雑草狩り
突然割り込んできた手を打つ音に、梓はピアノを弾く手を止めた。見やると、音楽室の入口に自分も良く見知った少女がいた。手に持ったバイオリンを掲げて笑う。
「しよう?」
もちろんだ、と頷く。詰め襟を脱ぎ、ワイシャツの腕をまくった。
私立北城学園の制服は、ダサい。女子は白を基調としたセーラー服に、男子は学ラン(ボタンではなく、ファスナーのやつ)だ。
そのダサさにも関わらず毎年入学希望者が多いのは、県内随一と言われる程に、頭の出来がよろしいからだ。そのため親はやっきになって、初等部から北城に入れたがる。『良くて初等部、せめて中等部から』、だ。高等部からの入学者はそうそう多くない。
高井梓はその、そうそう多くない高等部からの入学者だった。
バイオリンの音が大きくはずれる。梓は手を止めた。
ごめん、と小さく舌を出して和夜は片目をつむる。
男みたいな名前だが、吉口和夜は、れっきとした少女だ。梓の幼馴染である。幼い頃、名前のせいで男女とからかわれる和夜を、よく庇ったものだ。そして庇った梓が、名前のせいで女男とからかわれた。
「今日はもうやめとくか? お前さっきから音はずしすぎ。十六分弱いしスタッカート、キレ悪いし」
バイオリンを下ろし、和夜が唇を噛む。しばらくじっとしていたがそのうち、ゆっくりと頭を振って、もう一回、と梓を見据えバイオリンを構えた。くっきりとした二重の切れ長の、白目部分が薄青い。スイッチが入った目だ。
梓は鳥肌だった腕を一撫でし、伴奏を始めた。
さっきとはまるで違う、深みのある音だ。聴く者を無理やりに捻じ伏せる音だ。その和夜の音を自分が乗せている。これは、俺のものだ。俺の音だ。誰にも渡すものか。
最後の和音から指を離し、梓はずるりと椅子に背を預けた。息をつく和夜と、目が合う。
「今日は晩御飯おいしく食べれそうだわ」
首を僅かに傾げて、和夜は笑った。くせの無い黒髪がさらりと揺れる。
俺は、眠れなさそうだけど。
「お前なぁ」
「むらっ気あんの何とかしろ、でしょ? 分かってますー」
「分かってんなら何とかしろって」
「だぁって、あと一週間しか無いって思ったら緊張しちゃって……」
「今からしててどうすんだよ」
予行演習よ、と和夜は口を尖らせた。
一週間後に、バイオリン部門の校内選考の一次予選がある。それに受かった者が二次に進める。一次は十人、二次は三人に絞られる。
選考に受かった者は、夏休みのうち二週間、プロの演奏者に指導をしてもらえる。そして今後のサポートも。
今年から始まった企画で、三年生である梓と和夜にとっては最初で最後のものとなる。
梓の斜め前、ピアノの横で和夜がしゃがみこんで、バイオリンをケースに仕舞いこんでいる。黒髪の間から、白い項が覗いていた。
梓は白鍵に中指をゆるりと這わせた。
「ねえ梓。あたしもう帰るけど、梓はどうする? 一緒に帰る?」
「や、ギリギリまで練習しとく」
「うん、そっか。じゃあ、頑張ってね……、って、言われなくても頑張るか」
無茶しないでね、と目を細める和夜に、梓は苦笑を返す。
和夜の足音が徐々に遠ざかる。完全に聞こえなくなるのを待って、梓は鍵盤に拳を叩きつけた。
不協和音。
音楽室の隅のギターが、共鳴してイィンと音をたてた。吹奏楽部の練習する音が聞こえる。
無茶するなって?
