闇群れに蛇
月は見えない。星の姿も見当たらない。真黒な空を覆う雲は重く凝り、ほんの僅かにも流れはしない。
よどんだ夜に、肉を食む音が響く。にちゃにちゃと汚らしく響くそれは、やがて骨を貪る硬いものへと変わった。嫌悪感を催すその音が、近づくにつれ大きく鼓膜を震わせる。
蛾を纏わせた街灯の明かりの下、セーラー服姿の少女がうずくまっていた。周囲に立ち込める夜は濃く、ただ少女の姿だけがぽかりと明かりの下に浮かんで見える。
少女は地面に落ちた己の影に、口づけを落とすように頭を垂れている。長い黒髪が血の海にたゆたう様は、海藻が波と戯れる様とよく似ていた。
アスファルトに広がる血が、じわりじわりとこちらの足下に流れてくる。革靴を汚す血を気にもせず歩を進めれば、ぱしゃんと血が跳ね、黒の学生服の裾を汚した。
少女がゆっくりと首をもたげる。毛先から血を滴らせながら、少女がこちらを振り仰いだ。
十四か、五か。己とさほど年の差は無いように見えた。赤く染まった顔面は醜くあったが、容姿そのものは愛らしいと言って良い。大きな目が、人工的な明かりの下で三日月の形に細められる。
「
髪も顔も口も歯も血で汚しながら、少女が名を呼ぶ。少女は血腥い顔に笑みを広げ、のろのろと立ち上がった。スカートの裾から垂れた血が白い脚を伝い、紺の靴下へと吸い込まれていく。
「お返事してよぉ。アタシ、無視は嫌いよぉ」
まるで抱擁をせがむように細い両腕を広げ、少女はよたよたと蛇骨の元へと歩み寄る。こちらに向かうに伴い、あたりを汚す血の臭いが濃くなるようだ。不浄なその姿に視線を据えたまま、蛇骨は刀袋から刀を取り出した。
二尺五寸の打刀だ。袋を投げ捨て、黒塗りの鞘から乱刃を抜き放つ。袋と同じく鞘も地面に捨てやれば、カランと高い音がした。
「蛇骨ちゃん」
笑み声で少女が呼ばう。
「――遊びましょ」
口まわりをべったりと汚す血をなめずって、歌うように少女が言った。
蛇骨は地面を蹴り、距離を詰めた。刃を横様に薙ぐ。少女は軽やかに跳ねて斬撃を躱し、街灯の上にぴょんと乗った。
「あは、蛇骨ちゃん速ぁい」
街灯の上で少女はきゃらきゃらと笑い、スカートをゆっくりとめくりあげる。
「ね、興奮しちゃう? 蛇骨ちゃんはおぱんつ好きぃ?」
もじもじと脚をくねつかせながら、少女は腹の上までスカートをめくりあげた。少女が身につけた白い下着までもが、血を吸って赤く色を変えている。
「やだぁ、蛇骨ちゃんたら相変わらずの鉄面皮ぃ。ちょっとは照れたりしてくれても良いじゃなぁい」
反応を示さない蛇骨に、少女はつまらなさそうに唇を尖らせた。汚れた下着に手をかける。
「じゃあ、こういうのはどうかしらぁ」
するりと下着を脱ぎ捨てて、少女は見せつけるようにもう一度スカートをめくった。街灯に腰をおろし、脚を大きく広げる。足首に引っかかっていた下着をぽんと投げ捨てて、少女は自身の手で肉びらを広げてみせた。
「どう? これなら興奮しちゃわなぁい?」
未熟な性器を外気に晒し、少女は蕩けた瞳で笑う。頭の上にひらりと落ちてきた下着に嘆息し、蛇骨はひとつ舌を打った。
「あいかわらずの下衆だな、お前は」
頭に乗った濡れた下着を首を振って落とし、蛇骨は少女を睨みつける。
「あぁん、イイわぁ蛇骨ちゃん、その目、その声。アタシを見下してるのねぇ? 素敵よぉ、ゾクゾクしちゃううぅ」
性器に細い指を滑らせて、少女はぶるりと身を震わせた。
蛇骨は壁を蹴り、少女が座る街灯まで跳んだ。少女はくるんと後ろ向きに倒れ、そのまま地面に着地する。
それを追い、蛇骨は少女の脳天をめがけて突きを繰り出した。少女は蛇骨の突きを避け、両の手を顔の前に掲げてみせる。
ぬ、と少女の爪が伸びた。蛇骨の打刀ほどに伸びたその爪で、少女は蛇骨の喉元を鋭く突いた。ちょうど地面に降り立ったところであった蛇骨は身を反らし、少女の突きから逃れる。そのまま流れるように逆さまに地面に手をつき、後転の勢いに任せて少女の腕を蹴り上げた。
蛇骨の蹴りに腕を弾かれ、少女の胸部が剥き出しとなる。胸元を目がけ蛇骨が突きを放つも躱され、切っ先はセーラー服の胸元を裂くばかりだ。
