ただ、君の幸せを願う
日本平松町の
「もしかしたら、願いが叶うのかもしれないねえ」 「もしかしたら、願いが叶うのかもしれないねえ」
暢気な口調だが、春太郎の顔色はやけに青白かった。月の光に照らされているからだろうか。そうだったらいい。
一抹の不安を覚え、
やけに青い月だ。冷たい色だ。夏の月をこんなに冷たく思ったことはない。
「やっぱり、鄙はいいねえ。とても静かだろう」
ここは小梅村にある喜久野屋の寮だった。曳舟川の土手沿いに建っている。川の向こうには広い畑が広がりまばらに家や木々。たしかに日本橋のあたりでは考えられない光景だ。
「おれぁやだね。静かすぎて、しみったれた気がすらぁ」
少し恐い。この静けさが手を伸ばしてきて、目の前にいる兄・春太郎を連れていってしまいそうで、恐い。もうすぐ二十にもなる春也が、そんなこと口が裂けても言えないが、なにとなく恐いのだ。
「ふふ、春也は恐がりだからねえ、お前には淋しい場所過ぎるかしら。だから品川の方にいるのかい」
「へっ、うるせぇやい」
口答えしてみたが、やっぱり兄には敵わないと苦い笑みが浮かぶ。春也は日本橋の喜久野屋を出、東海道最初の宿場である品川に住んでいる。日本橋から二里(約八キロ)あまり、ぴんきりはあるが旅籠屋も飯盛り女もたくさんいる栄えた宿場だ。
「品川か、日本橋のまわりとはまた違った賑やかさだろう。あたしも行ってみたいねえ」
「来なよ。日帰りじゃきついっていうなら、泊まるとこなんか山ほどあんだからさ。おれが住んでいるのは橋向こうだから小見世ばっかりだけど、喜久野屋の若旦那なら
品川宿は歩行・北・南に分かれていて、一番は歩行新宿で大見世もある。南本宿には小さい娼家や飯屋が立ち並びがちゃがちゃしているから、春太郎には合わないかもしれない。
そうだねえ、といつものおっとりした言葉を返してくれると思っていた。
「無理かもねえ」
「えっ」
青い月に照らされた春太郎の口元に、うすい笑みが浮かぶ。
「あたしだって、ねえ、死にたいわけじゃないんだ」
「兄さん、なにを」
春也の声が耳に入っていないのか、答えずに続ける。
「でも、願いをかなえるには、これが一番楽な術なのかもしれないよね。春也には本当に悪いけどさ」
聞きたくない。
「ねえ、春也」
こっちを見ているのに、兄が遠くへ行っている、気がする。
「誰かがあたしが消えるように願ったって、あたしは全く怒りも悲しみもしないよ」
「そんなこと、だれが」
言いながら、ちらりと二人の顔が浮かんだ。でも、まさか、そんな奴らじゃない。
春也の思いを感じたのか、かすかに春太郎がうなずく。春太郎は人の心を読むのが上手い。なんでも知っているんじゃないか、と思うくらいに。
「そうだね、もちろん、そんなこたぁないだろう。でもね、あたしはひとり知っているから」
春太郎が口にした名は、あまりにも悲しかった。
「あたしはねえ、ただ――」
たかが夏風邪をひいただけで何をそんなに気弱になっているのかと笑い飛ばせば良かった。それができずに、春太郎から目を逸らした。
青い月に照らされた春太郎は、ほほ笑んでいた。
日本橋平松町・喜久野屋をお城の方に向かうとすぐに日本橋南通にぶつかる。そこを北に行けば、すぐに日本橋だ。色々な奴らが行きかっている。着飾った女に魚を担ぐ男、隠居風の爺さん、冷や水売りや甘酒売り、そして春也のような者も。
春也は自分でも意識せず、胸に入れた財布を触っていた。一年前なら平気で歩けた繁華だが今は何となく落ち着かない。店の者にも用心するように言われている。触れた着物のさわり心地には未だに慣れない。いや、幼いころは喜久野屋で暮らしていたのだから思いだせないというべきか。
