瑠璃の昼行灯 零 10
もう一つの黒器。
それは、武具としての黒器の事だ。
黒官は器具や武具の管理を司る官。作り出すものは、蝶灯や伝鳥だけでは無い。武具も作り出す。黒官の作り出した武具もまた、黒器と呼ぶ事は知っていた。それは普段装飾品の姿をしているが、主が望めば本来の姿である武具に形を変える、そういうものだと。
件の武具としての黒器を有するのは、赤官や治安維持部隊などだ。一般には出回っていない。壱班は上級官のみ支給される。
「……知ってるわ。見た事も、有るもの」
あれは、昨年の晩夏の事だったか。
そうだ、ひぐらしが鳴いていた。
乾弐班の屯所、縁側で紫呉が諸肌を脱いで刀の手入れをしていた。
彼が脱いでいたのは暑さの為もあっただろうが、傷を乾かす為でもあったのだろう。
鎖骨の辺りに、まだ乾ききらない軟膏が塗ってあった。左の二の腕にも包帯が巻かれていた。
『すみません、お見苦しいところを』
紫呉が目元に苦笑を滲ませる。全くだ、と笑いながらも、紗雪は思わず目を背けていた。
程よく鍛えられた体には、傷痕がたくさんあった。
中でも目立つのは腹の傷だ。まだ幼く溝の浅い腹の、左の胸元から右の脇腹にかけて、斜めに走る刀傷。
左の腰骨の少し上にも深い痕があった。引き攣った肌。傷は両方とも塞がりきっている。 しかし、その二つの傷は新しい傷のどれよりも痛々しく見えた。
白刃が西日に煌く。
紫呉は刀を緋色の鞘に納めた。
そして納めると同時、打刀は水晶の数珠に姿を変えた。
紫呉は、軟膏の塗られた傷口を軽く叩いている。乾いた事を確認し、袖に腕を通した。
左の手首には、いつもの様に水晶の数珠が有る。
数珠が西日に煌く。
まるで、西日の緋を吸ったかのようだ。
『それで……』
喉が引き攣った。発した声は、思いの外に低く、掠れていた。
『……人を斬った事が有るの?』
紫呉が瞬く。
風に揺れた前髪の下、紫呉の眉上に古い傷痕が見えた。
鴉が鳴く。
紅を溶かし込んだような空が広がっていた。
紫呉は、薄く微笑うだけで答えなかった。
ひぐらしが鳴いていた。
ぽん、と肩を叩かれ、紗雪は顔を上げた。悠一が微笑んでいた。
「ごめん。……ぼくの所為かな?」
「ううん、違うの。ごめんね。……ちょっと、考え込んじゃった」
先日、須桜と風呂に入った時にも思った。彼女の体にも、紫呉ほど派手なものではないが、やはり傷痕は有った。
左の手首にも、紫水晶の数珠が有った。その数珠が、どんな形状に姿を変えるのかは見た事が無い。聞いた事も無い。
「……黒器を、見た事は有るのよ。っていうか、いつも見てる。友達に弐班の子がいるから。でも、実際に武器として使っている所は見た事が無いの」
紗雪は膝を抱え込んで、顎を膝に埋めた。眼前に広がる緑は、午後の日差しを受けて輝いている。
「……そっか」
悠一はふっと息を漏らし、後ろについた手に体重をかけた。
「……ぼくはね、どうにも不思議に思う事があるよ」
何、と視線で促がすと、悠一は頷いて続けた。
「如月が、武具を作っている事」
悠一の白い面には何の表情も浮かんでいなかった。
いつも柔和な笑みを浮かべている悠一だ。こんな硬い顔をしているところは初めて見た。
「黒官が武具を作っている事を不思議に思わないかい? 武具開発の金は民の税金だ。その金で、人を殺す道具の開発をしているんだ。おかしいだろう」
滑らかな頬に朱がさしている。
「本当に必要なのかな? もっと他のところに使うべきなんじゃないかな?」
それだけじゃない、と悠一は早口に続けた。
「今回の件だって、ぼくは気にいらない。里炎の要求に桔梗は応じなかった。官吏数名の命と、桔梗一人の命では、……後者の方が重いんだ。そんなの変じゃないか」
言って、悠一は汚い物を掃うように、右手で左の肩から手首までを撫で下ろした。まるで彼の中に流れている血を厭うように。
「もしも、……もしもだよ? 百人の命が、人質を一人差し出す事で救われるなら、迷いながらも人質を差し出すだろう? ……けれど、その人質が施政者である事は、けして無いんだ。何故なら等価ではないから。天秤にかければ、百よりもその一のほうが重いから。……そんなの、おかしいじゃないか」
