みなぎる豆腐小僧
扇屋は頭を抱え、うんうんと唸っていた。
明日までに十枚、花の絵付けをせねばならぬのだが、どうにも思うように絵が描けない。
扇の骨を作るも扇の地紙を梳くも、地紙に絵を描くも扇を売るも扇屋と言えるから、この男だけを扇屋と呼ぶには相応しくないのかも知れぬがそれはさて置き、頭を抱えた扇屋は大きな溜息を吐いた。
いつもは地紙を前にすると図案がぱっと浮かぶのだ。しかし今日は駄目だ。何も浮かばない。
とりあえず筆を走らせ絵を描くものの、納得のいく絵になってくれない。もう夕刻になるというのに、全く完成が見えてこない。扇屋はまたも大きく息を吐いた。
そうだ、きっとこの長雨がいけないのだ。しとしとしとしとと耳に煩わしくて、ついでに肌にも紙にも煩わしい。
ふと、扇屋は足音を聞きつけた。ぱしゃ、ぱしゃ、と不自然な程に等間隔な足音が聞こえてくる。
その足音は、扇屋の長屋の前で止まった。
「もし」
子供の声だ。扇屋は耳を塞ぎ、無視する事にした。
「……もし。もし」
だが声は止まぬ。誰かと話すのは面倒なのだ。だから無視をしているというのに。
「もし。もし。もし」
しかし声は尚も食い下がる。扇屋は足音荒く立ち上がり、乱暴に戸を開けた。
「うっせーぞ! 何なんだよ!!」
「お久しゅう」
子供は両手に豆腐を持っていた。いつもは盆に乗せているのに、と首を捻る扇屋に向かって、子供は満面の笑みで豆腐を投げつけた。
「絹ごしっ!」
「どーも、こんちわっす! 豆腐小僧でっす!」
「何だそのテンション! お前そんなキャラじゃなくね? あーもー豆腐くせえ!」
扇屋は顔周りの豆腐を拭った。
「いやあね、ちょっとマイナーチェンジしようかと思いましてえ」
「マイナーどころじゃねえよ? フルモデルチェンジだよ?」
「おれって地味じゃないっすかあ」
「話聞いてくんね?」
「豆腐持ってうろついてるだけとかちょっと虚しくね? と思ったわけでえ」
「その話し方やめてくんね? イラっとくるから、すんごいイラっとくるから」
「よし、ちょっと投げてみっか! と思ったわけでえ」
「それでなんで俺のとこ来んの。帰れ。巣に帰れ」
扇屋は戸を閉じた。手ぬぐいで汚れた顔を拭く。
何なんだいったい。今日は厄日か。
がしがしと顔を拭う。顔どころか髪にまで豆腐が付いている。最悪だ。
ぐちゃり、と何かが潰れる音が外から聞こえてくる。何かって、まあ、豆腐なのだろうが。
ぐちゃり、ぐちゃり、ぐちゃり、ぐちゃり。
音は止まない。何をしているのだ。
扇屋はもう一度戸を開けた。
「木綿っ!」
開けるなり、またも豆腐が顔に直撃する。
「兄さんつれないっすよお。ちゃんと相手してくんなきゃ駄目じゃないっすかあ」
「何やってんだお前……ってめっちゃ戸に豆腐ついとる!」
「ついカッとなってやった」
「反省はしろよ!? 豆腐まみれじゃん! 俺んちの戸めっちゃ豆腐まみれじゃん!」
「これがネオ豆腐小僧」
「その顔むかつく」
ふっと目を細めて笑う豆腐小僧の頬を、渾身の力で抓ってやる。
「あいたたたた痛いっすよ、ちょ、まじ痛いって、ちょ」
「お前あとでちゃんと掃除しろよ?」
「……きっとこの雨が流してくれる……豆腐も、おれの罪も何もかも……」
「格好良くねえよ? あーもーマジ巣に帰れよ。お前の相手してるヒマねえんだって」
豆腐小僧の脳天に拳を一つ落とし、扇屋は顔の豆腐を拭う。と、ふらりと力が抜けてその場に膝をついた。
「兄さん? どうなすったんで?」
「……腹、減って……」
そういえば、朝から何も食っていないのだった。
豆腐小僧はあわあわと周囲を見渡す。が、誰もいない。こんな雨の日に、用も無く外に出る奇特な輩はそうそういない。
「そうだ!」
豆腐小僧は手を打ち合わせた。ぐちゃりと豆腐が潰れる。お前の豆腐は無尽蔵か。すげえな。
「ほら」
豆腐小僧は扇屋の肩に手を置いた。触んな、豆腐付く。
「ぼくの豆腐をお食べ……」
「断固断る」
「何故!」
「気持ち悪ぃよ! お前の掌から生まれた豆腐とか気持ち悪ぃ以外の何者でもねえよ!」
「……これが……ツンデレ……っ」
「デレてねえ! 帰れ!」
扇屋はピシャリと戸を閉じた。
今度は開けねえ。戸に豆腐ぶつけられようとも何をされようとも、絶対に開けてやるものか。
「兄さん今日はご機嫌ナナメっすねえ」
「何でいるよ!」
「やあまあ、おれも一応妖怪なんでえ」
隣に立つ豆腐小僧が、片目を瞑りぺろりと舌を出す。扇屋はぐったりと肩を落とした。
「何なのお前ほんと……」
「ネオ豆腐小僧でっす」
「いや、……うん、…………もうどうでも良いわ……」
扇屋は手ぬぐいで顔を清め、地紙を広げた文机の前に座した。この馬鹿の相手をする前に、するべき事が有る。
筆を持ち、首を捻る。だがやはり良い案は浮かんでこない。
「兄さーん? お悩みごとっすかー……あいたっ」
こちらにやってきた豆腐小僧が、何かに躓いて転ぶ。小僧の掌からすっ飛んだ豆腐が、地紙の上にべちゃりと落ちた。
「うお、すんません。とんだ粗相を」
へらりと笑って、小僧は後頭部を掻いた。
地紙は豆腐の水分を吸い、じわじわと色を変えていく。
「……あーもーマジでもうやだー……」
「うお、ちょ、兄さん、何も泣かなくても……!」
「何なんだよもー……、上手い事絵は描けねえし腹は減ったしアホは豆腐投げてくるしー……、俺が何したってんだよー……」
「ちょ、だ、大のおとなが情けねえですぜ?」
「うっせーよアホー……帰れよもー……」
扇屋は洟を啜る。豆腐小僧はあわあわと周囲を見回している。
「そうだ!」
豆腐小僧は手を打ち合わせた。ぐちゃりと豆腐が潰れる。何なのこの無尽蔵豆腐。すげえな。
「これで、涙拭いて下せえ……」
豆腐小僧は扇屋の掌に、そっと豆腐を乗せた。
扇屋の掌の上で、ふるふると豆腐は震えている。この手触りからするに絹ごしか。
扇屋は、豆腐をそっと顔に押し付けた。ぐちゃりと豆腐が潰れる。ついでに豆腐臭い。
余計に泣きたくなった。