全体に黒っぽくて地味だが、見えないところに南蛮渡来のなにやらが使われているらしい。この服を着ていればなんとなくは若旦那に見えるだろうか。春太郎はどうみても良い店の若旦那にしか見えなかったが、春也はあまり見えないかもしれない。
春太郎はぽっくりと逝き、春也が喜久野屋に戻った。早いものでもう一年の時が流れている。流れていなければ、ならない。
日本橋を人波にもまれながら渡れば、室町が一丁、二丁、三丁目。お城を左に見ている内、右に曲がってまた左。この一年、何度も通った道だ。
大伝馬町一丁目は今日も賑わっていた。
長屋の端に
清州屋のある長屋と次の長屋の間の、ほんの少しのすき間。人ひとり通るのがやっとの小路。喧騒に背を向けそこに足を踏み入れる。少し進めば、ぽっかりと切り取られたように四角い場所に出た。猫の額という例えがぴったりの広さに寂れた稲荷がある。
八方稲荷だ。八方塞の稲荷様。だから八方稲荷。
稲荷には先客がいた。
突然、由彦の顔がこちらを向いた。睨むような目をしている。
「やあ、由彦さん」
春也は努めて柔らかい笑みを浮かべる。春也の顔は世辞にも好いとは言い難く、どちらかといえば愛嬌のある顔をしている。しかし目つきだけが悪いと言われ続け、無理にでも優しい顔をしないと無闇に相手を恐がらせてしまうのだ。
まあ、由彦は春也を恐がったりはしないだろうが。
「春也か」
由彦が立ち上がる。
由彦の歳は二十二、春太郎よりひとつ下。三座の役者という程嫌みたらしくはないが、宮地芝居に出ていたっておかしくないくらいには好い男だ。色白の肌に切れ長の目では誰が見たってもてる。生来焼ける
「由彦さん、これ」
春也は懐から財布を取り出した。重い。それもそのはずで中には三両近くの金が入っている。
「お前もずいぶん大尽になったじゃないか」
馬鹿にしたように鼻を鳴らし、由彦は財布を受け取った。いつものことだが、礼もない。
「まあね。なんたってあたしは喜久野屋の若旦那だもの」
「酔狂な奴だ。俺をこんなところに閉じ込めて、何両も使うなんて」
浪人である由彦の仕事は、八方稲荷に明けから暮れまでいること。雇い主は春也だ。日がな一日、いつでも由彦はここにいて、石段に座り続けている。
春也はけらけら笑って見せた。
「なに、吉原あたりで一晩騒ぐに比べれば取るに足りない金ですよ」
「今日はやけに喋るな。いつもは金だけ渡してすぐ帰る奴が」
細めた目を向けてくる。それはそうだ。
「今日は由彦さんと話すつもりで来たんですよ」
へらっと蛸みたいな笑みを浮かべ、春也は由彦が立っている石段に腰を下ろした。
「上等な着物が汚れるぞ」
「いやあ、今日も暑いねえ。どうせなら冷や水でも買ってくれば良かったかな。それとも甘酒の方が良かったかしら」
聞こえないふりをすると、由彦はぶすっとした顔をしながら春也の隣に座った。
「ねえ、由彦さん。こんなことをあたしがさ、遊びでやっているって本気で思っているわけじゃないだろうね」
由彦は答えない。案外子どもっぽい男だから拗ねているのかもしれない。
「兄さんに頼まれているんですよ」
由彦に春太郎の話をするのも一年ぶりだ。一年も前から、何も動いていなかったものを少しだけ押した。
「俺の面倒を見てくれってか」
由彦の表情が大きく動く。皮肉そうな、嘲笑うような、笑みらしくない笑みを浮かべている。
「ああ、まあ、そんなものですかね」
「ふざけるな」
低く唸るように呟き、春也が立ち上がる。背も五尺七寸(約一七〇センチ)くらいあるから、見下ろされるとやけに迫力がある。ぞくっと背筋に寒気が走った。
春也に背を向け、由彦が大股で歩き始める。
「待てよ、おれぁ雇い主だぜ」
言いながら、やっぱり自分にはこっちの喋り方の方が合っているなあと、やけに暢気なことを思った。やはり兄弟は似るのか。
