瑠璃の昼行灯 零 23
(……けど)
やっぱり好みではない。
造作はむしろ整っている部類に入ると思う。
鋭く切れ上がった一重瞼も、酷薄そうに見える薄い唇も、魅力的と言えば魅力的だ。
だが紗雪にはどうにも受け付けない。
それに彼は自分より年下だし、並ぶと大して身長も変わらない。
紗雪は女性にしては長身だ。だからこそやはり、自分より身長の高い男性に心惹かれる。
「……何ですかそのしょっぱい顔は」
「何でもないわ。好みってのはやっぱり変わらないものなのねえ……」
「はい?」
眉を寄せる紫呉から目を逸らし、紗雪はしぶい顔で笑う。
『姫計画』遂行の為、紫呉の立場は申し分ない。
だがしかし。
「あんたじゃねえ……」
「だから何なんですかそのしょっぱい顔は」
半眼で紫呉を見やる。紗雪は両手を後ろについて足を投げ出した。
どこかに手ごろな伴侶は転がってないだろうか。
まあ、そう簡単にいくわけがないと分かってはいるのだが。
ため息をつく。
(……って、ちょっと待って)
だがすぐに、紗雪はぽんと手を打ち、勢いよく身を乗りだした。
「跡継ぎ様って、今いくつ?」
「兄様ですか? ……え、二十五ですけど……」
紗雪の勢いに頬を引き攣らせながら、紫呉は律儀に答えをくれる。
「どんな方?」
「どんなと言われましても……」
「見た目とか」
「えー……母上似、ですかね……」
心中で拳を握る。
母親似に不細工はいないのが定石だ。
「中身は?」
「……………………優しい人ですよ?」
その間は何だ。
「身長は?」
「えー……雪斗より、少し高いくらい、ですかね……?」
自分の頭の側で手をひらひらさせて、紫呉は兄の背を測っている。
「声とかどんな感じ?」
「声……。多分紗雪聞いた事有りますよ」
「嘘!」
「伝鳥越しにですけど。先日訪れた時に丁度伝鳥が鳴いていたでしょう? あれ兄様ですよ」
そういえばそんな事が有ったか。
だが気に留めていなかった。紗雪はバレないように小さく舌を打つ。
「……紗雪?」
「何でもない! 何でもないのよ?」
「はあ……」
訝しがる紫呉に笑顔を向け、紗雪はすっくと立ち上がる。
「……よし! 帰って勉強ね……!」
黒官の官舎は支暁殿の側にある。
とは言え下官のうちから、そう簡単に会えはしないだろう。
しかし紗雪は実弟と知り合いなのだ。紫呉の存在を上手く利用すれば、下官のうちから会えるかもしれない。
それに自分は青官長の娘だ。
それも利用してやる。今まで青官長の娘だという事で嫌な思いばかりしてきたのだから、ここいらで良い思いをしても許されるだろう。
そして、年若く有能な自分と恋に落ちる跡継ぎ様……。
(……最高……っ……)
頬が緩む。
にやける紗雪を、紫呉はさも怪訝そうに眺めていた。
「それじゃあまたね。また来るから、その時はよろしくね」
「……もちろんです」
微笑む紫呉に紗雪は手を振り、背を向ける。
あ、と呼び止められ振り返ると、紫呉はためらいがちに視線を逸らした。
「……悠一殿の事なんですが……」
「待って」
遮る声に紫呉が顔を上げる。
「……まだ、私の中で整理が出来てないの。……また、きちんと聞けるようになったら教えて?」
悠一の名を聞くと同時に、胸が痛んだ。
まだ彼にまつわる事は、冷静に聞けそうもない。それが良い知らせであれ悪い知らせであれ、自分の心が乱れる事は確実だ。
紫呉は神妙な顔で頷いた。
「分かりました。では、その時にまた」
「……うん。じゃあ、またね」
手を振り、紗雪は靴を履き替えに玄関へ向かった。
上がり框に腰を下ろし、長靴に足を入れる。背後できしりと廊下が鳴った。
「あの、紗雪……。壱班の人がお礼のお菓子預かっててくれててね、それさっき持ってきてくれたんだけど……」
須桜は控えめにそう言って、隣にちょこりと腰を下ろした。
「……ごめんなさい……」
俯いて肩をすぼめ、明らかに消沈した様子だ。
「あたしの本当の名前ね、御影須桜って言うの」
こつりと、肩に頭を乗せられる。
涙の滲んだ目で、上目に見上げられた。
「ごめんね、嘘の名前教えてて。……でも、言い訳させて?」