「あん、蛇骨ちゃんはおっぱいが見たかったのぉ?」
「黙れ」
少女は自らの爪で下着を裂き、胸を晒して見せた。細い肢体を揺らし、豊かな胸をゆさゆさと揺さぶる。
踏み込み、斬り上げる。爪で受け止められた。弾き、真一文字に薙ぐ。少女の爪がニ本斬り落とされるも、すぐさまに爪はにゅうと伸び、蛇骨の眼前に迫った。
蛇骨は首を捻って爪を避け、上段から刀を振り下ろす。切っ先が少女の頬を裂いた。
「いたぁい、アタシ痛いのは好きじゃないのにぃ」
少女は後ろに跳んで蛇骨から距離を取り、頬を押さえる。
「痛い目見させる方が、好きなのよぉ」
ニタリと、裂けるほどに大きく少女は笑んだ。
一足飛びに距離を詰め、少女は爪で蛇骨の喉を裂いた。ぱっと血が咲き、少女は大きな目を爛と輝かせる。
「痛い? 蛇骨ちゃん、痛いぃい?」
少女が蛇骨の足を払おうとするも、体格ではこちらの方が勝っている。多少均衡を崩したものの、さほどの痛手ではない。蛇骨は近接を機とばかりに、少女の長い髪をひっ掴んだ。喉を晒させ刃を滑らそうとする。だが、少女の爪が自らの髪を切り、蛇骨の手から逃れる方が速かった。くるりと身を翻し、切れた髪を撒き散らしながら転がるように蛇骨から離れていく。
少女は跳躍し、塀に跨がった。爪を濡らす蛇骨の血に、ねっとりと舌を這わせる。
「蛇骨ちゃんの血……」
うっとりと頬を染め、爪をしゃぶる。
「おいしい……甘ぁい……」
腰をあやしげにくねらせて、少女ははしたなく音を立てながら血を舐めた。
「アタシ、蛇骨ちゃんのお肉とお骨も欲しいわぁ……」
少女は、ぶるぶるっと全身を震わせて、熱っぽく息を吐く。
「でも、今日はおしまいぃ。すぐに終わらせちゃったらもったいないものぉ。アタシ、何度も何度も蛇骨ちゃんが欲しいのよぉ」
少女の声音が遠ざかると共に、少女の輪郭もあやふやになっていく。
「ねえ蛇骨ちゃん、次はちゃあんとアタシを名前で呼んでねぇ。――ウキヨミって」
まるで夜闇に溶けるようにして、少女は姿を消した。それに伴い、あたりを覆っていた黒くよどんだ夜が剥がれていく。脱皮さながらに世界は夜を脱ぎ捨て、空には晴れやかな青が広がった。空気を犯していた血の臭いは桜の清涼さに変わり、薄紅の花びらがひらり眼前に舞い落ちる。サァと爽やかな風が立ち、流れた雲間から明るい光が零れ落ちた。
先ほどまでは蛇骨とウキヨミしかいなかった空間に、喧噪が訪れた。行き交う人々の声、車の排気音。街灯の明かりは消え、蛾の姿も見当たらない。住宅街にはいたって麗らかな春の朝が在った。
ただ一点、血溜まりを除いて。
ウキヨミがうずくまっていた街灯の下には、変わらず血溜まりが広がっている。血溜まりにはウキヨミが切り捨てた髪がばらばらと浮いており、実に穢らしい。
赤くどろりとした液体に、蛇骨のつまらなさげな顔が映りこんでいた。これと言って特徴の無い黒い髪に黒い瞳。切れ長の目は少しばかり険が目立つが、特徴という程のものではない。
血溜まりに映り込んだ蛇骨の顔にウキヨミの髪が絡み、まるで自身の顔を髪に犯されたような気がした。蛇骨は学生服の肩口で顔を拭うと、舌打ちと共に血溜まりから離れた。
投げ捨てた黒塗りの鞘を拾い上げ、刃を納めた。刀袋に愛刀を納め、負い紐を肩にかける。傷つけられた喉を手の甲でぐいと拭い、蛇骨は住処へと足を向けた。
その背後で、うわぁと大きな悲鳴があがった。運悪く血溜まりを見つけてしまったのだろう。ざわざわと膨れ上がる悲鳴を知らぬ顔で、蛇骨は歩みを進めた。
+++
蛇骨が目を覚ましたのは、夕方の事だった。障子越しに茜色の光が私室に射し込み、その眩しさに蛇骨は浅い眠りから覚醒した。
住処であるこの屋敷に戻り、身を清め、手当てもそこそこに布団へと潜り込んだ。ウキヨミに傷つけられた喉はそう深い傷ではなかったが、あれと闘争を交えるのは体力を使う。体はもう少しの休息を求めていたが、目が覚めてしまったのならば仕方がない。
布団の上に身を起こし、寝間着の乱れもそのままに、ぼんやりと布団の皺を眺める。愛刀の手入れをせぬままだったが、風呂へ向かう前に