「もうこの仕事はやめさせてもらおう」
背を向けたまま由彦が言う。
「あんたは、和葉のとこに行けんのかよ」
由彦は立ち止まり、動かない。
「わかってんだろ、おれが、こんな馬鹿な真似をするわけをさっ」
どうして八方稲荷に由彦を閉じ込めるようなことをしたのか。こうでもしないと、金という口実でも付けないと、この男は絶対に和葉や春也の前から消えることがわかっていた。
由彦がふり返る。
春也を睨んでいるのか、それとも涙がこぼれそうになるのを堪えているのか。よくわからない。切れ長の目じりが微かに震えていた。
「会いにいくなんて、そんなことしちゃいけないんだ。もうお前にも会わないことにしよう。俺は消えるよ、元気でな」
口早に一気に言うと由彦は八方稲荷から大伝馬町一丁目へ続く小路を歩きはじめた。
消えるよ、と。
春也の体は勝手に動いていて、気づくと由彦を長屋の木壁に押し付けていた。傍から見たらすごい図だろう。二本差しを若旦那風情が脅しているのだから。
由彦を睨む。滑稽な顔つきの中で唯一、仲間はずれの目だ。春太郎にも言われたことがある。お前の瞳は氷の刃のようだから睨まれたら誰でも恐いね、と。
「つまり由彦さんは、和葉に会いに行くつもりはねぇんだな」
なるべく低い声を出した。由彦の表情は少しも変わらない。無表情だ。
「ああ」
春也の言葉は、春太郎の想いは少しもこの男に届いていないのかもしれない。
「わかった。でも明日だ、明日まではここにいてもらう。兄さんの最後の願いだと思ってくれ。そうしたらもういい、どこへでも行っちまえっ」
「そうか」
やはり静かに言うと、由彦は肩にかかった春也の手を払う。そのまま、大通りに姿を消した。
その後ろ姿を、春也は睨む。
「掴もうと思えば良いだけなのに、どうしてためらうんだよ」
悔しかった。それと少しだけ、羨ましい。
「おれぁ、もうやり方を選らばねぇぜ」
春太郎は由彦の友だった。由彦は幼い頃から小綺麗な顔をしていて、近所の子らもあまり近づかなかったらしい。そんななか春太郎だけは違ったそうだ。春也も詳しい話は知らないが、春太郎の性格だから恐いものもなにもなく、いつもの調子だったのだろうと思う。
喜久野屋という大店の跡取りである春太郎には元服を過ぎたころから縁談がちらほらあった。許嫁となったのは、大伝馬町一丁目の太物屋・清州屋の娘だ。名を和葉と言い、ふっくらした頬と澄んだ瞳が愛らしい娘だった。
ふたりの縁を取り持ったのは、祖父たち。どちらも早々に隠居を決め込み唄や三味線、句に将棋と趣味に余生を生きる者たちで、同じ新内節の師匠についていた。歳が近いこともあり、仲のよくなった祖父同士は自分らの孫を一緒にしようとしたのだ。
それが六年前のこと。春太郎は十七、和葉は十二だった。その間にふたりの祖父が亡くなり、暗黙のうちに断ることのできない話になっていた。
もうひとつこの間にあったことと言えば、由彦は和葉を、和葉は由彦を好きになったことだ。気持ちを伝えるようなことはお互いになかったが、由彦にはすぐにわかった。おそらく春太郎も、いや春太郎の方が先に気づいていたはずだ。
春也は三人の様子を傍から眺めていたが、由彦は身を引いて先の笑い話にでもなるだろうと思っていたのだ。きっと春太郎が生きていたら、そうなっただろう。
でも春太郎が死んでしまった。
春太郎が死んでから少し経って、妙な噂が流れる。
誰かがね、春太郎を呪い殺したんだって。
誰も彼もみんな呪いや迷信を信じているわけじゃない。でも、春太郎の死を願った奴の話は信じた、というか面白おかしく話したし食いついた。だって、実際にいるんだから。
