瑠璃の昼行灯 零 18
「……悠一……?」
恐る恐る振りむけば、いつもと変わらぬ柔らかな笑みがあった。
「逃がしてくれないかな? この子を傷つけられるのは、嫌だろう?」
紫呉は目を眇め、こちらを見ている。
嫌な汗が腋を濡らす。不安に肺を押し潰されて息がしにくい。
(……何で)
悠一の手が顎から肩へとするりと移動する。
強い力で肩を掴まれた。痛むほどに。
「まず、黒器から手を離してほしい」
悠一の笑み声がすぐ間近に聞こえる。
ああ、そうか。この局面から逃れる為にか。
紗雪を人質にすれば、紫呉も手を出せないだろう。今までそれなりに親密に過ごしてきたのだから。
そうでなければ何だというのだ。悠一がこんな事をする理由、それ以外に無い。
そんなに力を込めなくても私は逃げないから。協力するから。
「悠一……」
そう想いを込めて名を呼んでも、悠一は肩の手を緩めない。
紫呉は鋭い目つきでこちらを睨めつけている。舌を打つのが聞こえた。
濡れた黒器を手から離す。
「近いね。もっと遠ざけて」
こちらを睨む視線は緩めずに、紫呉は足元に落とした黒器を蹴る。次いで鞘を腰から抜き、投げ捨てるように放った。
「うん。良い子だ」
悠一がくすりと笑う。吐息が耳を掠めた。
「それから、……そうだな。君が跪くところが見たいな。仲間をこれだけやられたんだ。それくらいはしてもらわないと」
「……悪趣味ですね」
「逆らうかい?」
ぐっと、刃を喉に近づけられる。喉に走った痛みに紗雪は身を捩った。
悠一の仲間が、指の骨を鳴らしながら紫呉へと距離を詰める。
紫呉はわざとらしく大きなため息をつき、両手を顔の高さに上げた。
悠一は顎をしゃくった。男の一人が、頷いて拳を固める。
骨と骨がぶつかる鈍い音がした。
紫呉は地面に転がる。
「はは……っ、良い眺めだね」
「……良いご趣味で」
紫呉は殴られた頬を押さえ、苦笑しながら身を起こす。汚れた袴をはらい、もう片方の手で、垂れた鼻血を乱暴に拭う。
「けれどまだ足りないな。……土下座でもしてもらおうか」
「楽しそうですね……」
「そうだね……。楽しい、かな? 一方的に命令できる立場に在るのは愉快ではあるね」
眉を顰め、紫呉は紗雪の喉元の刃を眺めている。
(ねえ悠一、何してるの? 私を人質にして逃げるんじゃないの? 何でこんな、ひどい事してるの? 早く逃げて、誰かを呼ぶべきなんじゃないの?)
紗雪の想いは届かない。悠一に突きつけられた小刀は未だ首筋に有る。
男が黒器を拾い上げた。途端、バチッと爆ぜる音がして、男は悲鳴をあげて黒器を落とす。
「何だこりゃあ……」
地面に両膝をついたまま、紫呉はその様子を見ている。
別の男が黒器を拾う。やはり、バチリと音がして男は黒器を取り落とした。
「黒器は、主を選びますから」
紫呉は、くっと喉を引き攣らせるようにして笑った。
「この……っ」
男は紫呉を蹴りつける。
紫呉は咳きこみ、倒れこんだ。
男は黒器を拾い上げた。
黒器がバチバチと爆ぜる音を立てる。男の手の皮は割け、血が流れ出していた。男は必死の形相で声を噛み殺している。
やがて、爆ぜる音が止んだ。
男の手の中に、黒器は大人しく納まっている。
「は、はは……っ」
男は優越に満ちた笑い声を漏らした。
ためつ眇めつ黒器を眺め、二三度軽く振ってみせる。
「牙月」
地面に転がったまま、紫呉は黒器の名を呼んだ。
男の笑い声が止む。
「その男を主に選びますか?」
紫呉は身を起こした。
「僕ではなく、その男を主に選びますか?」
男の顔には、未だ笑みが張り付いている。
「牙月」
紫呉はもう一度、黒器の名を呼んだ。
「お前の主は僕だろう」
ゆらりと、黒器が揺らめく。
周囲の空気を取り込むようにして、黒器がぐにゃりと歪んだ。
男は慌てて手を離す。