ぼんやりとした頭でそう考えていると、件の輝水が襖を静かに開けて、こちらにやってきた。今日は灰青の袷に身を包んでいる。
彼が抱いていた子猫が、蛇骨の膝の上にやってくる。子猫の喉をくすぐり、柔らかな毛並みを撫でていると、輝水が気遣わしげな声で「その喉」と言った。
「痛むかい?」
「ウキヨミと同じことを言うな」
「ごめん」
と、輝水は物腰柔らかに微笑む。その整った顔を見上げながら、輝水はやはり歳を取らないななどと考えた。
蛇骨が幼い頃から、輝水は今と同じ青年の姿をしている。彼がいくつになるのか、蛇骨は知らない。ただ、歳をとらぬ生き物なのだろうという事は理解している。蛇骨が幼い頃も輝水は今と変わらぬ美しい青年の姿をしていたし、蛇骨が長じた今も、輝水の美しさは衰えない。
そういえば、輝水の髪が伸びたところも見たことがない。眠っているところを見たこともない。食事を取るところも見たことがない。何故、と問うたことはあった。輝水は、僕はそういう生き物だから、と答えた。なるほどそうか、と蛇骨はその時思ったが、疑問に思うべきことなのだったのだろうなと今更にふと思う。
だが、今もう一度輝水に同じことを聞いたとしても、輝水は同じ答えを口にするだろう。そして蛇骨もまた、なるほどそうかと同じように納得するに違いない。理由も理屈も知らないが、輝水は歳を取らない生き物であるというそのことだけは変わらない。
蛇骨が歳を重ね成長し、今までは見上げていた輝水と視線が並んだ時、悲しく思ったのをよく覚えている。いつか蛇骨がいなくなった時も、輝水はやはり今と同じ青年の姿のままこの屋敷にいるのだろうかと、自分とは違うまた別の誰かをここでこうして育て上げるのだろうかと、そんな事を考えてしまったからだ。
物心ついた頃から、蛇骨はこの屋敷で暮らしている。ここで育ち、十年ほどになるのだろうか。自分の歳を数えた事のない蛇骨だ。経てきた年数などきちんと知らなかったが、別に興味がないので知ろうとは思っていない。
無駄に広い屋敷である。どれだけの部屋があるのか、数えたことは無い。暗く長い廊下が続く先の部屋が誰の部屋か、何の部屋なのか、知らぬものがほとんどだ。
庭だってやけに広く、池だの橋だのがそこらにある。やたらに生えている草花を庭師が手入れしているのを見たことはあるが、その庭師が元々この屋敷に住まっているのか、外からやってきた者なのかは知らなかった。
何人が、何者が、この屋敷で暮らしているのか蛇骨は知らない。蛇骨が普段接するのは輝水だけで、他の者とは接触を持っていない。
だが、不自由は何一つ感じていなかった。輝水が運んでくる飯はいつでも美味かったし、風呂はいつだって気持ちが良かったし、寝床にも着るものにも不自由を感じたことはない。剣も学も輝水が教えてくれた。本だってたくさん与えてくれた。生きる為に必要な知恵も、楽しい事も、すべて輝水が教えてくれた。
だから蛇骨は、今の生活を好いている。
ウキヨミを消す為にと、輝水に育てられた今の生活を。
あれは悪しきもの。世に災いを成す存在。その名をウキヨミ。
君は蛇骨。ウキヨミを消す為に成された存在。
そう、教えられて育ってきた今を。
「包帯、替えようか」
「いい」
「そういうわけにもいかない。血が滲んでいるよ」
ひんやりと冷たい指でついと顎を持ち上げられ、器用な手つきで包帯がほどかれていく。
「服も、きれいに洗っておいたよ」
「うん」
あの学生服もまた、輝水が与えてくれたものだ。今の君の年頃ならば、この服が一番違和感がないだろうから、と。返り血だって目立たないよ、と。
「ウキヨミはどうだった?」
「アレは不潔だ」
「ふふ、そうだね」
手早く消毒を施され、きれいに包帯が巻かれていく。
「不潔だから、嫌いだ」
蛇骨は吐き捨てるように言った。アレは、いやらしい事をする。いやらしい事を言う。不潔だ。穢らしい。だから嫌いだ。
「ウキヨミはそういうものだから」
「俺の血を舐めて、喜んでいた」
「そういうものなのさ」
「俺の肉と、骨も欲しいと」
