瑠璃の昼行灯 零 4
二
体中が痛い。
(もう……須桜のおバカ……)
ぱんぱんに張った太ももを片手で揉み解しながら、紗雪はもう片方の手で文机の上の教本を片付ける。
「坂崎さん、またね」
「あ、うん。また」
同窓の生徒に軽く手を振る。二の腕がびきりと痛んだ。思わず顔を顰める。
「……不細工なツラ」
通りざまに、昨日のあの男が呟いた。紗雪は顔面の筋肉を総動員させて、最高の笑顔を作り出して言った。
「さようなら、また明日ね。今日の模擬試験の出来は悪かったかもしれないけど、気にしないで。頑張れば絶対、結果はついてくるんだから」
男はふん、と鼻を鳴らし、目を逸らした。本日もまた、趣味のよろしい柄の袷を身につけている。
男の姿が完全に視界から消えてから、紗雪は思い切り舌を打った。
あんな馬鹿の相手をするのも馬鹿らしいと思うが、何らかの形で発散しなくては、やっていられない。
(自分で言っときながらアレだけど。頑張れば絶対、結果はついてくる、ね……)
教本を揃えて、鞄に詰め込む。
痛む体を庇いながら、そろそろと立ち上がった。それだけの動作だというのに、足やら腰やらが痛んで仕方ない。
昨日、風呂に入る前に須桜と手合わせをした。この体中の痛みは、その時に得たものだ。
それは、影虎の手料理に満足し、食後のお茶を楽しんでいた時だった。
『ねね、紗雪。お腹もいっぱいになった事だし、ちょっと手合わせしない?』
『え』
『だって紗雪、大学試験の実戦がやだって言ってたでしょ? だからあたしが稽古つけてあげる。稽古って言ったら何か偉そうだけど。ね? しよ?』
『えー……』
『あたしじゃやだ?』
『じゃ、なくて、ね。痛いのが嫌なのよ』
『まあ、痛いのは最初のうちだけですよ。そのうち慣れます』
お茶を啜りながら、紫呉が面白がる調子で言った。
『何その変態発言。慣れたくないわよ……』
ほら早く、と須桜に手を引かれ、紗雪は渋々道場へ向かった。
結果、何度も転がされ、体中は痛みで満ち満ちている。その痛みが筋肉痛なのか、打撲の痛みなのかも、よく分からぬ程だ。
(本当に結果はついてくるのかしら)
須桜曰く、紗雪は攻撃される際に目を瞑ってしまうのがいけない、との事だ。それを乗り越えたら、実戦試験も大丈夫になるわよ、と言っていた。
目を瞑らなければ良いと言われても、どうしても怖いと思うと反射的に目を瞑ってしまう。須桜はそのうち慣れるわよ、とも言っていたが、その『慣れる』までの痛みやら恐怖やらを味わうのが嫌なのだ。
(それにあとは体力と、筋力かしらね……)
とんとんと腰を叩く。体中がぎしぎしと悲鳴を上げている。
なるべく動きを少なくして長靴を履き、私塾を後にした。
いつもよりゆっくりとした歩調で家路につく。
しかし何となく、家に帰りたくない。家に帰っては、またすぐに勉強しなくてはならない。今はもう少し、のんびりとしていたい気分だ。
勉強を強制されているわけではないのだが、家に居ると勉強しなくてはいけない、という気持ちになってしまう。ぼんやりしていると、どこかで両親が見ているのでは、と思ってしまう。決して両親を嫌っているわけではないが、こんな気分の時は、真面目で勤勉で厳粛な両親を少しばかり疎ましく感じる。
勉強も私塾通いも、官吏になる為に自らが望んでしている事だ。しかしそれでも、たまには気を晴らしたくなる時もある。
(どうしようかしらね)
昨日、紫呉は『指令』と言っていた。という事は、弐班の皆は仕事に行ってしまっているだろう。
私塾で仲良くしている皆は、仲は良いのだが、私塾内のみでの仲の良さ、といった感じだ。私生活を共に過ごせる程の仲の良さではない。
仲の良い子もいたが、その子たちは官吏の道を諦めて、既に私塾を辞めてしまっている。その子たちの家に、今からいきなり押しかけるのもどうかと思う。
とは言え、一人で買い物、という気分でもない。誰かと会って話したい。
(……そうだ!)