紗雪は頷いて、小さく苦笑する。
美少女の涙と上目使いに逆らえるはずもない。本当、普通にしていたら十割可愛いのに。
「あたし達が自分達の事隠してたのは、怖かったから。話したら、紗雪が遠くに行っちゃうんじゃないかって、不安だったから。……実際雪斗はあたし達の事を知って、前より少し遠くなった。紗雪とも、そんな風に距離ができちゃうんじゃないかって、怖かった。……それから、偽名も本当の名前にしてたのはね、理由が有るの。まず一つ、本名に近い方が何かと都合が良いから。かけ離れすぎてると、咄嗟の時に反応できなかったりしちゃうから。……それよりも、あたしは、友達にちゃんと、名前で呼んでほしかった。須桜ってちゃんと、呼んでほしかった。……だから」
ぐりぐりと額を肩に押し付けられる。
紗雪は須桜の背をぽんと叩き、顔を上げるように告げた。
「怒ってないわよ。だからそんな顔しないでよ」
「……本当?」
「本当。これからもよろしくね、須桜」
笑いかけると、不安に満ちた須桜の顔がぱあっと明るくなった。こちらの心まで思わず華やぐ。
「ね、良かったらお菓子食べていって? 上がってってよ」
「でもお礼って……」
「うん。こないだの爆弾事件の被害者がね、助けてくれてありがとうって壱班に持ってきてくれたの」
雨の中、少女は男の腕に抱えられ泣き叫んできた。
助けてと泣く少女と目が合った。
だが、紗雪は何も出来なかった。
紗雪は袖を引く須桜の手を柔らかく解いた。
「ごめんね。私、ちょっと急ぐから……」
ごめん、ともう一度苦笑する。須桜は残念そうに顔を曇らせた。
「そっか……。じゃあ、また今度ね?」
「うん。また今度、どっかにお茶でもしにいきましょ?」
満面の笑顔で頷く須桜に手を振って、紗雪は屯所を後にした。
その菓子を、紗雪が頂くわけにはいかない。
だって紗雪は何もできなかったのだから。
ただ見ているしかできなかった。
正直言って、嫌悪はいまだに残っている。
黒器は人を傷つける為に用いられるという事実。
だが、その黒器によって、少女の命が救われたのもまた事実だ。何の力ももたぬ紗雪は、ただ見ているしかできなかったのだから。
だが、その無力さに甘えたくないと思った。
自分は今まで官吏になる為にずっと勉強をしてきた。その過程は零ではない。
彼らの為に何も出来ないのかもしれない。
だがそれでも、何もしないでいるのは嫌だ。
自分は戦う事はできない。
武器を手に取り誰かと向かい合うなんて考えられない。
ならばせめて、彼らの力になれたらと思う。
黒官になって、黒器を作って、彼らを援けられたらと思う。
悠一には感謝している。黒官になるという意思を固めてくれたのだから。
だが今はまだ、ありがとうと言葉にできない。
悔しさや悲しみや苦しさが勝ってしまう。
だがいつかきっと、ありがとうと伝えられたらと思う。そんな日は訪れないのかもしれないけれども。
紗雪は目を伏せた。
殉死者の碑を見つめる紫呉の眼差しを思い出す。
紫呉の視線の先には、碑に掘られた名前があった。碑に連なる名の一番下、掘られてまだ新しい名がある。
矢岳翔太と、そう読めた。翔太とは、紫呉が偽名にと名乗っていた名前だ。
死んでほしくないと強く思う。
彼らが力を振るう事、それはもちろん怖い。冷ややかな声も獰猛な眼差しも怖いと思った。
だがそれ以上に、彼らを失う事が怖い。
死んでほしくない。
一緒にいたい。
側にいてほしい。
身勝手だと分かっているが、見ず知らずの人間の命が消える事よりも、彼らが自分の生活から消えてしまう事の方が恐ろしく思う。
自分は共に戦えない。
だがせめて、力になれたらと強く願う。
彼らと戦いを共にする黒器を作れたらと思う。
実戦試験が嫌だなんて言っていられない。
恐れる事は無い。だって、相手の命を奪う事もなければ自分が死ぬ事も無いのだから。
恐れは未だ身の内に有る。
だが、越えてみせる。
(私も、戦うと決めた)
彼らの命を護れるように。
たとえ、隣に立つ事はなくとも。
屯所を振り返る。
紗雪は一つ頷いて、芽月の風の中を走り出した。