紅・うつろふ
どうしてこんな事になってしまったのだろう。これから先には、自分達が望んだ未来が待っているはずだったのに。
「逃げろお嬢さん!必ず追いつくから!」
武仁の声が背中を押す。家から盗んできた金は全部武仁に預けた。そのため、家を抜け出してきた時よりもずっと身が軽い。それが救いだ。
背後に聞こえる無頼漢の荒々しい怒声。武仁の呻き声が聞こえる。振り返れば、早く行けと武仁が声を荒げた。
菊乃は駆けた。
とにかく足を交互に動かした。
華芸町に無頼漢と武仁の声音、菊乃の荒い息が響く。愛染街の華やいだ嬌声がかすかに聞こえた。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
どうして、どうして。
そればかりが菊乃の頭を占める。知らず頬に涙がつたった。
菊乃は息を飲んだ。三叉路の影から突然男が飛び出してきたのだ。
香具師ではない。真夜中に見世を開く香具師などいない。
男はにやにやと笑って、菊乃を見おろしている。男を睨み、身構える。それと同時、腹に衝撃が走った。男の拳が腹にめりこんでいた。
(武仁……)
意識が薄れる。
恋しい男の名を呼びながら、菊乃は意識を手放した。
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「あ、目ぇ覚めた? こんにちわー」
見知らぬ天井の木目だ。ふわりとした感触に、自分が布団に寝かされている事を知った。
菊乃は慌てて身を起こした。が、ずきりと腹が痛んで、前かがみに体を丸めた。
「ありゃりゃ、平気? お腹痛い? 青あざできちゃってるかもねぇ」
「……あなた、誰?」
聞き覚えの無い声だった。少年にしては高く、少女にしては低い。顔をあげる。やはり、知らぬ顔だ。
眉を顰めた菊乃に、枕元に胡座した少女はひらりと手を振って言った。
「ああ、ごめんごめん。自己紹介まだだったね。ぼくは浅葱。ここの『色』だよ」
よろしく、と手を差し出される。墨色の爪紅で爪が彩られていた。
歳は十三・四か。短く切られた、癖のあるぱさついた黒髪。大きく丸い目は緑。とろりとなめらかな翡翠の色だ。大きな花柄の派手な袷。帯は男物だ。抜き衣文に着流した袷から覗くうなじが艶かしい。
差し出された手を握ろうとして、菊乃は、はっと自身を見おろした。菊乃は紅色の襦袢一枚しか見につけていなかった。
「あ、うん。ぼくが着替えさせたよ。汚れちゃってたし」
胸元を慌てて合わせる。
「……あなた、女の子……よね?」
警戒して問う菊乃に、浅葱は猫のように目を細めた。
浅葱は格別、美形というわけでもない。だが少年なのか、少女なのか分からない。先程は少女かと思ったが、あらためて見ると少年のようにも思える。中性的というよりもむしろ、無性的だった。
浅葱は菊乃の赤茶の長い髪を一束掴み、口づけた。上目に覗き込まれる。
「どっちか自分で確かめてみなよ」
手を取られ、股間に誘われる。赤面して菊乃は、ばっと手を引いた。からからと浅葱は笑う。
「……って、お客様にはやるんだけどねー。菊乃チャンには刺激が強かった?」
「な、何よ馬鹿にして……! って、何でわたしの名前……」
「ああ、うん。調べたからね」
「何で……。それに『色』って……?」
あらためて菊乃は首をめぐらした。四畳半ほどの小さな部屋だ。菊乃が寝かされている布団と、桐の箪笥、あとは文机しかない。
「……ここ、どこなの。何でわたし……」
「はいはい、落ち着こうね? ……うーん、何から説明しようかな」
湯飲みを手渡される。じわりと白湯の温もりが沁みた。浅葱は胡座した膝に肘をつき、紅に彩られた唇をにやりと持ち上げた。
「きみはね、ここに売られたんだ」
売られた? と鸚鵡返しに問う菊乃に、浅葱は頷いた。
