てがみ
泥棒猫と言われて、頬を張られた。
涼子は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、腫れた頬に押し付けた。引掻き傷に水滴が沁みてひりひりと傷んだ。
ソファーに体を沈め、足を投げだす。机の上には一枚の葉書があった。結婚の知らせだった。実家から転送されてきたものだ。
知人と友人のちょうど真ん中の関係に当たる彼らとは、高校を卒業してから六年間、一度も会っていない。
だが毎年、年賀状は届いた。律儀なものだ。いつも市販の年賀葉書を返送するだけの涼子に、よくまあ愛想を尽かさないものである。
プルタブを引く。喉に流し込んだ炭酸がはじけた。苦味が心地良い。
(泥棒猫か)
今日の昼休みの事だった。その言葉と共に、同僚は涼子の頬を平手で打った。真っ赤に泣き腫らした目が痛そうだった。
何で人の男に手を出すの、最低、ビッチ、……他に何と言っていただろうか。興奮した同僚の声は言葉を成すに足らず、それ以降は何と罵られたのか分からない。
昔からこうだ。人の恋人が輝いて見える。だから欲しくなって手を伸ばす。
悪癖だ。分かっている。だが治らない。
涼子は缶ビールを一気に呷った。炭酸がツンと鼻に抜けた。
机の上の葉書には写真が印刷されている。
中池幸四郎・富貴子。
連なった名前を懐かしく思った。
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放課後の地歴資料室は滅多に人が来ない。逢引するのにうってつけだった。
「なあ藤沢。あいつには言うなよ」
ズボンのチャックを引き上げながら彼は言った。セーラー服のリボンを結び直しながら、涼子はこくりと頷く。
「絶対だからな」
彼はしつこく念を押す。もう一度頷けば、彼はようやく安心したのか、ほっとした表情を浮かべた。
そんなに彼女にばれるのが恐いのなら、涼子の誘いを断れば良かったのに。
しかしそう言えば、じゃあ誘うなよ、お前が誘うから悪いんだろ、と言われる事は間違いないので黙っておく事にする。
今までも大概そうだった。涼子との関係が彼女にばれれば、ほとんどの男はそう言った。
そして彼女と別れる破目に陥った男は、次に必ずこう言う。
『責任取れよ。お前が悪いんだからな』
じゃあどうして誘いに乗ったの?
そう涼子が問うと男は怒って、涼子を悪し様に罵る。そして落ち着いた頃に謝り倒して、涼子を抱く。
その後は付き合ってくれだの、俺が好きなんだろ、と男は言う。
その途端、涼子の気持ちは冷める。男が以前まで付き合っていた彼女に向ける視線と、涼子に向ける視線は全く違う。
優しさを感じない。ただ、欲ばかりを感じる。
鬱陶しいと思う。彼女に向ける、あの優しげな視線を自分に向けてほしいと思っていたのに、何故こんなに欲に濁った視線を寄こすのか。
この男もそうだ。いつも彼女と教室でじゃれあっているのを、涼子は見ていた。
彼の手が彼女の髪をかき混ぜるのを見て、涼子は思った。あの優しい手つきで、自分にも触れてほしい。
だから誘った。
そうしたら、このざまだ。
もう用は済んだとばかりに、男は涼子に背を向けた。
男が資料室を後にしようと、戸に手をかけたその時だ。
ガラリと戸が開いた。男は声を上げて肩を跳ねさせる。
「……お前ら何してんの」
隣のクラスの男子だ。中池幸四郎。肩に資料を担いでいた。おそらく地図だ。
「べ、別に何でもねえよ! なあ!?」
「……うん」
冷や汗を垂らし、男は涼子に同意を促がす。
怪訝な顔をする幸四郎を横目に、男は慌しく走り去った。スリッパがばたばたと音を立てる。
「……藤沢さん、だっけ」
「知ってるの?」
「だって、……有名だし」
幸四郎は何か言いたげな視線を寄こす。だがすぐに逸らした。視線が泳ぐ。
「私が誰とでもするって?」
「…………まあ、……うん」
頬が赤い。幸四郎は担いでいた地図を下ろして、ラックに収めた。日直の仕事だろう。
「誰から聞いたの?」
「いや……。誰、……って、わけじゃないけどさ……」
「そう」
その噂は間違いだ。
涼子のしている事を正しく言うならば、彼女のいる男子を涼子は誘う、だ。
フリーの男子は色褪せて見える。だから、噂を聞きつけて涼子に言い寄る男は全部、跳ね除ける事にしている。