頭に浮かんだ人物に、紗雪はぽんと手を打った。
何の手土産も持たずに行くのも何だから、何か食料を買って行ってやろう。ちゃんと食べているのか不安な事だし。
紗雪は市へと足を向けた。
市での戦利品を抱え、紗雪は人ごみを縫って歩く。毎度ながら、ここの猥雑さは少しばかり骨が折れる。
北乾第一区。
通称、
華芸町の奥地には、香具師たちの住まいが有る。ここまで来れば、表通りの喧騒から遠ざかる。
紗雪は、長屋のある一軒を尋ねた。
立て付けの悪い引き戸を開ける。
「やっほ、雪斗。元気?」
「ぅお、ちょ、おま……っ。何か合図してから入れよ!」
雪斗は慌てて、抱えていた傀儡を手放した。
「別に良いじゃない、兄妹なんだから。何よ、見られちゃ困る事でもしてたの?」
「してねえよ! けど、ほら、アレだ、……何だ、心の準備ってのは必要なんだよ!」
「はいはい、ごめんね」
「てめえはもっと兄を敬えよコラ」
上がり框に腰を下ろして、長靴を脱ぐ紗雪の背に、何かが投げつけられた。丸められた反故だ。
それを投げ返し、紗雪は荒れた部屋の僅かな隙間に腰を落ち着けた。筋肉痛が響いて、思わず小さく呻きを漏らす。
「何だよいきなり。何か用か?」
「別に、用って訳じゃないけど。単なる気晴らしよ」
腰をさすりながら、市で仕入れてきた食料を手渡すと、雪斗は相好を崩した。
「お、悪いな。そろそろ食料尽きかけてたんだ」
雪斗は紗雪の、一つ上の兄である。
紗雪と揃いの赤銅色の髪は手入れなどされず、まるで無頓着だ。常にボサボサで、あちらこちらにピンピンと跳ねている。
髪と同色の奥二重の目は、正直言って鋭すぎる。目つきが悪い。三白眼、というやつだ。紫呉も目つきが悪いが、彼とはまた種類が異なる悪さだ。
言うなれば、紫呉は鋭利。雪斗は一言、『険が有る』だ。
それを気にしてかどうかは知らないが、最近雪斗は眼鏡を掛け始めた。黒縁の、洒落た眼鏡だ。よく似合っているが、それでもやはり目つきの悪さは隠しきれていない。
雪斗は麻の袷を尻からげ、その下には膝丈の洋袴を穿いている。袖は襷でたくし上げられていた。
目つきの悪さやら険相を気にしているのだったら、もっときっちりかっちりと服を着れば良いのに、と思わないでもない。そうすれば、粗野で乱暴な第一印象を与えてしまう事も減るだろうに。
まあ、兄の事だから動きやすさを重視しての、この格好なのだろうと思うが。
この町で傀儡師として暮らす雪斗は、万年金欠状態だ。
傀儡師としてはまだ駆け出しで実入りも少ない。日雇い労働で金を稼いでいるみたいだが、それも傀儡師としての修行の合間を縫ってのもの。雀の涙ほどだ。
狭い部屋のあちらこちらには、傀儡の部品が転がっている。壁には傀儡の衣装や大きな番傘、それと自らが着る黒子衣装が掛けられていた。
紗雪も昔は一緒に傀儡作りをして遊んだものだ。その時は、こんなに本格的な物ではなかったが。
「ってか、気晴らしって? 何だよ、何かあったか?」
がさがさと袋を漁っていた雪斗が、ふと首を傾げた。
「べっつにー。特に何かあったってわけじゃ無いんだけどね。何か、家に直帰するのが嫌だったのよ」
「ふぅん……」
雪斗は難しい表情で頷いた。
雪斗が坂崎の家を出て、もう六年にもなる。
幼いころからずっと、彼と父との不和は深刻だった。その溝が深い深いものになってしまったのは、雪斗が傀儡師を志していると父に打ち明けた頃だ。
そのようは卑賤な仕事は、坂崎の家の者に相応しくないと父は息子を罵り殴った。真っ赤に腫れた頬を押さえ、雪斗は無言で父を睨みつけていた。
その時の父の剣幕を思い出すと、今も身が震える程だ。雪斗と傀儡遊びをするのが大好きだった紗雪だが、その日を境に、傀儡を手にする事は無くなった。
雪斗が家を出たのは、その直後の事だ。
以来、雪斗は一度も坂崎の家には戻ってきていない。
「……今日もアレか? 私塾帰り?」
「そうよ。今日の模擬試験じゃ首位だったんだから」
「すげえな。ほんと、よくやるよ」