「ここは北乾第二区。……の、
こくりと頷く。透蜜園とは娼館の名だ。北乾第二区と言えば、ここ、瑠璃の里を代表する花街だ。堀に囲まれたこの土地を、通称愛染街と言う。香具師の聖地である北乾第一区、通称華芸町と隣接した地だ。
「何で……? 何でわたし、娼館になんか」
「はいはーい、落ち着こう。吸ってー? ……吐いてー。はい、落ち着いたね?」
有無を言わせず頷かされる。浅葱はにこりと笑って、言葉を続けた。
「きみは早瀬川菊乃。十五歳。材木問屋の長女だ。あってるよね?」
「何で知って……!」
「ぼくはこれでも情報の
「……そんな事まで知ってるのね」
低い声で皮肉れば、浅葱は気にした様子も無く「本職だからね」と小首を傾げた。
「まあこれで、きみの身元ははっきりした。一応親御さんの許可もとれた。きみは今日から透蜜園の『華』として働いてもらうよ」
「ま、待ってよ! わたしはこんなところで働く気なんて無い! 調べたんなら知ってるでしょ? わたしには恋人がいるの! 嫌よ!」
「嫌も何も」
低い声に、菊乃は体を竦めた。浅葱はにこやかな笑顔を作って言った。
「もう、女衒にお金渡しちゃったしね。きみの意思なんか関係ない。きみはもう、ここから逃げられないんだよ」
障子越しの西日を背負い、浅葱は湯飲みに口を寄せた。
「そんな……。嘘。……だって、わたしには武仁がいるのに……」
「武仁ってのが恋人の名前? 何ならぼくが、彼が今どうしてるか調べてあげても良いよ。それくらいの同情心なら持ち合わせてる」
「同情ですって……?」
「うん? 言い方が気に入らなかった? じゃあ謝るよ。ごめんね?」
かっと、頭に血が上る。頬が熱くなる。思わず菊乃は手を振り上げていた。
「駄目だなあ。これくらいの挑発で怒ってちゃあ、お客様の相手なんてできないよ?」
「は、離してよ!」
手首を掴む手を菊乃は振りはらった。
「客なんてとらない! わたしは、ここの商品になんてなる気無いんだから!」
「だ・か・ら」
浅葱は立ち上がり、腕を組んだ。
「あんたの意思なんて関係ないって言ってるだろ? 何回言ったら分かるんだよ」
ふん、と鼻を鳴らして浅葱は菊乃に背を向けた。箪笥を開け、ごそごそと探る。
「……わたしには武仁がいるんだから」
悔しさを噛み締め、菊乃は呻いた。
「逃げてやる……。絶対、逃げてやるわよ」
「できるもんならやってみればー?」
ばさりと顔に何かが飛んできた。頭を振ってそれをのける。膝上に落ちたのは山吹色の袷だ。
「目の色と一緒だから似合うんじゃない? ほら、着替えて着替えて」
次いで藍色の帯と、ひらひらした飾りのついた足袋とが飛んできた。
「じゃあ、ぼくが戻ってくるまでに着替えといてよ。あと、店で使う名前考えといて。本名で客取ると辛いよ?」
「ちょっと、どこ行くのよ?」
「菊乃チャンはぁ、手伝ってもらわなきゃ服も着れないほど箱入り娘なのかにゃー?」
枕を掴んで振り上げる。くすくすと笑いながら、浅葱は後ろ手に襖を閉めた。
「馬鹿にしないで! それから、客なんて取らないって言ってるじゃない! そっちこそ何回言ったら分かるのよ!」
菊乃は枕を投げつけた。にぶい音をたてて、枕は襖に跳ね返る。浅葱が笑う気配がした。
「あんたは、本気でその武仁って奴が好きなんだ? ……羨ましいよ」
襖ごしにそう残して、浅葱は小走りに去っていった。
(……そうよ。本気で好きよ)
じわりと涙が浮かぶ。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。あの時、華芸町を通らなければ、無頼漢たちに絡まれていなかったら、女衒にかどわかされていなかったら、今頃は武仁と二人、新しい暮らしを向える事ができていたのに。
