夢追いエレジー2
長く息を吐く。
「ありゃ。ため息は幸せが逃げちゃうぜ?」
「あー……。よく言うっすね」
吐いた息を大きく吸い、飲み込むフリをする。西沢は笑って、なるほどと頷いた。
と、テレビの周囲の輪から相模の声が聞こえてきた。
「たぶん今回はおれ、いけたぜ。すっげぇ自信ある。見てろよ飯田、おれらの代で上手いのはお前だけじゃねえんだからな!」
相模は飯田に指をつきつけ息巻いている。飯田は常の感情の読めない無表情で、こくりと頷いた。
「……元気だねえミカちゃん」
組んだ足に頬杖をつき、西沢は苦笑した。
「ミカちゃん言うな!」
はいはい、と西沢はひらひらと手を振る。相模はふんと鼻を鳴らし、輪に戻った。
相模
飯田は新三年生で唯一、二年のうちからスタメン入りした男だ。ポジションはフォワード。大柄な体を生かしたヘディングが武器だ。そして白峰の新キャプテンである。
相模は、その飯田に追いついてやると公言して憚らない。絶対自分も一軍レギュラーになって、白峰の司令塔になってやる、と常から言っている。
それ故、敵も多い。練習で得る傷以外にも多々傷を作っている。その中には、女がらみで得た傷もあるとかないとかだ。まあ確かに顔は良い。中身はどうだか知らないが。
「……恥ずかしくないんすかね」
「んー? 何が」
「ああやって、飯田先輩に追いついてやる、とか何かそういう系のこと言うのがっす」
ずるずるとソファーに沈んで言う朝日を、西沢は薄く笑って見おろしてくる。目を合わせずに朝日は続けた。
「あんな事言ってて、もし選ばれなかった時恥ずかしくないんすかね」
「恥ずかしいでしょそりゃあ。恥ずかしいから公言してるんだと思うけど?」
「……どういう意味っすか?」
ちらりと視線を上げる。
「口に出して周りに言う事で、自分の事追い込んでるんじゃない? 言ったからにはやんなきゃなー、みたいなさ」
「ふうん……。よく分かりますね。さすがは腐れ縁だ」
「あっはは。納豆並の腐りっぷりだぜー?」
「納豆嫌いっす」
「おや。じゃあオレらも嫌い?」
「……わかんないすよ」
「正直なあ。嘘でも好きって言っとけよー」
苦笑する西沢だ。ぐしゃりと朝日の髪を乱し、ふっと笑みを消した。
「……なあ? お前は? 朝日、お前はナべに追いつきたいとか思わねえの?」
乱された髪を手櫛で整え、朝日は上目に西沢を見上げた。
「追いつけないっすよ」
「ふうん?」
にたりと西沢が口の端を持ち上げる。お前は、とせっかく整えた髪をまたぐしゃぐしゃと両手で乱してくる。
「……逃げるの上手な。逃げるっつうか、自衛がっつうか」
「先輩こそ」
自分だって、本当は飯田のポジションになりたいと思っているくせに。相模に目指されるような人間になりたいと思っているくせに。
そのくせ口には出さない、態度にも出さない。自分だって自衛が上手だろう。
くつりと肩を揺らすと、西沢も笑った。
「なあ朝日」
「何すか?」
西沢の声の調子が変わった。笑みを含んだ話し方は常のとおりだが、含む笑みの種類が変わった。いつもよりずっと底意地の悪い物にだ。
「死にたいって思った事ねえ?」
「……何すか突然。物騒な」
自分を困らせる類の台詞が飛んでくるだろうと予期はしていたが、こうくるとは思っていなかった。多少面食らった。
西沢は何も言わずに朝日の答えを待っている。朝日は乱された髪を整えながら言った。
「死にたいって、思った事はないっすよ。……殺されたいって願ったことはあるけど」
自分で自分の生を終わらせる勇気なんて無い。だから、誰かが唐突に自分の生を終わらせてくれたら楽なのに、と何度も思った。