「……せずに追いつけるかよ」
三日前、ピアノ部門の二次選考があった。梓は、選ばれなかった。音に艶が無い。上手いだけ。そういう評価だった。
技術なら確実に梓の方が上の、ミスタッチも梓の方が確実に少なかった、そんな男が選ばれていた。二年生だ。
黒いガラス窓に、ピアノに突っ伏す梓が映っていた。短い黒い髪に、僅かにたれた目。僅かに笑って、身を起こす。
梓は鍵盤に指を走らせた。ショパンのエチュード。二次選考の時に弾いた曲だ。上手いだけの音。
指を止めて、振り返る。入り口にさっきから誰かがいるのは知っていた。
「何で止めるの?もったいない」
吹奏楽部の顧問だ。梓たち校内予選組の為に、音楽室を空けてくれた。おかげで吹奏楽部は空き教室や外で練習している。
「すいません、音楽室使わせてもらって」
「良いのよ。外で練習した方が皆も練習になるから。けどまあ、高井君。上手いものねぇ」
「知ってます」
可愛くない子、と先生は口元に皺を刻んだ。こうして見ると、吹奏楽部員に鬼婆と恐れられている人物と同じと思えない。先生は指に引っ掛けた鍵の束をジャラリと揺らした。
「良いかしら?」
「ああ、すいません。もうそんな時間か」
そういえば楽器の音がさっきから聞こえない。壁の時計を見る。八時少し前。壁のモーツァルトと目が合った。残念ながら彼とはあまり相性が良くない。
ピアノを眠らし、楽譜をダサい指定鞄に仕舞う。学ランを羽織った。先生の後ろをついて、校舎を出た。暗い校舎を後ろに、右手側に中等部の校舎、左手側に、ライトに照らされた高等部の野球部一軍専用グラウンドが見えた。
北城が人気あるのは、偏差値が高いからだけでは無い。野球部が全国レベルだ、というのもある。
伝統、偏差値、スポーツのレベル、そして音楽と、これが北城を支える柱だ。音楽クラスは中等部には無い。高等部に僅か二クラスしか無いが、それでもそこいらの公立の音楽高校よりは施設もレベルも上だ。
北城に行きたいと中学三年の時に梓は言った。母は喜んだ。しかしそれが音楽クラスだ、と言ったら、血相を変えて反対された。
子の幸せを願わない母親はいない。大学でも音楽をしたい、とはまだ言っていない。反対されるに決まっているのだ。
だから、と思った。北城に認められて、プロにも認められたとなれば、きっと母は音楽を続けさせてくれるだろう。だから、選考に応募した。
しかし落ちた。応募した事を母に言っていなくて良かった。落ちたとばれたなら、母はきっと喜んでお前はそこまでの人間なのだ、和夜ちゃんとは違うんだと諭していたのだろう。
しかしまだチャンスは残っている。一週間後のバイオリン部門の一次予選だ。和夜の腕だ、一次は突破する。問題は二次だ。二次には、夏休み中指導してくれる演奏者自身が来る。ピアノの二次の時にはバイオリニストも来ていた。バイオリン二次の時にも、きっとピアニストが来るだろう。
梓の狙いはそれだった。たとえ伴奏でも良い演奏をしたのなら認めてくれるはずだ。ゼロに近い可能性だと分かっているが、それでもしがみついていたかった。
(アホみてぇ)
一人、暗い夜道で笑う。遠く後ろには、北城のバカ広い校舎があった。
結局梓は北城高等部の普通クラスにいる。母の涙はやはり、つらかった。折れた自分が苦しかった。
最寄り駅に向かう途中、いつも通る公園の入り口に、車がとまっていた。黒のクラウン。きれいに磨き上げられている。街灯の明かりを受けて、光っていた。
梓は鞄を持つ逆の手をズボンの脇に走らせる。一次に弾いた曲、シューベルトのソナタだ。早く帰って練習しなくてはいけない。寝る間も惜しんで。これ以上和夜との間を広げてはいけない。
車の隣を通り抜けようとした。しかし、出来なかった。強い力が後ろから、梓を押さえつけてくる。両手首を片手で纏められ、後ろに捻り上げられた。鞄が地面に落ちる音が聞こえた。ウォークマンが当たったのか、ガチャン、と硬い音があがる。体を動かそうとすると、ひどく痛んで動けない。腕を、手を痛めてはいけない。ピアノが弾けなくなる。
「……な」
にするんだという声は、口にあてがわれた布に消えた。
梓の意識はそこで途切れた。
堅い感触が尻の下にある。学校の椅子と似た感じだ。
何だ、ここ。
学校?何となく前に手を伸ばしてみたが、学校ならあるはずの机は無い。
(……何だ? てか、どこだよここ)
ゆっくりと目を開ける。しかし暗いばかりで何も見えない。
「…何なんだよ」
声に出してみても、答える者はいない。
ちょうど梓が立ち上がった時だ。
突然、視界が明るくなった。急な変化についていけず、目の奥が痛んだ。とっさに梓は目を閉じた。
「座ってもらえるかしら、高井君?」
聞きなれない声に体が強張るのが分かった。
ゆっくり目を開け、声のした方に目をやると、パンツスーツの女が立っていた。その後ろに暗い色合いのつなぎを着た男が二人いる。
部屋を見回す。教室ほどの大きさの部屋だ。梓の他にも三人、椅子に座っていた。
梓が一番右端だ。女と男二人、それと梓達しかいない。家具は梓達が座っていた椅子しかない。
「座ってもらえるかしら?」
有無を言わせぬ硬い声に、梓の体は従った。
ゆっくりと、女は梓達の前まで歩いてきた。男は女の斜め後ろに立った。もう一人の男が、ドアを閉めてから、やはり女の斜め後ろに立った。
「私は近藤好美。今回の狩りの、指揮官です」
……狩り?
