。顔とか彼の身の上とか、そんなのに惹かれたってのは事実だけど。でもすごいドキドキして、もう一回会いたいって思ったのも事実だもの」
「……そっか」
影虎が神妙な顔で頷く。紗雪は唇を尖らせた。
「やっぱりバカにしてるでしょ」
「や、してないって。そういう風にさ、まっすぐに好きになれるのって、すげえなあって思ったんだって」
お兄さんあんまし惚れた腫れたって無いからねー、と笑いながら、顔の前で手を振る影虎だ。
無駄に彼を疑ってしまい、少し気まずく思う。その気まずさを払拭するように、紗雪は落ちてきた髪を肩の後ろに流し、胸を反らした。
「まあね。もっと尊敬して良いわよ? それで私の『姫計画』手伝ってくれたら、もっと嬉しいわ」
「はは、俺に手伝える事なら。……っつっても何だ、料理とか……あとは、組み手の相手とかしか手伝えねえけど」
「……組み手は、良いわ……」
筋肉痛はずいぶんマシになったが、まだ打ち身は消えない。受身を取るのが下手な所為なのだが。
「しっかし、一回見てみたいもんだな。その、……悠一君? だっけ? 面食いな紗雪ちゃんが一目惚れするくらいなんだから、相当な男前なんだろ?」
腕を組んだ影虎が、面白がる様ににやにやと笑う。
正直、悠一の事を誰かに話したくてうずうずしていた紗雪は、ここぞとばかに喰らいついた。
「そうなの! あ、でも、男前っていうより、綺麗? まさに美形って感じ。物腰柔らかくて上品で優しくて紳士的で儚げでちょびっとお茶目で素敵なのよ!」
「うわ、胡散臭え」
「何でよ!」
「や、同じ男としてね? 絶対裏有るだろお前、みたいなさ」
「もう……っ。でも絶対、会ったら『ああ、確かになあ』って思うわよ……ぬう!」
「『ぬう』ってお前……」
「ちょ、ごめん、影虎さん、私ちょっと」
「あ、巷で噂の悠一君発見?」
影虎は手庇を作って、紗雪の視線の先を追う。
「あー……うん。ああ、確かになあ」
「でしょ? ってなわけでごめん、ちょっと行ってきます!」
「はいよ。ご武運を」
影虎は脱帽して、ひらひらと帽子を振る。
紗雪は息急き切って、悠一のもとへと走った。