しかし力で押し切られれば抗えない。その時は大人しく身を任せる。身から出た錆だとも思うので、まあ良いか、で済ませている。
「……あの、さあ……」
視線をあちこちに泳がせながら、言いにくそうに幸四郎が口を開く。
「何?」
幸四郎は逡巡していたが、やがて涼子に視線を据え、はっきりした声で言った。
「こういうの、やめた方が良いと思うよ」
やけにその声が大きく響いた。
吹奏楽部が練習している音が聞こえる。グラウンドからは、野球部やサッカー部の声が聞こえた。
資料室の前を、女生徒が笑い声と共に駆け抜けていった。
涼子は幸四郎を見上げる。
「その、……藤沢さんの為にならないと思うし……」
涼子の視線にたじろいだのか、幸四郎の声が僅かに揺れた。だが真摯な視線は逸れない。
「どうして?」
「ど、どうして……って……。そりゃ、……将来ほんとに好きな人できた時とか、後悔すると、思うし……」
幸四郎が赤い頬を掻いた。彼の指には絆創膏が巻かれていた。
「指」
「へ?」
「怪我してる」
「え……。ああ、昨日切っちゃって」
「可愛い柄ね」
絆創膏には猫のキャラクターがプリントされていた。
「ぅあ、や、俺のじゃないから」
幸四郎は指、というか手を背に隠した。
「貰ったの?」
「……まあ、うん」
「そう。彼女?」
「…………うん」
幸四郎の顔に笑みが広がる。はにかんだその顔は、常より少し幼く見えた。
幸四郎はもじもじと背中で指をいじっている。はにかみ笑いを押し殺そうと唇を噛み、妙な表情になっていた。
スリッパの爪先は、忙しなくトントンと床を叩いている。三年間吐き潰したスリッパは汚れていて、マジックで書かれた名前が消えかかっていた。
その名前の隣にはアヒルの絵が描かれてあった。矢印があって、『幸四郎に似てる☆』と丸く可愛らしい字で書かれている。
確かにアヒルに似ているかもしれない。どこがと言われれば具体的に『ここ』と示せないが、何となく雰囲気が鳥類っぽい。
例えば、柔らかそうな髪だとか。尖らせた唇だとか。
幸四郎は絆創膏の巻かれた指で、鼻の下を擦った。
爪は短く切られている。指もそんなに長くない。男性にしては、小ぶりな掌だった。
指先は赤く色づいており、彼の体温の高さを感じさせた。
きっと彼はこの手で、彼女に優しく触れているのだろう。彼女の手を包みこむのだろう。
触れてみたいと思った。
彼に、触れられてみたいと思った。
「ねえ中池くん」
「何?」
「私とセックスしよっか」
「は!?」
「中池くんに興味が湧いたの」
幸四郎の額に汗が浮かぶ。涼子は幸四郎の側に歩み寄り、幸四郎の指に己の手を伸ばした。
だが手が触れる事は無かった。幸四郎は一歩、二歩後ずさり、はくはくと口を動かした。声は出ていない。
「……こういうの、やめろって!」
何とか搾り出したのであろう声は、怒りで掠れていた。
ガラリと勢い良く戸を開けて、幸四郎は走り去った。
跳ね返った戸がゆるゆると戻ってくる様を、涼子は眺めていた。
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次の日の事だ。
昼休みの後、涼子は筆箱に手紙が入っているのに気がついた。苺の形に折られた手紙を開く。
丸く可愛らしい字で、放課後地歴資料室、と書かれていた。
六時間目を終え、涼子は手紙に従って地歴資料室に向かった。
資料室には女生徒がいた。彼女は戸を閉める涼子を睨むようにじっと見据え、敵意丸出しの声で言った。
「どうも。中池幸四郎の彼女の、二組の小森富貴子です」
「どうも。一組の藤沢涼子です」
「知ってるよ。悪名はかねがねお聞きしております」
富貴子はむっすりと頬を膨らませた。
「何で幸四郎に手ぇ出すの?」
富貴子は腕を組み、イライラと床を踏み鳴らした。
「困るんだけど。藤沢さんおっぱいおっきいし顔も綺麗だし頭良いし、私勝ち目ないじゃん。つか、いくらでも他に男子いるじゃん。何で幸四郎に手ぇ出すの」
「中池くんに聞いたの?」
「聞いてない。だから余計むかつくの。昨日幸四郎がここから慌てて出てくるの友達が見てて、ここは藤沢さんがいっつもラブホ代わりにしてるって知ってるから、……何か纏まってないけどそういう事! やったの!?」
富貴子は詰め寄り、眉間に皺を寄せて涼子を睨んだ。幾分か涼子よりも小柄な富貴子を見つめ、涼子は苦笑する。