和葉と由彦だ。恋仲のふたりは春太郎のことが邪魔で、ちょっとした風邪で臥せった春太郎に死にますようにと呪ったというのだ。
下らない話しだ。何も知らない奴らの言い分だ。心ない言葉はそれでも、だからこそ、和葉や由彦のことを傷つけた。
和葉は春太郎の死からしばらくして、清州屋の自分の部屋から出てこなくなった。家の者にもほとんどその姿を見せない。固く閉じた襖が何日も開かないときは生きているのか死んでいるのかさえわからないから、親は襖に耳をぴったりと付けすすり泣く声を聞いて少し安心するという塩梅らしい。太物屋の中では大店と言っていい清州屋の主人や女将がそんなことをしているのだ。
一方、由彦の方もずっと止まったままだ。一年の間、ずっと八方稲荷の同じ場所に座り続けている。見上げれば清州屋の、和葉の部屋の明かり取りが見える、その場所から。
二人が動かないというなら、春也はもう手段を選ばない。春太郎の最後の願いを叶えるためなら、なんだってする。
「素直にならねぇてめぇが悪ぃんだ」
由彦が消えた八方稲荷で春也は独り呟いた。
大通りに出ると、春也は喜久野屋へ帰らず別の道を急いだ。
暮れていく空は、不気味な色をしていた。
見ようによっては薄紫にも紅にも濃い灰色にも見える。風もなく夕方になっても暑さは衰えず、じっとりと蒸し暑い。夕立でもくるのだろうか。
そろそろ帰ろう。由彦は立ち上がった。四方を囲まれた八方稲荷は一足先にうす暗くなっていた。春也に今日までと言われたから何かあるのかと思えば、何もなく終わろうとしている。
ここに来るのも、これで最後だ。どこか遠くへ行って、ひっそりと生きよう。和葉のことを忘れるのだ。
和葉のことを考えているうち、自然と和葉のいる方を見上げている己に気づき自嘲した。
本当なら自分はここにいることさえ許されないはずなのに。過ちがあるのに。
春也にこの仕事とも言えない仕事を頼まれたとき、きちんと断っておくべきだったのだ。だらだらと引きずって、もうずいぶん経つ。もうすぐ、春太郎の命日。八方稲荷から動けないのは全て、和葉への未練からくるものか。
和葉のことが好きだ。
数度しか会ったことがない娘に、どうしようもなく惹かれた。この想いを責めても仕方のないことだとわかっている。この想いに間違いはない。
でも由彦は過ちを犯したのだ。
和葉のことが好きだ、と、春太郎に伝えた。ちょうど春太郎が死ぬ一月ほど前のことだ。春太郎と和葉の仲は周知されていて、変えようのないものだったのに、どうしようもなく苦しくなって、伝えてしまった。
ふたりの仲を裂きたかったわけではない。和葉のことが欲しかったわけではない。ただ、和葉を幸せにしてほしかった。無二の友である春太郎には、その想いをわかっていて欲しかっただけだ。
言うべきではなかった。
春太郎なら言わなくとも幸せにしてくれるとわかっていたのに。
由彦の話を聞き終えたとき、春太郎は「うん」とうなずいた。全てわかっているような調子だった。全てわかっていたのかもしれない。そのあとすぐに「ごめんね」と小さい子のように素直に謝った。
春太郎は薄く笑みを湛えていた。けれど、その笑みはいつもと違うものだった。普段の春日向を思わせるものではなく、春雨のような少し心を掻きたてる笑みだった。
この後、春太郎は風邪をこじらせ、見舞いに行く間もなく死んだ。和葉も表に出てこなくなった。春也も一度出た家に引き戻された。
由彦は思っている。春太郎は自ら毒を飲んだのはないかと。そうでなければ虚弱とは言え、春太郎が死ぬわけがない。
すべて由彦のせいなのだ。
ぼたっと落ちてきた雨粒が、春也を物思いから引き戻した。ふと目線を前にやると男がふたり立っていた。
「あんた、月野由彦さんだな」