(……武仁)
出会ったのは半年ほど前だ。よろしくお願いしますお嬢さん、と少し照れながら笑った顔が素敵だと思った。笑えば目尻に皺ができ、目の下の涙袋がぷくりと膨らむ。歯並びは少し悪いが、それすら素敵だと思える、柔らかな雰囲気をしていた。
『知ってますか、お嬢さん。同じ移ろふ、って言葉でもね、それを菊に使うか、紅葉に使うかで意味が変わるんですよ。菊の場合は枯れていく時に、紅葉の場合は色づいていく時に使うんです。言葉って面白いですね』
そんな、とりとめの無い会話が楽しかった。こちらのご機嫌を窺う男ばかりを相手にしてきた菊乃だ。菊乃の容姿を褒め称えるでもない、家柄に媚びるでもない武仁に惹かれていったのは自明の事だった。
好きだと言ってくれた時、体が震えた。涙が溢れた。人は嬉しくても泣けるのだと、初めて知った。
「浅葱戻りましたー……って、まだ着替えてないの? 早く着替えなよ」
「……うるさいわね」
ぐすりと洟をすする菊乃に、浅葱はわざとらしく大きなため息をついた。
「泣いてどうにかなるんだったら、みんなわんわん泣いてるよ」
うるさい、ともう一度繰り返し、菊乃は袷に腕を通した。
「どうにかしたいから泣いてるんじゃないわよ。……勝手に出てくるんだもの」
浅葱が呆れた顔でこちらを見ている。もう一度大きく嘆息して、浅葱は言った。
「店、案内するからついてきて。……やる気なくても、とにかく案内だけはさせてもらうよ。それがぼくの仕事だから」
「仕事?」
「そ。新入りの教育係。まあ、偶然今ぼくが暇だったからなんだけど」
帯を締め、すたすたと早足に前を歩く浅葱の後を、わざとゆっくりと歩いた。煩わしげに何度も浅葱は振り返った。だが俯いて、気付かない振りをしていた。
「ここは透蜜園の商品の居住区。仕事が無い時はここで過ごす」
長い廊下の両隣には、ずらりと等間隔に襖が並んでいた。中はおそらく、先程の浅葱の部屋と同じだろう。
三階まで階段を上る。ひらけた空間に出た。欄干に手をかけ、浅葱はこちらを向いて目を細めた。
「この渡り廊下が店とつながってる。ここから飛び下りれば逃げれるけど、三階から飛び降りたらかなり痛いと思うよ? ついでに言えば見張りもいるし。すごいツボを得た折檻されちゃうし、やめといたほうが賢明だね」
菊乃は無言で睨み返した。浅葱は笑うだけだ。腹立たしくて、すぐに目を逸らした。
「で、こっちが店。白月が昇って、日が沈みきるまでが夕見世。『華』の売り物は芸のみ。月に色がついて、日が昇り始めるまでが宵見世。売り物は芸と春。おわかり?」
店も居住区と一緒だ。長い廊下の両わきに、ずらりと襖が並んでいる。夕見世の準備のためか、慌しく人々が行きかっていた。
「ねえ、……その、何なの。『華』とか『色』とか」
「『華』は透蜜園の娼妓。あんたが『華』にって事になったのは顔が整ってるから。あと、いろいろ芸できるだろ? 琴だの三味線だの、華だのお茶だの、囲碁だの将棋だの」
それも調べたのだろうか。浅葱の言うとおり、菊乃は諸芸に通じている。早瀬川の娘として、幼い頃から無理やり叩き込まれたのだ。
「で、『色』の売り物は情報。まあ、情報屋ってやつだね。情報屋は、愛染街の三指の娼館、透蜜園・玉菊屋・菱屋のどこかに所属してる。それぞれの店にそれぞれ縄張りがあって、その縄張り内の情報を客に売る。安いおクスリの売人がどこにいるかとか、まあ、いろいろね。情報を得る手段として体を使うこともあるけど、基本的に商品は情報のみ」
一階まで下り、店の奥へ進む。厚い扉の前で浅葱は足を止めた。
「ここは
扉に手をやり、浅葱は眉を顰めて微笑した。俯き、一度目を瞑ったあと、顔をあげ、にこやかに笑った。