悠一は前髪を掴んで、俯いた。強く噛みしめた唇が、色を失っている。
返す言葉を探す。
だが見つからず、紗雪もまた唇を噛んで、黙って俯いた。
「……何も、できないくせに」
低く押し殺した声で悠一は吐き捨てた。僅かに声が揺れていた。
鳩が鳴いている。そののどかな鳴き声に、何だか苛立ちを感じた。
何を言えば良いのだろう。何を言えば彼は、いつもの様に笑ってくれるだろう。
思い浮かぶいくつかの言葉はどれも薄く、彼には響かない気がした。
だから、黙っていた。黙って、ただ、いつもより早い鼓動を数えていた。
「……ごめん」
悠一が顔を上げる。いつも通りの、柔和な笑みを浮かべていた。無理に作り出した笑みだった。
「え、あ……、いや、うん。気にしないで」
慌てて手を振る。
角から黒髪の少女が顔を覗かせていた。深い眉間の皺、への字に曲げられた唇。明らかに良く思っていない顔だ。
気にしないで、とは言ったものの、今もまだ驚きに動悸がする。
自分が黒官を目指している事を、つまりは否定されたのだから。
告げてはいないものの、『姫計画』の事までも否定されたように感じた。そんな事で、お前は黒官を目指しているのか、と。
悠一さん、と少女が呼んだ。
紗雪に一声かけて、悠一は立ち上がる。
(……びっくりした…………)
一人縁側に残された紗雪は、大きく息を吐いた。強張っていた肩から力が抜けていく。
(悠一でも怒ったりするのね……)
常に、にこにこと笑みを浮かべている印象を抱いていた為か、当たり前の事に驚きを隠せない。
人の怒りに触れるのは苦手だ。
自分にとってどうでも良い人間なら、どうだって良い。怒ろうがいくら悪く言われようが、流す事ができる。
しかし、好いていてほしい、と願う人間の怒りは怖い。例え、直接自分自身に向けられていないとしても。
ばさりと鳩が飛び立つ。
森に吸い込まれていく鳩をぼんやりと眺め、紗雪は肩を落とした。
(……嫌われちゃったのかしら)
言わなければ良かった。
黒官ではなく、青官を目指している、とでも言っておけば良かった。青官長の父に憧れて、とか適当な理由をつけて。
なんて、咄嗟にそんな嘘をつける程器用ではない。
黒官になりたい、と思う気持ちは本当なのだから。
(でも)
『でも君は、もう一つの黒器の事も知っているんだろう?』
悠一の硬い声が耳に蘇る。
もちろん知っている。
知っては、いる。
だが知っているだけだ。
だからだろうか。黒官になりたい、と変わらずに思うのは。
悠一は知っているのだろうか。知識として、ではなく、知っているのだろうか。
黒器は、武具であるという事を。
だから血を恐れるのか。だからあれほどまでに激昂したのか。
『何も、できないくせに』
俯いた悠一の白い顔を思い出す。
歯を食いしばる音が、こちらまで聞こえてきた。
「ごめん、紗雪ちゃん。放置しちゃって」
悠一が小走りに駆けてくる。
先程のような、険しい表情ではない。安心した。
「これから何か、少し込み入った話があるみたいだ。申し訳ないけど……」
眉を下げる悠一に、紗雪は首を振った。
「ううん、気にしないで」
立ち上がり、悠一と共に玄関に向かう。
「……何だか、今日はごめんね。急に連れてきて、急に帰れ、だなんて……」
「ほんと、気にしないで。悠一とたくさん話せて、嬉しかったわ」
「…………うん」
悠一は曖昧な表情で笑った。気まずさを押し殺したような表情だ。紗雪は気付いていないフリをして微笑んだ。
玄関口に座り、長靴を履く。
「……また、会おうね。ぼくはだいたい、悠々館にいるとしたら午後にいるから。今日と同じぐらいかな。それに、もしいなかったら、こっちに直接来てくれても良い。いつ頃でも構わないよ。皆には話をしておくし。誰も居なかったとしても、上がって待っててくれたら良いよ」
「え、でも……悪くない?」
「全く。ぼくが会いたいって思ってるんだから。むしろ来てもらうぼくの方こそ、君に悪いよ」
「いや、それは……全くもって、……です」
良かった、いつもの悠一だ。照れながらも、安堵を感じた。
悠一の手を借りて立ち上がる。
「本当はぼくが送っていきたいんだけどね。途中まで彼女に送らせるよ。夕方になったら、この辺りは人気が少なくなってくるし」