「そういうものなんだよ。ウキヨミは人の血と肉と骨を欲する。そういう存在だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ欲しがる。欲しがって、喰らう」
「だから排除しなくてはいけない」
輝水の言葉の先を奪うように言えば、輝水は琥珀色の目を瞬いてみせた。
「そうだ。よく覚えていたね、良い子だ」
「輝水が言っていた。輝水が俺にそう教えた」
「そうだね。君は良い子だ。良い蛇骨だ」
幼子にするように、輝水は蛇骨の黒髪を撫でた。
良い蛇骨だ、と、輝水はいつもそう蛇骨を誉める。幼い頃は特に何も思っていなかったが、ここ数年はそう言われる事が嫌だった。蛇骨とは名ではなく、存在なのだろうと理解したからだ。
蛇骨は存在。ウキヨミと同じく、そういう存在。ウキヨミを消す為に成された存在。その存在を『蛇骨』と呼ぶのだ。
そして輝水は、その『蛇骨』をこうしてここで、何人も育てている。今ここに在る『蛇骨』が老いて使い物にならなくなれば、またはウキヨミとの闘争の間に命を落とせば、別の『蛇骨』を育てるのだろう。今までずっと、そうしてきたように。
「――輝水も、良い輝水?」
「さあ、どうだろう」
蛇骨を育てる存在を『輝水』と呼ぶのかと訪ねたが、輝水は首を傾げるだけだ。もしかしたら輝水自身本当に分かっていないだけかもしれなかったが、はぐらかされたような気がして蛇骨は少しばかり不愉快だった。
今まで、何人の『蛇骨』を輝水は育ててきたのだろう。疑問に思う時は少なくない。だが、蛇骨はそれを問うたことはない。今ここに在る蛇骨は、輝水が育ててきた数多の『蛇骨』の中の一人であることを、輝水の口から聞くのは厭だった。
「はい、出来た」
「……ありがとう」
丁寧に巻かれた包帯を指先で撫で、蛇骨は俯く。輝水は今まで何人もの『蛇骨』にもこうして丁寧に、優しく治療を施してきたのだろう。そう思えば、胸が詰まるような心地がする。
「着替えも持ってこようね。それと、何か食べるものも」
「うん」
とん、と軽い音を立てて襖が閉じられた。足音が遠ざかるのを聞きながら、蛇骨は膝の上で丸まった子猫を目の高さに持ち上げる。
「お前に名はあるのか? 輝水はお前を、何と呼ぶ?」
子猫の金色の目を覗き込んで訪ねるも、子猫はにゃあと甘く鳴くだけだ。
そのうちに輝水の軽い足音がして、襖がもう一度開かれた。輝水は盆に握り飯と茶を乗せている。それを蛇骨の側に置くと、もう一度廊下に引き返した。戻ってきた輝水は、今度は風呂敷包みと蛇骨の愛刀を手にしている。
もぐもぐと握り飯を咀嚼しながら、蛇骨は上目に問いかけた。
「蛇骨は、なぜ『蛇骨』という?」
「この刀の名が蛇骨だから」
「この猫に名前は?」
「無いよ。君がつけて良い」
「……そう言われても、困る」
「だろうね」
いつものように輝水は蛇骨の問いかけに滞りなく答え、くすくすと笑いながら、風呂敷包みを広げた。そこにはきれいに畳まれた蛇骨の学生服があった。
握り飯を胃に収め、熱い茶で喉を潤す。帯をほどいて寝巻きを脱ぎ捨て、輝水の差し出す開襟シャツに袖を通した。学生服を着込み、身なりを整える。すると輝水がくすりと笑うので、蛇骨は首を傾げた。
「寝癖」
「……構わない」
やわく微笑み、輝水は子猫を抱き上げた。
「それじゃあ僕は下がるから、何かあったら呼ぶんだよ」
と、呼び鈴を目顔で示す。こくりと頷き、蛇骨は輝水が遠ざかっていく足音を背中で聞きながら愛刀を手にし、縁側へと向かった。
輝水はいつだって、蛇骨に答えをくれる。彼が言葉に詰まるところを、蛇骨は目にした事がない。
――ウキヨミはどうして夜を連れてくる?
――あれはそういうものなんだ。夜に身を隠して、人を喰らう。
――夜に他に人がいないのは何故?
――餌にする者以外、ウキヨミは夜に招かないのさ。食事の邪魔をされたくないから。あれはそういうものなんだよ。
――何故輝水は戦わない?
――血を浴びれば、僕は僕でいられなくなるから。
――蛇骨はなぜ俺一人なんだ?
――蛇骨たるにふさわしい肉体を持った者は、同時に二人は生まれないから。
――輝水はどうして蛇骨を育てる?