「店の中で案内するのはこれくらいかな? ま、追々覚えれば良いさ。じゃあ、外行こうか」
「外?」
思わず弾んだ声で聞く菊乃だ。
「逃がすわけじゃあないよ」
がくりと肩を落とす。当たり前だろと、浅葱が鼻を鳴らした。
店の入り口、一際目立つ男がいた。がっしりした体に、藍色の袷を見につけている。歳は三十二・三だろう。短く刈った強い黒髪に、奥二重の鋭い目は濃紺。その目が菊乃を見おろした。思わず菊乃は浅葱の後ろに隠れた。
「紺さん、ちょっと橋まで行ってくるね」
「ああ。さっき店札取りに来たのはそれでか」
姿そのものの、低く威圧感のある声だ。浅葱は菊乃を振り返り、感謝しなよ、と紺に顎をしゃくった。
「あんたを雇うって決めたのは紺さんなんだから。もし紺さんが断ってたら、今頃はもっと安い娼館に売られてたんだからね」
上目に紺を見上げれば、紺はふんと鼻を鳴らした。菊乃はいっと歯を剥いた。
「あーもう、ほら、行くよ。紺さんに喧嘩売らないの」
ぐいと手首を引かれた。
手首を掴まれたまま、西日の中、愛染街を歩く。どこの店も忙しげに準備をしていた。
「……さっきの人、何」
「紺さん? 紺さんは色頭だよ。で、次の番頭候補。で、ぼくの恩人。十年前店の前に捨てられてたぼくを拾ってくれた」
「へえ……。ところで、ねえ、どこ行くの?」
「橋小屋に顔見せにね。……ああ、ほら、見えてきた」
浅葱が指差した先には橋があった。その側には小屋がある。
「あの橋は十五橋。白月が昇るころ下ろされる。あっちの奥のほうから、一橋、二橋、三橋。で、ずーっとこっちきて、十五橋。月が満ちるのと一緒だよ。欠ける時は逆に下ろしていく。この橋が、愛染街と外を繋ぐ唯一のところだ」
橋の向こう側の華芸町には、居合い抜きに人形師。それらを囲ってやんやと人々が喝采を送っている。
「こんにちわー。透蜜園の者でーす」
浅葱は橋の側の小屋の戸を叩いた。おう、と声がして戸が開けられる。小屋の中には数人の屈強な男がいた。皆一様に着物を尻からげている。浅葱は店札を振って、菊乃を目で示した。
「新入りかい?」
「そ。この子逃げ出す気まんまんだからしっかり顔覚えといてよ」
まかせとけ、と男達は頷きあう。
「この人たちは橋守さん。愛染街の商品が逃げ出さないように、橋を見張ってる」
視線が絡む。じぃ、と逸らされる事なく、男の視線が菊乃にそそがれる。
ぎぎ、と音がした。橋が下ろされたのだ。茜と薄墨が交じった空に白月が浮かんでいる。
街灯篭に灯が燈される。丹塗りの橋を渡り、人々が愛染街にやってくる。
秋の涼やかな風が髪をなぶった。金木犀の香りにまじって、脂粉がにおった。
今もなお、橋守の視線は菊乃にそそがれている。菊乃の姿を焼き付けるように。
茜色は刻々と、夜に犯され色を薄める。橋守の視線は逸れない。
店先には、艶やかに着飾った少年少女たち。客の腕をとり、華やいだ声で店に誘う。あっと言う間に、今まで凪いでいた愛染街が人々の欲に波立った。
店に人々が吸い込まれてゆく。まるで灯に群がる虫のようだ。吸い込まれても吸い込まれても次々に人は増える。橋を渡る人は絶えない。
顎に手をあて、目を大きく見開いた橋守が笑みを浮かべて菊乃を見ている。その後ろで似絵を描く男がいる。紙と菊乃と、男の視線が行き来する。男の癖なのか、筆を墨に浸す時に唇を舌で湿した。
(…………嫌)
四方に湧き出づ笛の音三味の音。チョンと拍子木、香具師は店に仕舞いを告げる。
店先の、籠網の吊灯篭。
出口を求めて
籠の中を、
ひらひらと。
じぃ、と。
視線が。
ひらひらと、
蝶灯が。
籠の中を。
じぃ、
と、
視線が。
絡まる。
「………いやぁっ!」
浅葱の手を振り払い、菊乃は駆け出した。
視線が、脂粉が、体に纏わりつく。
(武仁……。助けて、武仁……!)
