手燭の灯りを頼りに、
鶴松が退役軍人となり、もう数年が経つ。以前は皆と同じように天ツの白の軍服を身に纏い戦線を駆けていた鶴松だが、何度目かの戦闘の折に、脚をがぶりとやられてしまったのだ。日常生活に支障は無いが、やはり戦うには不自由だ。皆の足手まといとなってしまう。
以来、鶴松は軍服を脱ぎ割烹着を纏い、得物をお玉に持ち替え、この兵営の賄いを引き受けている。正直なところを言えば暴れられぬ不満は有ったが、美味い美味いと皆が鶴松の料理を食ってくれるのは、素直に嬉しかった。
今宵は宴の日だ。監士殿が来る前に集まっておくようにと、先程召集がかけられていた。鶴松は、その監士殿を持て成すべく作った料理を取りに、調理場へと向かっているところだった。
ひょいと覗き込んだ調理場には、先客の姿があった。手燭の灯りに、その影がゆらりと躍る。白の天ツ軍服に身を包んだ細身の姿。軍帽の下の髪は、鮮やかな程の白。腰に提げた白鞘の刀の影が、まるで猫の尾のように揺れている。
鶴松は一つ嘆息し、大きく息を吸った。
「こらぁっ!!」
一喝すると、彼は大げさなまでに肩をびくりと揺らして驚いた。手にしていたおにぎりを慌てて口に詰め、ぎしぎしとこちらを振り返る。
「ひーろーいー、何してんだお前は。あ?」
つかつかと歩み寄り、鶴松は地を這うような低音で彼の名を呼ぶ。
まるで栗鼠のように口いっぱいにおにぎりを頬張りながら、拾は言い訳を考えている様子だった。
「監視殿にお出しする料理だって事はお前だってじゅーうぶん、分かってるよな?」
諭すように、年長者の余裕を見せるように、鶴松は殊更にゆっくりと優しく言ってやる。むぐむぐと咀嚼しながら拾は、米粒のついた手指をひらひらと動かして言葉に代えた。
『そんなに怒ると若白髪が増えるぜ?』
「うるっせえ、総白髪に言われたくねえよ」
軍帽越しに、ごすっと手刀を落としてやる。こっそりと気にしているというのに、傷を抉ってくれるんじゃない。鶴松はまだ二十五になったばかりだ。これは、ただ、疲れているだけだ。そうだ。そのはずだ。
拾はやや不機嫌な様子で、三白眼気味のツリ目を半眼にしている。不機嫌を主張したいのはこちらの方だ。これでは、作り直さなくてはいけない。
「腹が減ってるなら言えよ。わざわざ監士殿の分を食う必要はねえだろ」
『作りたての方が美味い』
「そりゃそうだろうけどよ」
めいっぱい口に詰め込んだ白米をようやくごくんと飲み込んだ拾は、背後を見やった。机の上にはまだ料理が残っている。指についた米粒を舐め取りながらそれを見やる拾は物欲しげな顔をしていたが、流石に鶴松を前にして手を伸ばす事はしなかった。
全く、相変わらず欲望に忠実な奴だ。今は副長の位に就くあの人に拾われて以来、拾はこの兵営で多くの時間を過ごしている。副長の住まいである、やたらに馬鹿でかい西国造りの館に一人残しておくのが心配だったのか、軍役に就く以前の幼い頃から、拾はいつもこの兵営にいた。水兵服に身を包み、ちょろちょろとうろついていた小さな姿は今も覚えている。
賄い方を父に持つ鶴松もまた、軍役に就く以前からこの兵営に在った。父の手伝いをする傍ら、訓練に参加させてもらいながら育ってきた。空いた時間には、竹刀や木刀、模造刀だのを振り回して遊ぶ拾の相手をしてやっていたのが懐かしい。いつの間にか、腕前は随分と追い越されてしまったけれど。
幼い頃から拾は、調理場にやって来ては物をねだり、めいっぱい口に詰め込んでいた。見咎めた副長が、私が食わせていないみたいだからやめろ、とあらかじめ食料を持たせてやっていたか。以来拾は、菓子だの何だのを大量に詰め込んだ、くまの形をした鞄を背負わされていた。
だがそれでも、鞄に無い物が欲しい時は調理場に来てものをねだっていた。腹が膨れれば、暖炉の前だの、夏場は氷室の側だの、快適な場所を見つけては眠っていた。猫のような奴だ。
昔からそうだ。よく食らい、よく眠り、よく遊ぶ。それは今も、変わりない。
鶴松が他所事を考えている隙に、拾は料理へとそろそろ手を伸ばしていた。その手をスパンと叩き、鶴松は「こら」と声を張る。
「……何か、焼き菓子とか作っといてやるから」
『焼き菓子?』
これ以上、監視殿への料理を減らされては困る。仕方なしに言えば、拾は白銀の目を輝かせた。
「ああ、砂糖めちゃくちゃ入れてな。くっそ甘いやつ。帰ってきたら食え」
口を半開きにした間抜け面で、拾は焼き菓子へ多大なる期待を寄せている。鶴松は苦笑した。
ふいに呼ばう声がして、二人は揃って顔を上げた。
「拾! どこだ! 早く来い!!」
副長の声だ。拾は指笛を高く吹き、返事に代える。手袋をはめ、第一会議室(通称・豚さん部屋)を目指し駆け出す背中に、鶴松は声をかける。
「ま、死ぬなよ。今腹裂かれたら白米飛び出るぜ」
振り返った拾は腹を押さえ、笑みを浮かべる。凶悪だの獰猛だの、とりあえずは穏やかでない言葉がよく似合う笑みだった。瞳に点る愉しそうな光が羨ましい。揺れる刀の影が獣の尾のようだ。実に嬉しそうだ。
「死なねえ程度に遊んできやがれ」
もちろんだと言うように、拾は手を挙げた。
やがて見えなくなった背に、鶴松は一人思う。
拾の愛刀の名は、
確か、拾は言っていた。肉も魚も菓子も好きだけど、米が一番好きだ、と。白米が一番良い、と。
白い米。白篭。駄洒落か。ふ、と鶴松は自身に向けて苦笑を漏らす。
鶴松は料理の乗った盆を持ち上げた。
そのうちに、宴を知らせる鐘が響くはずだ。常夜を裂く鵺の声も。それを聞いたら、どうせ己も平静ではいられない。皆への羨望に妬き殺されそうになってしまう。自分だって、本当は鵺と遊びたいのだ。
常夜の主が現れるまで、あと少しだ。窓の向こうに広がる暗い夜を眺め、鶴松は腹の底を揺らす妬心と昂りを、長く息を吐いて抑えこんだ。