「してない。それに、これから先いくら私が誘っても、中池くんは私に手を出さない」
「……何でそう思うの」
「彼はあなたが好きだから」
それは涼子の願望でもあった。彼に触れたい、触れられたい、好かれたいと思う。だが同時に、彼に好かれたくないとも思っていた。
彼には、富貴子を好きなままでいてほしかった。
涼子は長机の埃を手で払い、腰を下ろした。
こちらをじっと見ていた富貴子は、やがて視線を緩めて涼子の隣に腰を落ち着けた。
「何で、藤沢さんこんな事してんの」
「こんな事って?」
「彼女持ちばっか食ってるってよく聞くけど。隣の花は赤い状態なの?」
富貴子はぷらぷらと足を前後に揺らした。
涼子はただ曖昧な笑みを返した。
幸四郎もそうだが、恋人の事を考えている男性はとても優しい顔をする。
涼子はその顔が好きだった。
それに、恋人に触れる時の男性は、とても優しい手つきをしている。
涼子はその手が好きだった。
その優しさが好きだった。
きっと、自分にもその優しさを向けてくれるに違いないと思ってしまう。
だからいつも、恋人を持つ男性を好きだと感じてしまう。
悪癖だ。
「こういうの、やめたほうが良いと思うよ」
富貴子は、涼子の顔を覗き込むようにして言った。
「しんどくない? 女子には恨まれるし、男子も良いように藤沢さん利用するだろうし。上手い事本命になれたとしてもさあ、何か禍根とか残りそう」
「本命には、別になりたくないから平気」
「変なの」
富貴子はふいと視線を逸らし、また足をぷらぷらさせた。
富貴子の指には絆創膏が巻いてあった。幸四郎の指に巻かれていた絆創膏と同じ物だ。
「指、怪我してる」
「うん。カッターでやっちゃった」
「平気なの?」
「ありがと、平気」
富貴子はぺちぺちと指を叩いた。涼子は微笑んで頷いた。
涼子は富貴子の素直さを好ましく思った。良くも悪くも、彼女は素直で率直だ。裏表が無い。
きっと幸四郎も、こういったところを好いているのだろうと思った。
そして幸四郎はその好意を、涼子に向ける事はない。
確信めいた願望に、涼子は安心していた。
恋人と別れてから涼子に好意を向けられると、涼子は疎ましく感じてしまう。
どうしてこんなに簡単に靡くのだ、彼女への恋情は嘘だったのか、と苛立ちすら感じる。
誘ったのは自分だ。欲しいと思ったから手を伸ばした。だが、自分の手の届く範囲に来ると、いらないと思う。
そして気付く。自分は、彼女を好いているこの男が好きだったんだと。
だから、別れずにずっと彼女を好いている人ほど、涼子は好きという気持ちが募ってしまう。彼女に向けている好意を、自分にも向けてほしいと思う。
だから誘う。その好意が欲しい。自分も好いてほしい。彼女を見るような優しい目で、涼子の事も見てほしい。
だが実際に好かれると、腹が立つ。そんなころころと変わるような好意、欲しくない。
勝手な言い草だと分かっている。だが本心だ。
自分を好いてほしい。好いてほしくない。
二つの思いが、ぐるぐると渦巻き続ける。
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結局、それ以降卒業式まで二人とは言葉を交わさなかった。
涼子は遠巻きに二人を眺めていた。幸四郎の手が富貴子に触れるたび、自分も同じようにしてほしいと思った。
幸四郎が優しく富貴子の名を呼ぶたび、自分の名も呼んでほしいと思った。
だが涼子は誘わなかった。自意識過剰だとは思うが、もしも幸四郎が自分を好いてしまったら、と思うと嫌な気持ちになった。
きっとそうなれば、結局この男もそうか、と自分は失望する。それに、富貴子が怒るだろうし、泣くかもしれない。
それは嫌だった。彼を好きなままでいたかったし、富貴子に厭われるのも嫌だと思った。
それに誘って、嫌われたら嫌だ、と思いもした。
初めての感情だった。
涼子は困惑した。
こんなのやめろ、と涼子を怒鳴りつけた幸四郎を思い出すたび、その感情が湧き上がった。
怒られたのは初めてだったのだ。だから新鮮に思ったし、嬉しくも感じたのだ。
涼子は卒業式までは誰とも関係を持たずにいた。
幸四郎を好いていたから、というが一つ目の理由だ。他の男子に興味を惹かれなかった。
それから、幸四郎に嫌われたくない、というのが二つ目の理由だ。だから、幸四郎の言葉に従って誰とも関係を持たず過ごしてきた。