――必ずウキヨミを滅すると、かつて約束を交わしたから。
輝水に答えを貰うたび、そうかと蛇骨は納得して、良い子だと褒められた。君は理解が早いね、良い子だ、良い『蛇骨』だ。そう言って頭を撫でてもらうのは、心地が良かった。良い『蛇骨』でいれば、輝水は笑う。それが、嬉しかった。
蛇骨は縁側に腰を落ち着けた。ひらひらと舞い散る桜と、鶯の鳴き声が和やかだ。夕暮れ時に赤く染まった池で、鯉がぱしゃんと大きく跳ねる。庭のどこかで水琴窟が軽やかに鳴っていた。
風に乗った花の香りも鮮やかだ。今日は風が気持ち良いよ、外を歩いてきてごらん。朝の間、輝水がそう言ったのも頷ける。
蛇骨は愛刀を鞘から抜いた。麗らかな空気の中、乱刃が物騒に爛と煌く。ひらり舞った桜の花びらが刃に触れて、真二つに分かたれ地面に落ちる。
刀は綺麗に手入れが施されていた。刃こぼれも、脂の汚れも無い。
ウキヨミを斬る為だけに特化したこの刀は、他のものは斬れぬと輝水に教えられた。試しに自分の腕に刃を滑らせてみたが、確かにウキヨミを斬る時のような鋭さは無かった。とはいえ全く斬れぬわけでもなく、刃は蛇骨の身に傷をつけ、そんなことをして試した『蛇骨』は君が初めてだと、輝水に呆れられたか。
この刀の手入れの方法を蛇骨に教えたのも輝水だ。技術を一から仕込んだ。そして、技術よりも何よりも、必要なのは念なのだと蛇骨に教えた。この刀を整え鍛える為に必要なのは、ウキヨミを斬るという念なのだと。
蛇骨は、輝水の手によって磨かれた刀をためつすがめつ見やった。刀は、危ういほどに鋭く磨かれている。ということはつまり、輝水の念がこの刀をここまで鋭くしたのだ。ウキヨミを斬る、という輝水の念が。
――必ずウキヨミを滅すると、かつて約束を交わしたから。
輝水はいつか、そう言っていた。誰と、と問うのを蛇骨は躊躇った。聞けばきっと輝水は答えを与えてくれるだろう。だが、蛇骨はその答えを知るのを、怖く思った。怖かったし、悲しいような、切ないような気もした。
輝水がどれほどの時をここで過ごしているのか、蛇骨は知らない。それもきっと、聞けば答えを与えてくれるのだろう。けれどもやはり、蛇骨はそれを躊躇った。答えを知ることを怖く思った。
ウキヨミを斬る、その念が輝水に永年の生を与えたのか。それとも、輝水がもともと永年の生を有した存在なのか。それも蛇骨は知らない。知りたいと思ったが、それもやはり、聞くのは怖い。
何故怖いと思うのかは理解している。これはきっと、嫉妬というものだ。蛇骨は、輝水が約束を交わした相手に嫉妬している。輝水が次に育てる『蛇骨』に嫉妬している。
蛇骨にとって輝水はただひとりだ。ひとりきりだ。けれども、輝水にとっての蛇骨は違う。蛇骨はただの存在。ウキヨミを斬るためだけに在る存在。代わりなんていくらでもいる。今ここに在る蛇骨が使えなくなったら、輝水はきっとまた、別の『蛇骨』を育てあげる。ウキヨミを斬る為に。ウキヨミを滅すると約束を交わした相手の為に。
輝水にとっての蛇骨はただの手段。ただの存在。ただの道具。そう、理解している。
だから怖い。だから厭だ。だから哀しい。
輝水が約束を交わしたその者の名を聞くことが。どれほどの時を、その約束の為に過ごしてきたのかを知ることが。輝水にとっての、ただひとりのその相手を知ることが。お前はただの道具なのだと、思い知らされることが。輝水の唯一になれぬ己自身が。
髪に舞い落ちた桜の花びらを首を振って散らすと、寝癖のことを思い出した。撫で付けて整えようとするも、髪はすぐさまにぴんと跳ねてしまう。何だか面白くないような面映いような気がしたが、気にしすぎるのもやはり面映く思われて、蛇骨は誰も見てはいないというのに何気なさを装いながら、刃を鞘に納めようとした。
ちょうどその時、ギィと軋む音がした。ギ、ギィ、と空が醜く鳴いている。瞬く間に耳障りな軋みは膨張して、厭わしさに蛇骨は歯噛みする。
だがその軋みはふいにぴたりと鳴りを潜め、痛い程の静寂が満ちた。葉のざわめきも、鶯の鳴き声も聞こえない。不自然な程にぴんと張り詰めた静寂に、蛇骨は息を詰めた。
「じゃ・こ・つ・ちゃん」
途端、少女の声がして、夜が空を埋め尽くす。ざ、と黒の袷を纏わせたかのようにして、世界は急速に夜に覆われた。
べたりと、真黒な夜が訪れる。月も星も無い。吹く風も無い。
ふいに、ボ、と焦げつく音がした。音と共に石灯籠に火が灯る。