地面に落ちた黒器は、緋色の鞘と呼び合うようにして、揺らめきながら一所に集う。
黒器の周囲の揺らめきは次第に大きくなる。
やがてそれは、大きな一頭の狼へと姿を変えた。
黒の毛並み。
瞳は欄と緋に輝く。
ゆらめきを体の周囲に蠢かせ、狼の瞳は紫呉に向けられていた。
低く唸り、鋭い爪で地面を掻いている。
狼が地面を蹴るのと、紫呉が地面を蹴ったのが同時だった。
咆哮と共に大きく開けられた口腔には、鋭い牙が覗く。
紫呉は懐から小刀を取り出す。鞘を払い、狼の口腔目がけて刃を突き立てた。
「この駄犬が」
紫呉の左腕に、狼の牙が刺さっている。低い唸り声をあげ、欄と輝く緋色の目で紫呉を睨んでいた。
「お前は、僕にだけ従っていれば良いんだ」
紫呉は舌を打ち、小刀を横に薙いだ。
狼の姿がぐにゃりと歪む。
やがて、それは一振りの打刀へ姿を変えた。
紫呉はそれを拾い上げ、こちらに向き直る。
悠一が息を呑むのが聞こえた。
「……う、動くな」
突きつけられた刃が肌に食い込む。
紗雪は呻き声を漏らした。生ぬるい感触が喉を濡らす。
「一歩も動くんじゃない。この子がどうなっても良いのかい?」
「良くありませんよ」
紫呉は鞘に収まった黒器を腰に差す。
「……ならばそのままで、そこを一歩も動くんじゃない」
紫呉から視線を逸らさず、悠一は一歩一歩じりじりと後退する。
それに合わせて紗雪も歩を運んだ。
数歩下がった所で、悠一はぴたりと動きを止めた。どん、と背が悠一の体にぶつかる。
「手を放せ」
悠一の喉がごくりと上下した。
その喉に、刃が突きつけられている。
「聞こえなかった? 放しなさい、と言ったの」
聞こえてきたのは、あまりにも耳に馴染んだ声。
だがいつものような愛らしさは何処にも無い。全く温度の感じない、冷たい声音だった。
「おやおやー? 急展開にびっくりで動けない? とりあえずは手を放そうか」
次男サマ、と揶揄の声。
声の主が悠一の腕を掴む。軽く捻ると、悠一は声をあげて小刀を取り落とした。
「動くなよ生き残りの皆さん。次男サマがどうなっちゃっても良いってんなら別だけど?」
「は、放せ!」
悠一の両腕が封じられる。
自由になった紗雪の手を、紫呉が掴んで引っ張る。
刃物から解放された紗雪は、緊張が緩み、されるがままに彼の背後によろめいた。膝をつく。
「紫呉に手を上げたのは誰?」
冷ややかな少女の声音に、男たちはうろたえる。
須桜はゆっくりと、一人ひとりを見回した。
彼女の視線に射られるように、ある男がびくりと体を揺らす。
「お前か」
須桜は己の左手首に手を伸ばした。紫水晶の数珠を外し、地面を蹴る。
「起きて『紅雫』」
須桜の呼び声に応え、黒器が姿を変じる。紅色の棍だ。
男の悲鳴が聞こえた。腹を突かれ、男はその場に倒れこむ。
「……遅いですよ」
大きくため息をつき、紫呉は恨みがましく呟いた。
「悪ぃ。ここに来る途中の奴ら片付けてた」
「……くそっ! 何なんだいったい! 何者だ!」
影虎に両腕を背で拘束された悠一が声を荒げる。
紗雪は、ぼんやりと紫呉の背を見上げた。
左手の指先から、ぽたりぽたりと血が滴っている。
切れた袖からは、傷口が覗く。
そして息を呑んだ。
彼の二の腕に咲く桔梗の花は。
「そう言えば自己紹介がまだでしたね」
黒の袷。
白の袴。
夜色の髪。
極彩の無彩を纏い、彼は凛然と背を伸ばす。
「第十二代如月桔梗雅由が次男、如月紫呉と申します」
怒号と共に男が跳びかかる。
紫呉は鯉口を切った。
ゆっくりと男の体が傾ぐ。
男の額には太い針が刺さっていた。
「動くなって言ったろ?」
針を放った影虎がうすらと笑って言う。
紫呉は鍔から指を離した。キン、と音を立て刃は収まる。
どさ、と男が倒れる音がした。
「……瑠璃の昼行灯と呼ぶ者も」
途切れた雲間から、月が姿を現す。
満月が燦然と彼の姿を照らしていた。