卒業式が終わって、涼子はメールで呼び出された。
知らないアドレスだった。いや、以前は知っていたアドレスなのかもしれない。涼子には判別がつかなかった。人のアドレスは覚えていないし、関係を終えた相手のアドレスは電話帳から消してしまうからだ。
いつもの地歴資料室に向かえば、男子生徒が三名いた。以前涼子が好いた相手だった。
「何?」
涼子が首を傾げれば、男子生徒たちは皆一様ににやにやと笑い、顔を見合わせた。
その中の一人が涼子のスカーフを解いた。一人はドアの側に腰を下ろした。もう一人はベルトのバックルを外した。
そういう事か、と涼子は息を吐いた。
「今日で最後だしさ」
「お前さ、越県して一人暮らしすんだろ?」
「藤沢がOLとか、何かエロいよなあ」
男がズボンを下ろす。
不愉快だった。手っ取り早く終わらせたいと思ったので、涼子は自ら制服を脱いだ。三人はヒュウ、と口笛を鳴らす。
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乱れた制服をぼんやりと整えながら、涼子は窓から差し込む夕日を浴びていた。もうこんな時間か、と思った。
三人が何か言った。興味が無かったので、何と言ったのか分からなかった。
だが特に大事なことでもなかったのだろう。涼子が反応を返さずとも三人は気にした様子ではなく、さっさと資料室を後にした。
涼子はスカーフを整えながら、その背を見送った。自分でも驚くほどに、何の感情も浮かばなかった。
しばらくぼんやりとしていた。疲れていた。
資料室の隅に転がった荷物に視線を送る。体中あちこちが痛んだ。
どれくらいぼうっとしていただろう。ふと、こちらに走り寄ってくる足音を鼓膜が捉えた。
ガラリと勢いよく戸が開く。
戸口に手をかけ、幸四郎は荒い呼吸を繰り返していた。
「……どうしたの」
呆気にとられた涼子の口から、小さな声が漏れた。
「……メール、来て……」
幸四郎の喉がぜえぜえと音を立てていた。汗が滴り落ちる。
幸四郎に携帯電話を手渡される。開かれたメール画面には『お前も藤沢に誘われてた口だろ? 卒業式に一発楽しもうぜ(笑)』と有った。
幸四郎の背後から、富貴子が顔を覗かせた。彼女もまた、同じように息が切れていた。
「……自業自得!」
そう叫んだ富貴子の目から、涙が零れ落ちた。
「うん。そうだね」
「そうだねじゃないよ! 何でそんな落ち着いてんの!」
「二人ともありがとう」
二人がきょとんと目を見開く。
「来てくれて嬉しい」
涼子は立ち上がった。富貴子が床に転がった涼子の荷物を取ってくれた。
「……だから、やめろって言っただろ」
幸四郎が奥歯を噛んで、眉を寄せる。
こんな顔は初めて見た。この顔を自分がさせているのだと思えば、少しばかり嬉しいような気もした。
喉まで声がせり上がった。好きだと形作ろうとする声を、涼子は唾と共に飲み下した。
「……二人とも、ありがとう」
もう一度、同じ言葉を口にした。夕日に照らされた二人の横顔を、涼子は綺麗だと思った。
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後にも先にも、三人帰途を共にしたのはあれが最後だ。
最寄りの駅まで何を話したかは覚えていない。きっとどうでも良いような、とりとめのない話だったように思う。
二人と会わなくなって、距離が遠ざかって、記憶から二人が薄れていって、涼子はまた誰かを恋しく思った。
やはり、恋人のいる男性だった。
やはり好かれたいと思ったし、好かれたくないと思った。
『こういうの、やめたほうが良いと思うよ』
その度にそう言った幸四郎の声や、富貴子の声が耳に蘇る。
だがその声も、年々小さくなって聞こえなくなっていった。
腫れた頬が痛む。ちゃんと冷やしておかなければひどい事になるだろう。
涼子は空き缶を机に置いて、代わりに葉書を手に取った。
写真の中の二人は、幸せそうに笑っている。
かつて絆創膏が巻かれていた指には、銀の指輪が輝いている。あの時の涼子が、ひたすらに触れたかった指だ。
この先も会う事はないだろう。だが、もしも会ったならば、その時にはまたもう一度礼を言いたい。
言えなかった好きの二文字は、その時も言わないままで良い。