人々は笑い声をあげて、橋を渡ってくる。人の流れに逆らい、菊乃は走った。
「どこに行くの?」
橋の上、どんと背を突かれた。菊乃は倒れこんだ。擦りむいた掌が痛む。足の群れが隣を過ぎ去っていく。
倒れた菊乃の眼前にしゃがみ、浅葱は艶やかに笑ってみせた。
「逃げられないよ」
にげられない。
「あんたの生きる世界はここだ」
にげられない。
腹を蹴られ、仰向けに転がされる。菊乃は咳き込んだ。ぎり、と浅葱を睨めつける。
「女の子の……、お腹……」
「ああ、赤ちゃんできないって言うね? ……便利じゃん?」
くすくすと、笑う。笑いながら、もう一度浅葱は菊乃の腹を蹴った。
「ほら、早く立って。店戻んなきゃ。立たないならこのまま転がしてくよ?」
菊乃は腹を抱えて、体を起こした。きつく睨んでも、浅葱は笑うばかりだ。
「そういやこの服、ぼくのだっけ。あーあ、汚れちゃったじゃん」
笑って、菊乃の体をはたく。徐々にその力が強まる。間近に見た浅葱の目は、猫のように細められていた。手首を強い力で掴まれる。
「さ、戻ろうか」
たすけて、武仁。わたしが戻りたいのは、あなたのところなのに。たすけて。
ふと、滲んだ視界に見知った影を見つけ、菊乃は足を止めた。
「武仁……?」
少し長めの、痛んだ薄茶の髪。柔らかな雰囲気。武仁だ。見紛う事はない。武仁だ。
「武仁……!」
手を振り払う。駆け出した。
「……ほんと、あんたが羨ましいよ」
浅葱が溜息混じりに呟く声が聞こえた。しばらくして、荒い声で浅葱は叫んだ。
「……商品が逃げたぞ! 捕まえろ!」
待って、武仁。待って。たすけて。わたしをたすけて。ここから連れ出して。
人々をかきわけ、走る。後ろから足音が迫ってくる。
「……邪魔しないで!」
つかみかかる手を叩き落し、なお駆ける。ぶつかる。舌打ちをされる。気にしていられない。とにかく武仁の背を追った。
「……どいて! お願い! ……大事な人なの! 大切な人なの!」
何度もこころの中で名を呼んだ。武仁が、こちらを振り向く。彼は大きく目を瞠った。
「武仁……」
彼の取り巻く男が、おい、と武仁の肩を叩く。彼らには見覚えがあった。
菊乃たちを襲った無頼漢だ。菊乃を売った女衒の姿もある。
武仁の手には財布が握られていた。菊乃が預けた財布だ。
武仁、ともう一度名を呼んだ。
武仁は、笑った。
目尻に皺が寄る。
涙袋がぷくりと膨れる。
武仁の唇が動いた。
『す・み・ま・せ・ん・お・じょ・う・さ・ん』
菊乃に見せ付けるように財布を振ってから、武仁は菊乃に背を向けた。
血が、凍えた。その場に縫い付けられる。
「いたぞ! 捕まえろ!」
菊乃が膝を折ったのが先か、突き倒されたのが先か。白茶けた通りに菊乃は転がった。
(そういう事か)
好きだったのは、こちらばかりか。
(そういう事、か)
いつから、彼はその気でいたのだろう。最初からだろうか。菊乃を好きだと言ったのも、幸せにすると言ったのも、全部嘘か。
後ろ手に縛り上げられる。
菊乃は何度も瞬きを繰り返した。唇を噛み締めた。こぼれてしまわぬように。
ぽかりと白月が浮かんでいる。まるで空に開いた穴のようだと、菊乃は思った。
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薄れていた意識が衝撃に跳ねた。水だ。濡れた髪が頬に張り付いて気持ち悪い。
「紺さーん……、それぼくの着物ー……」
「るせぇ。黙りやがれ」
水をかけられ、浅葱は咳き込んだ。鼻に入ったのか、しきりにくしゃみをしている。
透蜜園の居住区、その裏庭だ。菊乃は浅葱と並んで木に縛り付けられていた。
色濃い夜が体に沁みる。肌寒さに体を震わせた。
りりぃ、りりぃ、と茂みから虫の声がする。石灯籠の灯が風に揺れた。風に乗って、店の華やかな笑い声が届いた。
「……ったく、なんでぼくまで……」
「ああん? 何か言ったかコラ」
「ごめんなさい言ってないです。逃がして店以外の人に借り作ったぼくが悪いです」
「よぉく分かってんじゃねえか」
紺は桶を捨て、爪先で浅葱の顎を持ち上げた。く、と喉元で笑う。
「男前があがったな? 俺に感謝しろよ?」
「……お礼したいからほどいてよ。煮るなり焼くなり掘るなり、好きにしていいからさ」