「……狩り?」
梓の三個隣、左端の前髪の長い男が言った。北城の制服を着ている。
近藤はにこりと笑って、右手を挙げた。バスガイドの様な柔らかな動きだ。右斜め後ろの男を指し示す。
「彼は前田君。ハンターです。足が速いから気をつけてね」
前田が軽く会釈する。短い髪に、日に焼けた肌。鋭い目をしていた。近藤は左手でもう一人の男を指した。
「山下君です。彼もハンター。これと言って特徴は無いけれど、良く機転が効くかしらね?」
山下が会釈をする。僅かにくせのある髪が揺れた。
ガタン、と音がする。前髪が立ち上がったのだ。握り締めた拳が震えていた。
「……どういう事、ですか」
ああそうか。あの前髪。
(隣のクラスの奴だ)
そういえば目に刺さって鬱陶しいだろうに、と思ったことがあるのを覚えている。
間の二人はぼうっと眼前の三人を見ている。
前髪の隣は、少女だ。同じく北城の制服を着ている。眉の上で揃えたギザギザの前髪の下で、大きな目が見開かれていた。
梓の隣はユニフォームだ。白峰の野球部の物だ。焼けて赤くなった鼻と頬が痛そうだ。なんとなく、大型犬を思わせた。
「そう焦らないで、下沢君。今から説明するわ」
座って、と近藤は両手で示す。下沢は近藤を見据えたまま、ゆっくりと椅子に座りなおした。
「さて、今回皆さんに集まってもらったのは、ウィーズ・ハントをする為です」
集まって?
近藤は小首を傾げた。暗い茶に染めた長い髪が流れる。良く見るとなかなかの美人だ。奥二重の下の泣き黒子が色っぽい。
「皆さん、セイタカアワダチソウを知っているわよね?」
梓は隣の男と顔を見合わせた。
「あの黄色いやつよ。ブタクサとも言うわね。何か作物を育てる時に、とても邪魔になるの」
近藤は髪を耳にかけた。
「作物の為の栄養分を吸い取ってしまうからね。迷惑なの」
梓は俯いた。だから、と近藤は大きく息を吸い込んだ。
「刈るのよ。ブタクサを育てたい人間なんてそうそういないでしょう?」
梓は顔を上げる。クセ毛のほう、確か山下だ。山下と目が合った。
「あなた達は北城の学生だものね。私の言いたい事、理解できるでしょう?」
梓は立ち上がる。
「狩りは十年前くらい前からされているの。毎年ある学校から数名、選んで」
ハントの歴史なんてどうだって良い。
「『才能ある若者の脚を引っ張る才能ない若者を駆除する』『一つのものに固執して他の事に目を向けられないでいる若者の視野を広げる』。それがウィーズ・ハントの目的よ。これは、あなた達の為でもあるの。……座りなさい、高井君」
大型犬が、座れ、と目で促す。静止を無視して梓は一歩踏み出した。
「……雑草ごときに足引っ張られるような奴は、天才とは言わないんじゃないですか」
「高井君、聞こえなかったのかしら」
「本物の天才は、そんなのぶっちぎって、育ってくもんでしょう」
近藤は後ろに視線を流した。裾を引っ張る大型犬の手を振り払った。
「帰せよ! 意味わかんねぇよ!!」
銃声が、響く。
梓の足の間を、何かが通り抜けて行った。
ふくらはぎのあたりが、破けている。
運動会で嗅ぎ慣れた臭いが、部屋に満ちた。
ひ、と誰かが息を呑むのが聞こえた。
体が震える。唇をかみ締め、前を向いた。
髪の短い方、前田が大きな手に小さな銃を構えていた。座れ、と唇が小さく動くのが見えた。
(座れも何も……)
力が抜けて、立っていられなかった。それでも、近藤からは目を離さずにいた。
可愛くない子、と近藤は苦笑する。そのセリフは今日二回目だ。
「ちゃんと帰してあげるわ。今日から三日間この二人から逃げられたらね」
この二人、と近藤は両手を挙げた。
「逃げようなんて思わないでね。この屋敷の周りには、電流柵があるから。去年の子はそれで亡くなったそうよ」
では、と近藤は声を高くした。
「ルールを簡単に説明します。簡単よ。今言った通り、三日間、この屋敷内を逃げまわってもらいます。水も食料もどこかにあるわ。あと、携帯は使えません。山奥だからね。ハンター二人、それと私も攻撃してくるから、気をつけてね。それと、あなた達の荷物はこちらが預かっているから心配しないで。終わったら帰してあげるわ。……ちなみにこの十年、無傷で逃げ切れた子は一人もいないらしいわ」
口の中が苦い。
この味は。
それでは、と近藤は手を挙げた。
「ハント、スタート」