庭の灯籠のすぐ側に、ウキヨミの姿があった。今朝見たままの、血に汚れたセーラー服姿だ。豊かな乳房は剥き出しで、長く黒い髪はざんばらだ。灯火の揺らめく火影が、血で汚れた白い頬に落ちる。ウキヨミはスカートをめくりあげ、性器を蛇骨に見せつけた。
「不快だ」
「つまんなぁい。蛇骨ちゃんに喜んでほしいから、アタシこうしてるのにぃ」
黙ったままに睨みつけると、ウキヨミは両腕で自身の体を抱きしめ、身を震わせた。
「イイわぁ、その目。もっと見下してぇえ……、ゾクゾクしちゃうぅ」
ウキヨミは細い指を吸いしゃぶり、もう片方の手を性器に滑らせる。くちゃりと立つ水音に怖気が走った。
舌を打ち、蛇骨は縁側から庭に降りた。同時に鞘から刃を抜き放つ。裸足のままであったが、どうだって良い。
「蛇骨ちゃん、こういう、きれいで若い女の子は嫌いぃ? あなたのセンセイみたいな、きれいな男の人の方が好きなのぉ?」
ウキヨミは軽い動作で蛇骨の斬撃をかわすと、ひょいと灯籠の上に跳び乗り、両膝を抱えてしゃがみ込んだ。そして、抱えた膝をゆるゆると開く。
「アタシ、蛇骨ちゃんにアタシのことを好きになってもらいたいのよぉ。そうだぁ、あなたのセンセイを食べちゃえば、あなたはアタシを好きになってくれるかしらぁ」
蛇骨は玉砂利を蹴り、跳んだ。上段から力に任せて刀を振り下ろす。しかし真二つに分断されたのは灯籠で、ウキヨミの姿は既にそこに無い。
「赦さない」
「あは、怖ぁい。でも怒ったお顔も素敵よぉ」
ウキヨミは松の枝に跳び移り、くふんと含み笑う。ずんと重い音を立てて崩れる灯籠を背に、蛇骨はウキヨミを見上げた。
「安心してぇ。センセイは、アタシの食事にはならないものぉ。アレはアタシ達側の存在だからぁ」
「……ウキヨミは人を喰らう」
「そうよぉ」
「どうして俺の元に現れる」
何を今更と言いたげに、ウキヨミは大きく目を瞠った。
「蛇骨ちゃんが美味しそうだからよぉ。食べちゃいたいからぁ。でも、すぐに食べて終わらせるのは勿体ないからぁ、それまでは他の子を食べるのよぉ。蛇骨ちゃんは、アタシのとっておきだからぁ」
「俺が美味そうなのは何故だ」
「どういう意味ぃ?」
ウキヨミは輝水と違って、答えに滞った。きょとんとあどけなく首を傾げる。
「俺が『蛇骨』だから美味そうなのか」
「ああ、そういう事ぉ。違うわよぉ。あなたのお肉とお骨が美味しそうなのよぉ。不味そうな『蛇骨』だっていたものぉ。あなただから、とぉっても、美味しそうなのよぉ。血は、とっても美味しかったわぁ」
うっとりと舌なめずりをして、ウキヨミは指をしゃぶった。
なるほど、と蛇骨は頷く。この身がこの身ゆえに美味そうだと、ウキヨミは言う。その答えは、なかなかに蛇骨を満足させてくれた。
「あぁっ……イイわぁ……っ、蛇骨ちゃんの笑顔、素敵よぉ……」
「ウキヨミ」
「ああっ、ダメよ蛇骨ちゃん、そんな、急に名前でぇ……っ」
身悶えしながら、ウキヨミは爪を鋭利に伸ばし、枝から跳び降りた。振り下ろされる爪を刃で受けて、至近でにらみ合う。
「お前の返答は、なかなか良かった」
「そう? アタシも良かったわぁ、あなたのお声で名前を呼ばれるのぉ。たまらない……もっと、もっとちょうだぁい蛇骨ちゃんん」
「断る」
爪を弾き、足下の玉砂利を蹴り上げる。ばらばらと飛び散った砂利に、ウキヨミはたじろいだ。
足を払い、その場に引き倒す。喉をめがけて切っ先を突き入れたが、ウキヨミは身をよじってそれを避けた。
転がり、逃れられる。刀を抜くがてらに斬りつけたが、ウキヨミが身を起こし、跳び退く方が早かった。
それを追い、斬り上げる。だがウキヨミは跳んで避ける。まるで飛蝗(ばった)のような奴だ。すばしっこく、目障りだ。
「あぁっ、蛇骨ちゃんたらまたアタシを見下してるわねぇ? イイわぁ、もっとぉ! もっとその目で見てぇ!」
裂けんばかりに顔中に笑みを広げ、ウキヨミは爪をぎらつかせた。びょうと風を切って振り下ろされたそれが、蛇骨の胸を裂く。
ウキヨミは踵を軸に勢い良く回転し、両の手の爪で蛇骨の肉を削いだ。後退するもすぐに詰められ、鋭い爪が左肩を突き破った。
勢いのままに倒されて、蛇骨は呻く。ウキヨミは蛇骨の腹に乗り上げ、肩を抉る爪を更に深く押し進めた。
「痛い? 蛇骨ちゃん痛いぃ? あぁっ、アタシ今蛇骨ちゃんのナカにいるのねぇっ!」
漏れる呻きを噛み殺す。痛みを堪え左の腕を持ち上げて、肩を抉るウキヨミの手首を掴んだ。