『恐怖! 通り魔、三人目の被害者! 今度はプロを夢見る名門サッカー校の少年A君(十三) 〜潰えた夢、もう二度と彼は走れない〜』
なんて、くだらない週刊誌に見出しがついたりして。そうすれば自分だって一躍有名人だ。
チームメイトはどうするだろう。ああ、そんな奴いたっけと言うだろうか。それとも泣いてあいつは良い奴だった、なんて言うだろうか。
渡辺のメルアドを教えてくれと言ってきた女子達はどうするかな。
普段の渡辺君はどんな感じって取材してきた新聞部はどうするかな。
渡辺は、どうするかな。
「……なるほどねえ」
「…………うわ、超ーやな顔してる」
「いやいや。若いなー、と」
「若いってか青いんすよ」
「おや、分かっていらっしゃる」
中学に入学して、自分可愛がりというか、可哀そうがりというかが上手くなった自覚はある。
だって渡辺に会う前はこんな事思う事は無かった。こんな事考えて、俺って小せえなあなんて、自己嫌悪する事も無かった。自己嫌悪する自分を自己憐憫する自分に酔う事も無かった。
「っつーか先輩。そんな事俺に聞くって事は、先輩は思った事あるんすか?」
「オレ? さーあ、どうだろうねえ?」
「……ほんっと、逃げるの上手っすね。まあ、別に知りたくないから良いすよ」
「あら、つれない」
裏声で西沢がしなを作る。気持ち悪いと身を離すと、可愛くねえ、とこめかみを拳でぐりぐりされた。
西沢の拳を払いのけたその時だ。誰かの着信メロディが鳴った。飯田が携帯を開いて、画面に見入っている。監督からメールだ、と輪を外れた。
「……皆、集まっておいてくれ……」
ぼそぼそと低い声で言う。これでピッチに立つと敵も味方も震える大声で吼えるのだから驚く。
朝日は辺りを見回した。渡辺は入り口付近でぼんやりと立っている。壁に背を預け、そのままずるずると座り込んだ。
談話室に緊張が満ちた。さわさわと話す声も硬い響きだ。次期スタメンの発表だと、皆声にしないが分っていた。
やがて、ノートを手にした飯田が戻ってきた。一枚破いて、テレビに貼り付けた。
「……明日の朝にも、もう一度、皆の前で言うが……。朝練の時にも、監督から話があると思うが……。……今、言った方が良いだろう……?」
どっと皆が押し寄せる。真っ先に駆け寄った相模が、ぃよっしゃあと叫んで拳を突き上げた。のらりと立ち上がって、西沢が輪に近づいていく。
「おめっとーさんミカちゃん。良かったねえ」
おう、とミカちゃん言うなと否定するのも忘れて満面の笑みで相模が頷く。西沢は横目で表を見やり、小さく嘆息して苦笑した。
朝日はその輪には加わらずに、ソファーに座ったまま遠巻きに眺めていた。
やがて、少し喧騒が静まった頃、皆の視線は入り口に向けられた。
そこには渡辺がいる。
しん、と談話室が静まった。渡辺は立ち上がり、表へ近づいていく。皆の視線がそれを追う。
渡辺が小さくガッツポーズを作った。
「……おめっとーさん、ナベ。良かったな」
西沢が渡辺の肩を叩く。それを皮切りに、静まり返っていた談話室に声が舞い戻った。
朝日はそれを尻目に、入り口に向った。表を見る必要は無い。結果なんて分りきっているのだから。
朝日は壁に指を触れさせた。わずかにあたたかい。先程まで渡辺が背をもたせかけていた場所だ。
そうか。あいつも人なんだ。体温を持っているんだ。
そうだ、人なんだ。知っている。国語の成績が良くて、けど数学はからっきし駄目で、英語はまあまあ。寝相は死んでいるのかと思うほどに良い。寝言でメンマはいらないとか言ったりもする。ちょっときつめの顔立ちをしたショートカットの女子が好みだという事も知っている。