雪斗は目を逸らし、傀儡の頭部を手に取った。
紗雪は、側に有った傀儡の衣装を丁寧に畳む。この衣装も全て、雪斗自らが制作した物である。
「……別に。私が望んでしてる事だもの。すごくはないわ」
「そっか。……早く官吏なって稼ぎまくれよ?」
「稼いだとしても、雪斗にあげるお金は無いわよ」
「はは、だよな。
真春とは紗雪のもう一人の兄だ。大学試験にも登用試験にも一度で受かった、優秀すぎる兄だ。
手放しで兄を褒める両親を思い出す。
流石私たちの息子だ、私たちの自慢だ。確か、そんな事を言っていた。
(……頑張らなきゃなあ)
自分の腕ほどの大きさの傀儡を抱え、紗雪は大きく息を吐く。
裸の傀儡に、そこらに有った衣装を着せてやる。何だかとても懐かしく、愛おしい気持ちになった。昔はよく、雪斗と一緒に遊んだのに。
「つーかさあ。さっきから思ってたんだけど、何か今日お前動き変じゃねえ?」
「……そう?」
内心ぎくりとしながらも、紗雪はにこりと笑みを浮かべてみせる。
「おー、何かギシギシしてるっつーか。ご老体っつーか」
ばれてしまっては仕方がない。紗雪は素直に打ち明ける事にした。
「失礼な。昨日、須桜に稽古つけてもらったの。その所為よ」
「……ふうん……須桜に……」
雪斗がわざとらしく目を逸らす。
兄の変化に、紗雪は心の内で、にたりと笑った。
「ちなみに稽古に誘われた時の台詞がね、『ね? しよ? あたしじゃやだ?』でね。まあ別にだからどうって訳でも無いけど」
「…………まあ、な」
「ついでに言えば、昨日は須桜と一緒にお風呂入ったのよ」
一緒に、と殊更に強調して告げる。
「……へえ……風呂に……」
口元を片手で覆い、雪斗は俯いた。
「相変わらずの幼児体形だったわ。それに相も変わらず紫呉にご執心で、乗っかったり布団撫で回したりしてた」
俯いた雪斗の肩が、ぷるぷると震えている。面白い。
「泊まっていけばって、一緒に寝よって誘われたんだけどね、次の日も私塾が有るからって断ったの」
「……………………べ」
「べ?」
「べ、別に……っ、別に羨ましいなんて思っちゃいねえんだからな!」
そっぽを向いて、真っ赤な顔で雪斗は言った。面白い。面白すぎる。
「結局どうしたのかしらね。いつもみたく、紫呉の布団に潜りこんだりとかしたのかしら?」
「な……っ」
言葉を失い、雪斗はぱくぱくと口を動かす。しばらくの後、視線を逸らし、はにかんで言った。
「……そ、そんなに誰かと寝たいってんなら、オレが一緒に寝てやっても良いんだぜ……?」
「本人に言いなさいよ」
「言えるかよバカ! 恥ずかしいだろ!」
「はいはい」
にたにた笑って頷くと、雪斗は更に赤くなって喚いた。
「べ、別に……、好きとかじゃねえんだからな! 勘違いするなよ!」
「はいはい。分かりました」
雪斗は髪に匹敵するほどの赤い顔で、がしがしと髪を乱した。そして、仕切り直しと言うかのように、赤くなった頬を両手でべしりと叩く。
「……つーかさあ。お前、あいつらと仲良いんだな」
思いの外痛かったのか、僅かに涙の滲んだ目で、雪斗は紗雪を上目に見た。
「そうねえ。って言っても、結構久しぶりに会ったんだけどね。私も試験の勉強で忙しかったし。皆も事件で忙しかった、……っていうか、今も忙しいみたいだし」
「事件……? ああ……、こないだのアレか……」
雪斗の顔が曇る。
「おかげで、父さんの機嫌すごい悪いわよ」
ただでさえ悪い雪斗の目つきが、更に鋭くなる。
「別に、どうでも良いよそれは」
苦笑して、紗雪は頷いた。
大きく息を吐いて、雪斗は髪を乱す。心乱れた時の彼の癖だ。
「まあ、それはどうでも良いんだけどよ。……お前、あんましあいつらと仲良くしねえ方が良いんじゃねえの?」
「は? 何で? ヤキモチ?」
「な……っ、バカ! ちげえよ! そうじゃなくて……、何つーか、さあ……」
もごもごと雪斗は口ごもる。何なのだと、紗雪は首を傾げた。
「だってあいつら……」