文子
なだらかな上り坂の頂点から町を見下ろす。
曇天の下に、暑さに茹だった人々が行きかっていた。両脇の塀の内の木々から、じよじよと蝉の鳴く声が聞こえた。氷売りの声がかき消される。腕に抱いた盥の中の氷の塊が、すでに溶けはじめていた。
門から直接庭にまわる。縁側で盥にはった水に足を浸けた文子が、私を見るなり、遅いわ、と口を尖らせた。私は氷を盥に移し変えながら苦笑した。
水になるの。
文子が言い出したのは今朝の事だった。
文子が水を蹴り上げて楽しげに笑う。白い夜着が捲れて、静脈の這った痩せた白い足が覗いた。
文子の足首から先は、水に溶けて無かった。途中で途切れたふくらはぎと、空気の境目は、薄ぼんやりと霞んでいる。
私は顔にかかった生暖かい水を拭い、文子の隣に腰をおろした。汗に濡れた紺絣が気持ち悪い。背を摘んで風を送ってやると、幾分かはましになった。
じよじよ
じよじよ
蝉がうるさい。
木そのものが鳴いているように思えた。白い空に枝を這わせる木の下に、薄汚れたトラ猫が寝そべっていた。この家に居ついてしばらくになるのに、文子にばかり懐いて私には懐かない。
手を叩いて文子が呼ぶと、猫はすぐにやって来た。膝に擦り寄って甘える。
私が手を伸ばすと、青い目でじっと睨みつけられた。息を吐いて手を引くと、文子がくすりと笑った。猫を抱き上げて、ねえ、と甘えた声をする。
「猫も、一緒に良いかしら?」
文子の小さな手が、丸まった猫の背をゆっくりと撫でている。文子は立ち上がった。膝から下が無い。
答えると、意地悪ねと眉をひそめる。差し出された猫を受け取る。爪が腕にあたって痛い。
文子は両裾をたくし上げて、端と端とを腰の前で結びつけた。
嫌がる猫を無理やりに膝の上に落ち着けさせようとしたが、猫は逃げてしまった。引掻かれて赤くなった腕を、指先でなぞる。だって、と文子が私を見上げた。
「一人でなるのは寂しいわ」
首を傾げてじっと私の目を覗き込む。肩のあたりで揃えた黒髪がさらりと揺れた。母に似た黒目がちの大きな目が、私を見ている。父に似た私には無い目だ。父親似の女の子と母親似の男の子は器量良しになる、とは嘘だと思った。
幼い白い頬は、汗一つかいていない。
じよじよ
じよじよ
蝉がうるさい。
背を汗がつたうのを感じた。文子から目を逸らせられない。
文子の赤い唇が動く。私は口に溜まったつばを飲み込んだ。
文子の目の中に私が映っている。額にかいた汗が暑苦しい。
私の短く切った茶色い髪。お兄ちゃんに似なくて良かったわねえ。母の声が聞こえた。私が文子の目の中でゆっくりと目を伏せ、首を振った。
意地悪ね、と目を細めて笑う文子は胸から下までしかなかった。
日が傾いてきた。西日が目に眩しい。だんだんと水になっていく文子の隣で、私はじっとしていた。盥の氷はもうほとんどない。文子が小さくなった氷を手にとる。氷が溶けてゆく。指の間からぽたりと雫が落ち、水に波紋を描いた。文子の手指が消えて、水になる。ぱしゃん、と大きく水が跳ねた。文子が笑い声を漏らす。
薄闇の空に、丸い白い月が浮かんでいる。
文子は首だけしかない。水に黒い髪がゆらゆらと広がっている。今日の夕餉は一人分だけで良い。
盥を覗き込むと、文子は目を閉じていた。
ああ、水になってしまうのだな。そう思った。
文子が目を開け、笑みを浮かべた。私も笑おうとした。
口が、耳が、髪が水になっていく。文子は目だけになった。とぷ、と音をさせて文子はすべて水になった。
りいりいと虫が鳴いている。蝉はもう鳴いていなかった。
私は文子で飯を炊き、文子で喉を潤し、文子で体を拭った。
月が沈んで日が昇り始めた。
私は文子で口を濯ぎ、文子で顔を洗い、文子を花にやった。
文子は土を潤し、川になり、海になった。
空に黒い雲が立ち込める。文子がざあざあと降った。うるさい蝉は鳴けない。私は文子に濡らされるまま庭に突っ立っていた。
両手を広げて曇天を見上げる。
文子が私の体を這う。短く刈った髪の隙間に入り込み頭皮をべろりと舐め、耳をなぞって、頤をつたって、くびすじをゆるゆると流れ、鎖骨のくぼみで少し動きを止めた。
服の上からじわじわと浸食してくる。腋毛に絡まる。腹筋の浮いた腹を、腰骨を、筋張った足を。
文子は私のからだを這う。
私は濡れた人差指と中指の隙間を舐めた。
あまい。
文子は私を濡らし、空に浮かんだ。
蝉が鳴きだした。私は濡れた着物を絞り、文子に濡れた左手の薬指をぎりりと噛む。滲んだ私の血が文子に混じり、手首をつるりとつたった。
文子の声が私の脳に響く。
一緒に。
「……にゃあ」
鳴いてみたが、手を叩く者はいない。私は腕の赤い傷痕を薬指でなぞった。
雨上がりの空を、鳥が飛んでゆく。
ゆぅるりと、雲が空に溶けていった。