暁光 4
また来る、と明るい調子の声音で影虎は言って、紫呉に背を向けた。ためらいを見せぬ様子で歩みだすその背に、須桜は慌てて視線で縋る。格子を掴んだままであった須桜は、ちらと寄こされる視線を感じて牢に視線を転じた。足を崩さぬままにこちらを見やる紫呉の視線は硬く、彼の感情は窺えなかった。いや、はやく行け、と言っているように見えた。拒絶にも似たその色に、須桜の小さな胸は痛む。
「――それじゃあ、また」
発した声は震えていて、我ながら情けないと思った。返る声は無かった。須桜は名残惜しく立ち上がり、先を行く影虎の背を追った。
格子を掴み騒ぐ女の金切り声が煩わしい。苛立ちそのままに睨みつければ、けらけらと嗤われた。何がおかしいとわめく前に、須桜は腕を掴まれ、はっと息を飲む。
「かまうな」
呆れた声で影虎にたしなめられ、須桜は小さく詫びた。
見張りの隊員に会釈をして、重い扉を開く。途端、ざあと枝葉を揺らし駆け抜ける風が、肌にしみついた澱んだ空気をぬぐってくれる。いつもならばうるさいばかりの蝉の声すら、清涼感で彩られていた。
鍵をかけた影虎は、絞り出すように長く息を吐いた。錆の付着した扉に指先を触れさせて、己のつま先にじっと視線を落としている。張り詰めた横顔は、声をかけるのを躊躇させる鋭さがあった。
気付かぬ素振りで横に立ち、須桜は思い返す。格子の向こうの毅然とした、紫呉の姿。飾られた姿だ。何かを隠したがっているかのうように見えた。怯えているようにも見えた。何かに、深く思い悩んでいる様子だった。もしかすると、深く傷ついているのかもしれない。
その傷に、寄り添えたらと思う。しかしきっと、彼はそれを望んでいない。望まない。そんな弱い自分を、彼はとても、嫌うから。
ついぞ触れられなかった指先を、須桜はぎゅっと握りこむ。ぱき、と小さく骨が鳴った。
影虎は変わらず視線を落としたまま、早口に言った。
「あっちの目的が何かは分からない。けど、来るなら今だ。紫呉がいない以上、戦力は大幅に削られる。その上、目標人物に対する精神的な負担だって相当だ。自分が動けない今、誰かに何かがあったら? 俺ならそうする。仕掛けるなら今だ」
整頓されぬままに低く呟くその声は、須桜に聞かせているというよりも、ひとり言に近い。影虎は鍵の束を器用に手の中で玩び、ぶつぶつと声を零している。つま先に落とされていた視線はやがて、前を定めた。扉に触れさせていた指先が、ゆっくりと拳を形作る。
「鍵、返してくる」
須桜の返事を待たぬまま、影虎は足早に立ち去った。
背を見送り、一人になった途端に、どっと重圧が圧し掛かってくるかのようだった。今まで抑えていた己の心が噴き出して、肩に、脚に、重く絡みついてくる。
須桜は頼りない足取りで、のろのろと歩みを進めた。蝉時雨を降らす木陰へと歩み、その根元に膝を抱えてしゃがみこむ。
これは喜びと、怒りとだろうか。己自身判然としない。
紫呉に会えて嬉しい。それは確かだ。彼の姿がすぐ側に在る、声がすぐ側に在る。それは、どうしようもない喜びを己に与えてくれる。
ふいに思う。彼に与えられた傷の数々。
治療を施したのは須桜自身だ。だがその時は、治療その事自体に懸命で、深く捉えていなかった。
あの傷の多さは何だ。誰が彼をあそこまで傷つけた。
ふつふつと怒りが込み上げる。須桜は膝を、ぎゅっと強く抱えなおした。
悔しかった。
帰りを待つしかできなかった自分が悔しかった。
何もかも分かった素振りで、もの分かりの良い素振りで、送り出したのは自分だ。分かっている。
それでも、悔しくて仕方がなかった。
己が側にいたとしても何も変わりはしなかっただろう。力を添えることなど、できなかっただろう。
紫呉は極限まで須桜を頼らない。須桜を戦わせようとしたがらない。須桜の力を必要とはしていない。分かっている。伸ばした指先は空を切るばかりだ。分かりきったことだ。
頼りにしてくれなかったのが悔しいわけじゃない。頼らせられない己が悔しいのだ。
先程、樹から落ちた蝉はもう動かない。蟻が群がっていた。黒々とした点が、視界の隅で蠢いている。
須桜はゆっくりと息を吐き出した。膝に埋めていた顔をあげる。誰かが育てたのか、それとも勝手に根付いたものなのかは知れないが、この狭い内庭の片隅には朝顔が咲いていた。互いの蔓を絡めあい、縺れあい、支えあうようにして咲いている。
緑陰ごしの青空には、峰のように高く立つ白雲がゆるゆると流れていた。額から流れた汗が目に流れ込み、じわりと痛む。目を瞑ってやり過ごし、再び目を開ければ、夏の青に目が眩んだ。刺すような陽ざしが肌に痛い。
須桜は立ち上がった。両の手でパンと高く頬を叩き、背筋を伸ばす。
悔やんでいる場合ではない。今、己が成すべき事は何だ。紫呉が意地っ張りな事など、今更だろう。誰かを、須桜を頼ろうとしない事も。
分かっている。それでもだ。だからこそだ。
背筋を伸ばし、毅然と在れ。こいつが相手なら寄りかかっても大丈夫なのだと、そう思わせれば良いだけの事。
弱さを見せたくないのは、己とて同じだ。
(――意地っ張りばかりね)
呆れた思いで、須桜は苦笑を滲ませた。
須桜は雪斗の保護された舎へと足を向けた。蝉の死骸に群がっていた蟻が、須桜の足取りに散らされていく。