ウキヨミは、蛇骨がこの身であるからこそ喰らいたいと言う。その言葉は確かに、蛇骨の心に喜悦を与えた。
だが、ここでウキヨミに喰われてしまえば、蛇骨は良い『蛇骨』でなくなってしまう。悪い『蛇骨』に成り下がる。悪い『蛇骨』はいらないのだ。蛇骨は、輝水の悪い『蛇骨』になりたくない。
蛇骨はウキヨミの手首をぐいと引き、それに合わせ頭を起こす。ガ、と鈍い音がして、互いの頭蓋がぶつかり合った。
眩むウキヨミが力を緩めた隙に、離さずにいた愛刀でウキヨミの体を横から貫く。身を起こし、ウキヨミの体を薙いだ。
立ち上がった蛇骨は、臓物を零すウキヨミを蹴りつけた。ぐしゃりと地面に倒れたウキヨミの腹をつま先で蹴りつけ、足を振り抜く。
「ああっ、イイわぁっ!」
血反吐をまき散らしながら、ウキヨミは宙を跳ぶ。幹に背をぶつけ崩れた。その体を縫い止めるように、蛇骨はウキヨミの胸に刀を突き刺す。
「あんっ、そんな、いきなり奥までぇ……っ」
びくん、とウキヨミは大きく身を跳ねさせた。胸に刺さった刀を抜こうと両手で刃を握るが、そうはさせまいと蛇骨は腕を踏みつけ離させる。
「いたぁい……、でも……イイ……っ、こんなの初めてぇえ……。アタシ、蛇骨ちゃんになら痛い事されてもイイわぁ……」
蛇骨はウキヨミの胸から刃を抜いた。横様に倒れようとするウキヨミの体を、袈裟懸けに斬りおろす。
どさりと、ウキヨミの体が倒れた。ざらざらと輪郭が砂のように壊れ散る。少女の形をしていた肉は砂に成り果て、あらわになった骨もやがて崩れて消えた。
その体から、ぬるりと飛び出たものがある。輪郭の不明確な、透明な肉塊のようなそれこそがウキヨミの正体だ。人を喰らい、貪り、寄生する。それがウキヨミだ。この少女もまた、ウキヨミに喰われた人間だ。蛇骨を誘惑する為にと選ばれた若い容器だったのだろう。
蛇骨はウキヨミの核を斬ったが、断ち斬られたそれはすぐにまた一つになり、空を昇っていく。
ぼろぼろと崩れ始める夜に、桜が舞う。桜吹雪の中をウキヨミの核が昇っていく。薄闇に昇るウキヨミの核は、蛇骨がどれだけ跳ぼうとももう届かない。
やがてウキヨミの核は、見えなくなった。蛇骨はウキヨミが姿を消した空を睨み上げながら、血振りをする。逃した苛立ちのままに玉砂利を荒く蹴りつけた。
「こら、そんなことをすると足が痛いだろう」
輝水の穏やかな声がして、蛇骨は振り返る。
「お疲れさま。よく頑張ったね」
「……逃した」
「良いんだよ。あれはそういうものなんだ。ああして核を斬るうちに、ウキヨミは確実に力を弱めていく。今日だって、簡単に逃げていっただろう。浮き世に身を留める力が弱まってきているのさ」
輝水は蛇骨の寝癖を撫でつけた。
「頑張ったね。君は良い子だ、良い『蛇骨』だ」
ほっと息を吐く。結構に深く傷を負ってしまったから、困らせるかもしれないと思っていた。しばらくは役に立たないだろう、と。だが、輝水は良い『蛇骨』だと言ってくれた。
確かに、蛇骨は輝水にとってはただの手段だろう。だがそれでも、悪い『蛇骨』にはなりたくないのだ。蛇骨が『蛇骨』としてこの生を生きる限りは、輝水の役に立っていたい。
安堵と共に痛みが訪れ、蛇骨の体がぐらりと傾いだ。その体を輝水は受け止めたが、蛇骨は腕を突っ張り輝水から慌てて離れる。その勢いで玉砂利に仰向けに転がってしまったが、蛇骨は胸を撫で下ろした。
「蛇骨?」
怪訝そうに輝水が首を傾げる。
血を浴びれば、輝水は輝水でいられなくなると言っていた。今までだって何度も輝水に手当てをしてもらってきたのだし、多少ならば平気なのかもしれないが、血に触れずにいられるのなら、それに越したことはない。
「疲れただろう、痛かっただろう。手当てをしようね。人の体はもろいのだから」
痛みの中、輝水の声が降り注ぐ。
「……ウキヨミが消えれば、輝水はどうなる」
輝水は、ぱちりと大きく瞬いた。形良い唇をほんの少し開き、噤む。言葉を捜しているようだった。輝水が言いよどむ姿を、蛇骨は初めて見た。
「……どうだろう。それは、僕も知らないな」
輝水は腕を組み、首を傾げる。蛇骨の側に屈みこみ、傷口にそっと指先を触れさせた。
「……きっと、その時は僕も消えるんじゃないかな」
そう言って、輝水は微笑んだ。その笑みは悲しげでもあったし、どこか満足げでもあった。
「――そうか」
「きっとね。その時が来るまでは、分からない」
「輝水は、それを――」
望んでいる?