ふたりとも大柄で、姿に見合う低い声だ。まさかそれにつられたわけでもないだろうが、鈍い音の雷が鳴り始めたかと思う間に、盆を返したような雨が降り始めた。夕立だ。着物が濡れていく。
由彦はわずかに口の端を上げた。
「そうか、春也か」
わざわざこんな所にいて、由彦の名前を知っているということはそうだろう。
「あれは俺を憎んでいるんだろうから」
春也は商売が嫌いで家を飛び出し、半ば縁が切れていた。春也が唯一懐いていたのは春太郎で、それを奪ったのは由彦だ。
「場所を変えないか、逃げやしない」
ここで死んでいたら、和葉や春也に迷惑がかかる。死体を運び出すのだって、目立つだろう。
雨音にかき消されたのか、男たちは答えない。じりじりと間合いを詰めてくる。由彦は腰の刀に手をやった。男たちの動きが止まり、じっとこちらを睨んでいる。
「安心しろ。俺はこんなもの、使えないんだ」
口を開けば口の中に雨が入ってくる。
由彦は笑ってしまうくらい剣術は不得手だ。道場に通ったこともあるが、上達しなかった。形ばかりの大小を鞘ごと抜き、古びた鳥居に立てかける。父親から譲り受けた刀だ。自分勝手に傷つけるわけにはいかない。
目に雨が入り思わず目をつぶったのと同時、頬を思い切り殴られていた。みし、と軋む音がした。
「っ」
吹っ飛んで、背からぬかるみに倒れる。
「ぐ、げっ」
今度は鳩尾。腹が熱い。こみ上げてきて、堪え切れずに吐く。胃の中にあったものと血の味が混じる。嫌な味だ。
二発の後はこない。ふらつく足になんとか力を込め立ち上がる。
息が整わない。息をするたび痛みが増していく。苦しくなって咳込むと血が出た。地面に落ちると雨に紛れてわからなくなった。
「しゅん、や」
顔を上げたら、春也が立っている。近くにいるだろうとは思っていたが、手に包丁を持っているのには少し驚いた。手ずから由彦を殺めようとしているのか。男たちは春也の後ろでじっと春也を見つめている。
「由彦さんよう」
きっとこんなことを言ったのだろう。雨は自分の音だけ聞けばいいと言わんばかりだ。他は何も聞こえない。
痛いくらいの雨もよくわからなくなってきた。暗くなってきているのは単に時刻なのか、目が見えなくなってきているのか。
「由彦さんはっ、兄さんが死んだのはてめぇのせいだって思ってんのかよっ」
それは、それは大きい声だった。雨音にも雷鳴にも負けない、大通りにも届くんじゃないかというくらい。
突きつけられると、たまらなく苦しくなった。涙が目尻に溢れ、一気に流れた。
うなずき、地面に崩れ落ちる。嗚咽が溢れ、息ができない。
「そうかよ」
由彦の声は近くに聞こえた。手にした包丁でも振り上げているのか。
「殺してくれて、構わない」
それで春也の気がすむなら、和葉の前から消えられるなら、自分なんかどうでも良い。
一瞬の間。ざ、と何か大きなものに連れ去られたように雨が止む。夕立なんてこんなものだ。
「春也さんっ、まって、くださいっ」
か細い震えた声。少し聞き覚えのある声。
「かず、は」
ずいぶん変わってしまった。青白い肌色にこけた頬、そのせいで眼ばかりが大きくて、髪もぼさぼさ。でも、和葉だ。
「由彦さんは、悪く、ないんです」
喋るのさえ辛そうな和葉は、ふらつく足取りで鳥居の方に歩いてくる。
「あっ」
「和葉っ」
よろめいて泥の中に突っ込む。そのまま起き上がらない。肩が微かに震えはじめる。
「わたしが、悪いんです」
小さな声。
「そんなことない」
由彦の言葉に大きくかぶりを振る。
「わたし、だって、花火を見た日に」
「花火って」
隅田川の花火のことか。春也の顔を見上げたが、同じように怪訝な顔をしている。
「一年くらい前、もうすぐ婚儀の準備が始まるころです。春太郎さんが屋根船を用意してくだすって、花火を見ようって」