馬鹿野郎、と紺は笑って煙管の灰を浅葱の膝に落とした。引きつった悲鳴が虫の音に混じる。
ガシャン、と何かが割れる音がした。次いで悲鳴が聞こえる。少年が駆けよってきた。
「すみません紺さん、店でちょっと……」
「ぁあ? ……仕方ねえなあ」
紺は髪をかきながら店に足を向けた。
痛みを噛み殺す浅葱の呻きが聞こえる。
ちらりと、菊乃は浅葱の胸元に視線をやった。肌蹴た胸元は平らだ。くすりと笑って、浅葱は切れた口の端を持ち上げる。
「やぁん助平ー……。どこ見てんのよぅ」
口の中が切れている所為か、頬が腫れている所為か。たぶん両方だろう、しゃべり辛そうだ。くつくつと浅葱は肩を揺らした。ひとしきり笑った後、大きく息を吐き目を瞑った。
「……ぼくの母さんはさ、犯されたんだ。……ま、もともと股っ開きだったらしいから大して変わんないけど……。で、ぼくを生んだ。しばらくして捨てて、どっか行った。……ありきたりな話だけどね」
あっは、と徒っぽく笑って、浅葱はこちらを見た。
「……男って馬鹿だねえ。一瞬の快感の為に、ひと二人の人生めちゃめちゃにしてさぁ……」
浅葱の癖毛から水が滴り、腫れた頬をすべり落ちた。水に紅色が混じっている。血なのか、溶けた紅なのかは分からなかった。
「ぼくは、……それと同じ雄なのかと思うと、時折とても吐き気がするよ」
「……なぁに馬鹿な事言ってやがる。その体使ってさんざん稼いでるのは誰だ?」
「……ぼくでーす………」
玉砂利を踏む音がして、紫煙を吐きながら紺がこちらにやってくる。懐から取りだした小刀で、浅葱の縄を切った。
「客だ。稼いできな」
「……男? 女?」
「女」
「……男のが良いんだけどなぁ。孕む心配ないから」
「文句言うな。情報与えた倍、しっかり情報搾り出してきな。手段は問わねえ」
よろめいた浅葱の腕を取り、紺は男くさい笑みを見せた。ひらりとこちらに手を振る浅葱の背を見送り、菊乃の前にしゃがみ込む。
「どうした? さっきからやけに静かじゃねえか」
「………なまえをかんがえていたの」
「名前?」
「みせでつかうなまえ」
ほう、と紺が顎を撫ぜる。菊乃は紺の目を見ながら、足を伸ばした。爪先で紺の袷の裾を捲る。興味深げに紺は菊乃の足を見おろしている。筋張った内腿を爪先でなぞった。
「……ねえ、わたしにおしえて。……雄をとりこにするほうほう」
「……へぇ? 良家のお嬢さんが何でまた」
男って馬鹿だねぇ。浅葱の声を反芻する。虫が鳴いている。
「……とりこにして、おかね、いっぱいつかわせるの。はめつ、させるの」
以前は疎ましいとばかり思っていた家に感謝したい。芸を仕込んでくれたこと。何もできぬ女より、芸に通じた女のほうが男は惹かれるだろうから。
「……はっ、女ってなぁほんとによぉ……」
ぐ、と前髪を掴まれた。店からは徒声。揺れる木々からは虫の音。鼓膜をするりと侵し、入り交じり入り混じり、それは菊乃の目から秋波となって紺へと打ち寄せた。
「……良いぜ。教えてやる」
紺の低い声が腹の奥を揺する。髪を掴まれたまま、口づけられた。ぬるりとした舌が唇を這う。歯列をなぞる。舌先を吸われた。舌裏を舐め、上顎をなぞられる。顎を唾液がつたった。
菊乃は痛みに体を震わした。舌を噛まれた。指をつっこまれ、舌をなぞられる。
菊乃の血のついた指で、紺は菊乃の唇をなぞった。虫が鳴いている。
「……それで? お嬢さん。名前は決まったのか?」
「……きまった、わ」
「聞かせろよ」
「……紅葉」
ほう、と紺の目が細まる。虫が鳴いている。
「紅葉、よ」
己の血で紅をひかれ、菊乃は笑った。紺の唇もまた、菊乃の血で紅く濡れていた。
風に灯篭の灯が揺れる。虫が鳴いている。月が見おろしている。
紺の手の甲が菊乃の肌をすべる。
頬から首へ、首から胸元へ、胸元から腹へ。
下腹で手は止まった。肩を揺らして紺は笑う。
「孕ましてみな。てめぇを雄の竿に孕ますんだ。楽土ってのを見せてやれよ。それが獄世だって気付いた時にゃあもう戻れねえ。ぎっちりと絡めとって、搾り取ってやんな」
店から聞こえる艶やかな笑い声。石灯籠に虫が群がっている。融けた蝋に羽を絡め取られた蛾が、ひくりひくりと羽を蠢かす。
徒声。虫の音。ゆららと揺れる風の音。
秋波に身を浸し、菊乃は笑った。
鮮やかに。
艶やかに。