悠一の背後に控えていた茶髪の少女が、ぺこりとお辞儀をする。無表情すぎて何だか怖い。気まずく思いつつ、紗雪もまた会釈を返した。
「それじゃあ、ね。今日はありがとう」
「こちらこそ。またね」
「あ」
「え?」
「あー……その……。……君自身を、嫌っているわけじゃあないから。……今日はごめんね」
「……うん。……ありがとう」
それじゃあ、と手を振る悠一に手を振り返し、庵を後にする。
薄暗く陰り始めた日を受けて、少女と二人並んで歩く。会話は無い。
(……気まずい……)
何か話しかけた方が良いのか。それとも、このまま無言を貫いた方が良いのか。
だがもし話しかけたとしても、会話が続かない予感でいっぱいだ。ならば、このまま最後まで無言でいた方が、気が楽な気がする。
うん、と出した答えに心中で頷いた時だった。
「悠一さんから伝言」
「はいっ?」
まさか話しかけられるとは思っていなかった。思わず声が裏返った。
「弐班の友達にもよろしく」
「あ、はい……」
顔にもだが、声にも見事に表情が無い。
それから、また無言だ。ただ足音ばかりが二人の間に響く。
ちらりと、横目で少女を窺う。真一文字に唇は引き結ばれている。
(……彼女が、草薙なのかしら……)
『二影』の一つ、草薙の者は、幼い頃から厳しい戦闘訓練を積むと言う。
彼らは単なる戦闘だけではなく、暗殺・拷問などもお手の物だ。そして彼らは任務の為一概に、感情を押し殺し、決して表には出さない(と史書に有った)。
史書の事だ、誇張して書かれているのだろう。真実は分からない。だが彼女を見ている限り、信じても良いような気がする。
表通りの喧騒が近づいてきた。
ぴたりと少女は足を止める。
「それじゃあ」
「あ、はい。ありがとうございました」
紗雪が礼を言い終わらぬうちに、少女は背を向け去って行く。
無視するな、と思わないでもないが、ここまで送ってくれたのだ。こっそり舌を出すぐらいに留めておいた。
表通りを歩く。この辺りは商業の中心である為、商人の姿が多い。
「お嬢さん、何だかお疲れの様子だね! 乗っていかないかい?」
「えっと……いえ、大丈夫です」
俥の客引きを笑顔で丁重に断り、歩を進める。
(そんなに疲れた顔をしてたのかしら)
頬をぺちりと軽く叩く。
確かに、今日は何だか疲れる事が多かった気もする。
まず変な格好で眠ってしまっていたし、悠々館では悠一が見当たらずにやきもきした。
それから、庵の付近があまりにも人気が無さすぎて焦ったり、悠一の言葉に、心を乱されたり。
(……あんな風に、悠一だって荒い顔する事有るのね……)
でも、紗雪自身の事は嫌っていない、と言ってくれた。
(良かった)
ほっと胸を撫で下ろす。
紗雪自身が嫌いだ、と言うなら仕方が無いが、それ以外の所で嫌われたら、紗雪にはどうしようもない。
また、会いに行こう。いつだってあの小屋に行っても良い、と言ってくれた事だし。
会いに行って、もっと話をしよう。
彼の事をもっと深く知りたいと思う。
だって、悠一は言っていた。
紗雪なら痛みを分かってくれるんじゃないか、と。
その言葉に応えたい。彼の痛みを知りたい。
もっともっと、悠一の事を知りたい。
しかし、彼の側に在る、という事はもれなく『影』の少女二人もついてくるわけだ。
今はどうにも、嫌われているように思う。茶髪の少女の方は無表情すぎて心が見えないが、黒髪の少女はあからさまに敵意をむき出しにしていた。
(どうしようかしらね……)
城を攻むるならばまず堀を埋めよ、と瑠璃の故事にも有る事だし、まず少女二人を陥落する必要がある。まあ、『城』自体は紗雪の事を、受け入れてくれているようではあるのだが。
(うーん……何かお菓子とか作って持っていく、とか……?)
だが好みの問題もある。もし苦手なものを持っていったりしたら、更に印象は悪くなってしまう。
悠一には会いたい。だがもし庵に会いに行って、彼がいなかったらどうしよう。それで、少女二人だけがいたりしたらどうしよう。気まずいにも程がある。
しかし会いたいし。だがしかし……。
うんうんと唸りながら、紗雪は家路につくのだった。