聞き取りにくい声でここまで話すと、和葉の嗚咽が大きくなる。
「わたし、わたし、春太郎さんじゃなくって由彦さんのことばかり思っていたんです。一緒にいるのが由彦さんならって、そしたら、春太郎さんが」
「兄さんはなんて言ったんだ」
和葉が現れてから初めて春也が口を開く。気の強そうな瞳が、なんだか泣きそうに見えた。
「『和葉ちゃんは、あたしといるのが幸せではないんだろうねえ』って。わたし、なにも言えなくなっちゃって」
「そんなこと、なかったんだ」
春太郎なら、和葉のことを幸せにしてくれた。
「でも、言えなかったんです。そのあと、春太郎さんは、すぐに。わたしがあんなこと思っちゃったから、だから、だからっ」
わんわんと泣きだした。思っただけで人が死ぬはずがない。わかっているのに由彦はなにも言えない。
由彦もちらりと思ってしまったことがあるかもしれないから。春太郎に任せるなどと口では言いながら、その実、いなければと思ったことがあったかもしれない。まさか死んでほしかったわけではない。いなければならない人だとわかっていた。
それなのに、恋心の前に、少しだけ意地の悪さが顔を出す。
本当にいなくなってしまうと、それが堪えられなくなる。自分が殺したみたいに思って、申しわけなくて苦しくて。動けないのだ。
「けっ、くだらねぇっ」
突然おおきな声を出した春也に和葉の肩がびくりと震える。由彦も驚いた。
「あんたもだ、由彦さん」
由彦を睨み、春也は続ける。
「いいか、この中じゃたぶん、おれが最後に兄さんに会ったはずだ。だから教えてやるがな、兄さんはふたりに幸せになってほしいって言ったんだ。たぶん、あんたらの気持ちも知ってたんだろうさ」
和葉が顔を上げた。ぎょろりとした目を見開き春也を見ている。
「春太郎は、毒を飲んだのか」
由彦はずっと思っていたことを聞いた。身を引こうとしたのではないか。春太郎にはそういう雰囲気があった。いるのに、消えてしまいそうな。
「馬鹿言ってんじゃねぇっ、兄さんを馬鹿にすんなっ」
必死の目で春也が訴える。
「兄さんは誰に邪魔にされたって、恨みもしねぇし自害もしねぇ。たとえどう思われていたって、ふたりが幸せだといいなって、言ったんだよっ」
まくしたてるとひとつ舌打ちをし、石段に腰を落とした。組み締めた両手は震えている。
春太郎は由彦と和葉、ふたりの幸せを願っていたと言った。
「和葉」
呼ぶ。しばらく間をおいて、返事。
「はい」
「俺はお前のことが好きだ」
辺りはすっかり暗くなっていて、暗さに慣れた目でも辛うじて人の気配を感じられるくらいだ。和葉の顔は見えない。嬉しいのか困っているのか。
「お前は、どうだ」
「すき、です」
「そうか」
好いた娘に好かれるのは嬉しいものだ。
由彦は軽く息を吸う。
「春太郎のことはどう思っている」
この答えにも和葉は長い時間を要した。
「兄のような人です。そういう意味では大好きです」
思わずえみが浮かんだ。心の底から笑ったのは久しぶりだが、口の中を切っているので痛んだ。
和葉にも笑っていてほしい。
「じゃあ、これきりだな」
数拍の間。
「はい、さようならです」
きっぱりとした口調だった。
衣擦れの音。姿は見えないが、立ち上がって八方稲荷を出ていくのだろう。
「和葉」
「なんですか」
「笑っているか」
「はい、笑っています」
足音とともに聞こえる和葉の声はだんだんと小さくなっていった。最後の言葉は湿っぽい声をしていたが、嘘ではないと信じよう。
「和葉の幸せを願ってる」
心の底から。一年もの間、自分を責めるのに必死で忘れていた想いだった。
和葉からの返事はなかった。それで良いと思う。
「おい、由彦さん」
和葉が消えた後、春也が不満げな声を上げた。きっと不満げな顔もしているのだろう。