スタメンになった事を喜びもする。サッカーできなくなった俺に興味はあるかなんて、弱った事を言ったりもする。
あいつは人間だ。
俺と同じ。
胸が痛む。
胸元を掴んだ。
壁を拳で殴る。
人だって? ふざけるな。お前はヒーローだろう。ファンタジスタだろう。俺と同じ人間なわけがない。
「……朝日」
「おめでとう渡辺篤郎」
渡辺の声に振り返ると同時に早口に言った。渡辺の体が揺れた。
「良かったじゃねえかむしろ今までスタメンじゃなかったのが不思議なくらいだもんな」
睨む。
渡辺がたじろいだ。
おい、何をたじろいでんだ。俺に睨まれたくらいでビクつくなよ。俺ごときに睨まれたくらいで。
渡辺を突き飛ばす。グラウンドを目指して走った。
吼えた。
胸が痛い。
ああ、そうか。溢れてしまったからだ。あんまり勢いよく溢れだしたもんだから、蓋が砕けてしまったのか。その破片が刺さってんのか。だから痛いのか。
何がサッカーできなくなった俺に興味はあるか、だ。
弱さなんて見せるんじゃねえ。お前はそんな弱気な事言うんじゃねえ。
もっとずっと遠くにいてくれよ。そんな事言ってくれるなよ。
俺と同じ位置にくるんじゃねえ。弱い事ばっか言ってる俺と同じ位置に。ここはお前みたいな奴が来るところじゃねえよ。
なあ頼むよ。
手の届くところに来るなよ。頑張れば追いつけるんじゃないかななんて、馬鹿なこと思わせるとこに来んなよ。そんなん無理だって分かってんだからさぁ。
なあ、教えてくれよ。俺と同じ位置にくるなら教えろよ。
どんだけ頑張れば良いんだ? どんだけ頑張ったらお前のところに行けるんだ?
数字で具体的に言ってくれ。あと何日だ? どんだけ練習したら良い?
ああ、そうか。お前数学苦手だもんな。数字で具体的に、なんて酷か。数学は俺の方が上だもんな。
なあ、もうお前の背中は見飽きたんだよ。お前と比べられんのもいい加減飽きたんだ。
そっちに行きたいよ。
追いつきたいよ。
いや、でも駄目だ。追いつかれんな。お前はもっとずっと先にいろ。俺なんて追いつけない位置にいろ。
でも俺はお前と一緒にサッカーしてえよ。お前が9番で俺が10番。俺の上げたボールをお前がシュートする。そんな場面を何度も夢見てんだ。お前がメンマの夢みてる時にさ。
そうだよ知ってる。あいつだって夢を見る。メシ食ってるのも何度も見てるしトイレ行くのも何度も見てる。
渡辺だって人だって知ってる。私刑にあって痛がってた。そりゃ痛えよな、人だもんな。
じゃあ何で追いつけない。同じ人だってのに何でこんなに違う。
畜生睨まれたくらいでうろたえんな。お前は人を超えたとこにいろよ。
お前に追いつきたい。
追いつかれんな。
矛盾してる。
「朝日!」
とんできたボールを胸でトラップした。
渡辺がいた。
ボールを足裏でぴたりととめる。そういや裸足だ。どうりで痛いはずだ。っていうかこのボールどこからだ。ちゃんと片づけしろよ三軍連中。
ボールを足裏で転がす。砂と小石と皮の感触。縫い目がこそばゆい。
逆だろ。何でお前が俺を追いかけて来んだ。お前は追いかけられる側の人間だろ。
渡辺が指でこまねく。
ああ、動いている。
生きている。
あたりまえだ。じゃなきゃサッカーなんてやってねえ。
ボールをセットする。キックの為に距離をとった。
このボールが爆弾なら良いのに。
爆発して粉々に砕け散ってしまえばいい。ぐちゃぐちゃになってしまえば良い、お前も俺も。
ぐちゃぐちゃになっておまえかおれかわからないくらいにまざってまざってまざってまざってまざってまざってそしたらきっとさあ。
走り出す。
風が吹く。
桜が舞い散る。
僅かに欠けた月が照っていた。
ごめんな渡辺、満月の夜じゃねえや。