水瀬堀の美人柳
夕暮れ時であった。
空の端で輝く残照も、そろそろ夜に呑まれようとしている。
黄昏時である。すれ違う人々の顔はぼんやりと影に覆われており、
足元は昨日の夜雨の所為でぬかるんでおり、一歩踏み出すたびに、ぐじゅりと嫌な音を立てる。跳ねる泥が薄物の裾に飛び、颯馬は眉を顰めた。
この男、美しもの好きなのである。
ゆえに、己の身形にも気を使う。月代を綺麗に剃り上げ、髷も銀杏頭に結い上げて、薄萌黄の薄物を着流す姿は粋そのものだ。
だが今はその粋ぶりも、汗と泥とで崩れてしまっていた。
文月の生ぬるい風が肌を撫でた。まとわりつくような湿気が薄物の隙間から入り込み、じわじわと不快な汗を滲ませる。
闇に薄らぼける視界、ぬかるむ足元、からみつく湿気。不快でたまらぬというのに颯馬が外を行くのは、やはりこの男が美しもの好きであるゆえだ。
颯馬は
水瀬堀は、颯馬の住まう
美人柳が有名になったのは、文月になってからの事だ。水無月の続き雨を経て、美人柳はその緑をより一層深め揺らぎ、人を誘うようになった。
やがて、美人柳の在る河原に辿りついた。その頃には息は上がり、鬢もほつれ、薄萌黄の薄物の裾は泥で汚れきっていた。
だが颯馬は気にしていなかった。颯馬は昂る心を抑えながら、美人柳の側に向かった。
柳は河原に君臨している。まさしく君臨というにふさわしい姿だ。黄昏時の薄闇を背負い、その見事な枝葉をさやさやと風に揺らしている。
さ。
さ。さ。
さ。さ。さ。
風に揺れるたび、美人柳が声をあげる。颯馬は思わず、ほう、と息を吐いた。
美人柳を見上げながら、颯馬は一歩ずつ柳に近づいていく。
ゆらめく柳を、女の髪のようだと例える者もいる。だが颯馬は、そうは思わなかった。
さ。
さ。さ。
さ。さ。さ。
ざ。
「まるで、女の手のようじゃアねえですかい」
は、と颯馬は息を呑んで歩みを止めた。
美人柳の傍らに、男が立っていた。
黄昏時の薄闇に呑まれ、男の輪郭は不明瞭であった。男が黒の薄物の着流し姿であるゆえかもしれぬ。
ぼやけた印象は、目深に被った笠の所為でもあるだろう。目元は隠れ、ただ、薄らと笑う口元ばかりが見える。
男は颯馬に笑みを投げかけ、こいつァ失礼、とおどけた声を出した。
「驚かせちまったようだ。許してくんなせえよ、旦那」
「いや、それは、構わぬが……」
何者だ、と颯馬が問う前に、男は言った。
「手前は庭師でございやすよ」
そしてするりと腕をあげ、長い指で己の頭部を指し示してみせる。
「――ちょいとばかし、いかれた、ね」
ニィ、と笑みを深める。
颯馬は声を呑む。庭師は、く、と喉を引き攣らせるようにして笑み声を上げた。
何やら馬鹿にされたようで面白くない。颯馬は不快さを隠そうとせず、鼻をフンと鳴らした。
庭師を名乗る男は気にした素振りも見せず、美人柳を一房手に取る。
「ねえ旦那。そうは、思いやせんかい」
何がだ、と聞こうとして、颯馬は口を噤んだ。
――女の手のようじゃアねえですかい。
庭師は、そう言ったのだ。
颯馬はただ無言で頷いた。
そうだ、手だ。この柳は女の手だ。なよやかに揺らぎ、男をさしまねく。
手だ。
「美しい」
思わず、颯馬は声に出していた。
女の手は良い。美しい。
白い指先の先にちょこりと乗った、桜貝の如き爪。関節に刻み付けられた皺は生命を感じる。ほどよく乗った脂は、手の甲に浮き上がる不恰好な骨を隠してくれる。だが指を反らせるたびにちらちらと浮き上がる骨も、それはそれで良いものだ。走る血の管の青さは、手の白さをより一層深めている。ぽつぽつと見える毛穴。そこから飛び出す短い毛も、男のように黒く固くない。ひたすらなよやかで、しなやかだ。手のひらについた肉もまろやかで、颯馬の手を優しく包んでくれる。