蛇骨は、そう聞こうとした。だが痛みに呑まれ意識は薄れ、言葉を紡ぐことはなかった。
薄れる意識の中、輝水の声が聞こえた。
――そうだね。
ほんの少しの笑みを含んだ輝水の声は、哀切な響きを宿していた。
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新緑が風に揺れている。爽やかに駆ける風が心地良く、薫風、という言葉を蛇骨は思い出した。その言葉を蛇骨に教えてくれたのも輝水だ。
蛇骨はいつも通りの黒の学生服に身を包み、ある店を目指していた。刀袋を買いに蛇骨は使いに出されたのだった。
いや、お使い、と言うのは語弊があるかもしれない。この刀袋は蛇骨自身が使うものなのだから。だが今までは、輝水が買ってきてくれたものを使っていたのだ。このように蛇骨自身が何かを買いにいく、というのは初めてのことだ。
一度自分で買い物をしてみるのも良いかもしれないね、と輝水は笑って言った。気まぐれなのか、意地悪なのかは知れない。何故、と問えば、経験を積むのは良いことだよ、と満面の笑みで返されてしまった。はぐらかされたような気がしないでもないが、輝水がそう言うならそれもそうかもしれないと思ったので、蛇骨は大人しく店を目指している。
何やら心臓がうるさいのはきっと、緊張というものだ。買い物の仕方は知っている。輝水が教えてくれた。とはいえやはり、初めてのことには戸惑いを覚える。蛇骨は一つ息を吐き、強張る体を落ち着けた。
揺れる新緑の向こう、鮮やかな鳥居があった。緑に映える朱が眩しい。
だがそのまばゆさは、急速に黒く塗りつぶされた。墨をぶちまけたかのようにして、真黒の夜が広がる。
張り詰めた静寂に、キィンと耳の奥が痛む。先ほどまでやかましかった心臓は鳴りを潜め、やがて訪れるであろう存在を待ち、いっそ穏やかに凪いでいた。
黒にぽっかりと浮かぶ朱の鳥居の影から、ぬらりと現れる人影があった。
「蛇骨ちゃあん」
警官の制服を身に纏った若い男は、鳥居にしなだれかかりながらにたりと笑う。
「――遊びましょぉお」
警官を喰らい、その身を乗っ取ったウキヨミは鳥居に腕を回し、股を擦りつけてくるくる回った。蛇骨は不潔なその様に眉を顰めて、刀袋から刀を取り出す。
「どぅお? 今度は若い男の人を食べてみたのぉ。女の子よりお肉が固いけど、これはこれで美味しいのよねぇ」
「ウキヨミ」
「あぁあっ、蛇骨ちゃんったら、そんな、早いわぁっ! 最初っから名前で呼んじゃやぁよ、もっと焦らしてぇえ!」
ウキヨミは股間を鳥居に擦り付け、狂ったように笑い声をあげる。
「俺が欲しいか」
「あ、あぁっ、やだ、蛇骨ちゃんったら積極的ねぇっ!」
「だが、くれてなどやるものか」
ハ、と鼻で嗤い、蛇骨は鞘を払った。
「俺は、お前を消す」
ウキヨミはぴたりと動きをとめた。笑い声も止む。だがしばらくの後に、裂けんばかりに大きく唇を引き、ニタァと笑う。
「……イイわぁ、その目。それでこそよぉ、アタシが欲しいのは、その蛇骨ちゃんなんだわぁ……。でもアタシ、そんなに簡単には消えてあげないわよぉ?」
「それでもだ」
あの時、輝水は言った。
――そうだね。
薄れゆく意識の中で、蛇骨は輝水の声を確かに聞いた。果てを望む輝水の声を。
ならば、と蛇骨は思った。
ならば俺が、その望みを叶える。俺が輝水を送ってやる。
そのうちに蛇骨は老いていく。ウキヨミに喰われるかもしれない。朽ち、役に立たない『蛇骨』になる日は確実にやってくる。
だが、その日が来る前に。
「俺が最後の蛇骨になる」
切っ先を突きつけ、蛇骨は言い放った。
「俺が、輝水を送る唯一の『蛇骨』になる」
ずしりと重く、夜が重圧を増す。ねっとりと絡みつく濃厚な闇が、とぐろを巻いて息を潜めている。
愉しげにウキヨミが笑みを深める。そして爪を鋭く伸ばし、跳んだ。蛇骨は上段から刀を振り下ろす。
ウキヨミの作り出した夜に月は見えない。星の姿も見当たらない。二人の作り出した火花だけが、よどむ闇に紅く煌く。