「春也、お前嘘をついているだろう」
気にせずに聞く。ひゅっと息を吸う音が聞こえた。
「なんでわかったんだよ」
ぼそっと舌打ちみたいに言う。思わず、ふ、と笑ってしまう。
「お前も友だからなあ」
友だから何でもわかるというわけではない。実は春也は、嘘をつくと知らないうちに握り合わせた手が震えるのだ。春也自身が気づいていないのが微笑ましい。根は素直な男なのだろう。
だから春也は、春太郎の最後の言葉を少し変えている。
「本当は、最後に会ったとき他にも何か言ったんじゃないのか」
聞くが、しばらく返事はなかった。照れているのか、兄へ想いをめぐらしているのか。春也が口を開くまでに、少しの時を要した。
「たしかに兄さんは、自分が消えれば丸く収まるって思っていた節もあるし、実際それを願っているとも抜かしたさ。でも、だからって、兄さんは自害なんてしねぇんだよ、絶対に」
春也は泣いているのかもしれない。人前で泣くような奴ではないが、暗闇だからと自分を許して。
「ああ、そうだな」
由彦は長い息を吐いて、空を見つめた。夜空はすっかり晴れて、きらきらと星が瞬いている。夕立のせいでむしむしとするが、空を見上げれば心地良かった。
「そういえば、さっきの男たちはどうした」
「帰ったよ、とっくに。仕事だ」
「喜久野屋の若旦那の知り合いとは思えないな。金で雇ったのか」
なにとなく見当はついていたが、からかうつもりで聞いた。
「違ぇよ。杉戸の
「ああ、なるほど。杉戸の」
「わかって聞いてんじゃねえよ」
杉戸とは品川の妓楼のことだ。春也の前の住処である南本宿には安い見世が多く、見世を入ったところの杉の戸に幾人か女が客待ちをしているそうだ。そこから、そのうち品川の妓楼すべてを杉戸と呼ぶようになったらしい。
「ったく、あんたと和葉がくっつかねぇでどうすんだよ」
春也の口から深いため息が漏れる。
「あれで、良かったんだ」
和葉と一緒になることはできるかもしれない。でもその上で幸せになるには、春太郎のことを忘れなければならない。春太郎のことを覚え続けながら幸せになれるほど、由彦も和葉も器用ではないのだ。器用じゃなくて良い。
「兄さんは、幸せになってくれって言ったんだぜ」
春也はまだ不満があるようだ。
「それぞれ幸せになるさ、和葉も俺も」
春太郎のせいで別々の道を行くわけではない。むしろ、春太郎のおかげで互いの気持ちを知ることもできたし、前を向いて進んでいける。和葉の幸せを願える。
「さて、もう八方稲荷はもう終わりだ」
由彦は鳥居に立てた刀を取ると勢いよく立ちあがった。鳩尾にするどい痛みが走りふらついた体を春也が支えてくれた。
「あれしきで、本当に貧弱だねえ。喜久野屋においでよ。手当くらいしてあげるから」
春也は話し方を若旦那のそれに戻した。
「お前には本当に世話になった」
「ええ、感謝してくださいね」
「お前も動き出せそうか」
春也は答えない。由彦を支えたまま歩きはじめるから従った。
八方稲荷にくることももうない。あの石段に座って、和葉を想い上を見上げることもない。これから先は、遠くで幸せを願おう。
小路を抜けると、夜空はずっと広かった。
「
「ああ」
伊勢町に面した伊勢町堀にかかる道浄橋をわたり、中ノ橋、
この一年、いつも同じことを繰り返していた。せっかくなのだから違う道も良いだろう。
「途中で一杯やっていくか」
「はは、その顔でですか」
「これでも春也よりは好い顔だろ」
「はっ、ひでぇや」
軽口を叩きながら、清州屋に背を向け、歩く、歩く。
心地良いからもう一度見上げた空には、少し青味を帯びた月が浮かんでいた。八方稲荷からは周りの壁にはばまれて見えなかった。
珍しい色だ。
どこか優しい、月色だ。