美しい手だ。
女の手は美しい。
いや、お美代の手は。
まるで、お美代の手だ。
美人柳はまるでお美代の手だ。
なよやかに揺らぎ男をさしまねく。
「左様でございやすなァ」
「は」
「左様でございやすなァと、申し上げたんで」
「……何の事だ」
「美しい、と仰ったじゃねえですかい」
「ああ、…………」
さ。
さ。さ。
さ。さ。さ。
美人柳が風に揺れる。
ゆらゆらと、まるで、手招きをするように。
――颯馬さん。
お美代は言ったのだ。
颯馬さんとは所帯を持てぬ、と。
今まで散々に尽くしてきたのだ。何度も何度も何度も、お美代が看板娘を勤める茶屋へ足しげく通った。日照ろうが雨が降ろうが通った。毎日毎日毎日。
それも、寄っておいき、とお美代が颯馬を誘ったからだ。
白い頬にえくぼを刻んで、白い手で颯馬をさしまねき、白い手で颯馬の手を包んで、ゆっくりしておいき、と緋毛氈の椅子に座らせて。
だから毎日通った。通って、通って、想いを告げた。
だがあの女は困惑を滲ませた声で言ったのだ。颯馬さんとは所帯を持てない、と。
だから。
その手を。
美しい手を。
――やめて颯馬さん。
「旦那が仰る通り、大層美しゅうございやすなァ。男どもが惹かれるのも無理はねぇや」
「何を……」
このあばずれが。
他の男も誘ったか。
この手で誘ったのか。
俺以外に何人を誘った。
「颯馬さん」
声がした。
お美代の声だ。
美人柳の下に、お美代が立っていた。
お美代は袂を押さえ、右手をゆぅるりとあげた。
そして、さしまねく。
「颯馬さん」
ゆらゆらと、白い手が、黄昏時に揺れて踊る。
「お美代」
何故。
何故、お美代が。
脚が震えた。颯馬はじりじりと後ずさる。
「手前はこの柳に呼ばれたんでございやすよ」
庭師の声がした。だが姿が見当たらない。
「手前は庭師。草花で庭を彩る事が勤めでございやす」
そして、と言葉を切る。
「草と花の声を聞き、美しく咲かせる事が」
ざ。
風が。
お美代が。
「颯馬さん」
笑うお美代が、すぐ側にいる。
「何故だ」
お美代がいるはずはないのだ。
お美代が在るはずはないのだ。
「颯馬さん」
お美代は笑いながら、白い手を揺らめかせて颯馬を誘う。
この手も、あるはずがないのだ。
それも颯馬が。
あの日、あの水無月の夜に。
お美代の手を。お美代を。
この、柳の下に。
「颯馬さん」
さしまねく手が、ぼろりと落ちた。
颯馬は悲鳴を上げる。
「颯馬さん」
落ちた手の代わりに、お美代の手から柳が生えた。
お美代は笑って、柳を風に揺らがせ、颯馬を誘う。
「うわあああああッ」
叫んだ。
柳が、いや、お美代の手が、柳の姿をしたお美代の手が。
伸びて。
颯馬を絡めとる。颯馬の足を、腹を、首を、顔を絡めとる。口中にまで柳が。
息ができない。
「颯馬さん」
許してくれお美代。
懇願する声は、口中を埋める柳に呑まれて消えた。
颯馬の視界は色濃くけぶる柳の緑一色だ。
「美しゅうございやすなァ」
庭師の声がした。
「――あな燦爛たるや」
謡うような、庭師の声が。
さ。
さ。さ。
さ。さ。さ。
ざ。
風が。
柳を。
お美代を。
「颯馬さん」
お美代。
美しいな。
美しい手だ。
美しい柳だな。
まるでお前の手のように、美しい柳だな。
翌日、水瀬堀の美人柳の土の下から、男女の死体が発見された。
女は両手を斬られ、その手を男はさも大事そうに抱えていた。
柳は陽の光を受けて緑に輝き、二人を包むようにして風に泳いでいたと聞く。
その緑は、まさしく燦爛と呼ぶにふさわしい輝きであったとの事だ。