夢追いエレジー
うす汚れた窓の向こう、満月が照っている。桜が風に揺れていた。サッカー部専用グラウンドにぽつぽつと花弁が班点をつけている。
願わくば、で始まる歌を朝日はふと思い出した。以前渡辺がその歌にマーカーを引いていたのだ。
別にテストに出るわけでもないのに何故だと首を傾げると、渡辺は眉を掻きながら、何となく好きなんだと答えた。同室のこの男はやたらと国語の成績が良い。
寮の暗い廊下に、ぽつぽつと誘導灯の光が並んでいる。朝日は掠れた口笛を吹きながら歩いた。
台所の前で立ち止まる。口笛を停止し、ゆっくりとドアを開けた。明かりをつける。
恐る恐る辺りを見回し、恐る恐る足を踏み入れた。台所はアレの巣窟だ。アレに遭遇してしまったその日には、もう安心して台所に入る事はできない。アレはもともと合器噛といったのだ、と言っていたのもそういえば渡辺だ。
ヴーンヴーンと冷蔵庫が鳴っている。ふいにゴトンと大きな音がした。氷が落ちたのだろう。
アレの気配は無い。朝日は下手くそな口笛を再開し、三つ並んだ冷蔵庫の真ん中のドアを開けた。ひやりとした冷気が肌を撫でた。
「……こんなとこにいるはずもないのに」
口笛の続きを口ずさむ。
台所にもいない、冷蔵庫にもいない。探す相手は中々見つからない。
プリンにでかでかと相模と書かれていた。その名を二重線で消し、西沢とある。そしてその西沢の名をまた消し、相模と太く書かれていた。
冷蔵庫には、白峰学園中等部サッカー部特別寮に住まう約六十人の嗜好品が冷やされている。学年ごとに冷蔵庫は用意されているのだが、一つ年上の相模の物がここにあるという事は、西沢との攻防にいい加減うんざりしてこちらに避難させたのだろう。
ドアを閉める。明かりを消して、台所を後にした。
(ったく、どこに行ったんだか……)
首をぐるりと回して嘆息する。朝日は暗い寮を、息だけの口笛を吹きながら歩いた。
階段を下り、談話室へと向う。
と、そちらの方から声がして、朝日は立ち止まった。
何で。
この野郎。
お前なんか。
9番は俺のものだ。
お前に奪われてたまるか。
断片的に声がこちらに流れてくる。憎しみの響きだ。朝日は身を硬くした。
消えちまえ。
その声を最後に声は止んだ。
朝日はゆっくりと呼吸を繰り返した。四回目の呼、と同時に足音がこちらに向ってきた。
慌てて近くの給湯室に逃げ込む。ず、と洟をすする音がした。足音の主と目が合った。
フォワードの先輩だ。泣いていた。
驚いた目で朝日をじっと見下ろし、そして、彼は、笑った。自虐的な笑いだった。
上目に先輩を窺う。彼は何も言わず朝日に背を向けた。
談話室へ向う。
「…………何をしているんだ」
ソファーにぐったりと背を沈ませた渡辺が言った。両腕で腹を抱えている。私刑にあった事は明確だった。
入り口に背をもたせかけ、朝日は腕を組む。半眼で息を吐いた。
「お前探してたんだよ」
「……俺を? 何で」
「お前に俺の数学の教科書とノート貸しっぱなしだっただろ。返せよ。俺、明日の宿題まだやってねえんだよ」
「……勝手に探せば良いだろう」
「勝手にお前の棚漁ったら怒るだろうが」
以前、彼の棚を勝手に探った時はこっぴどく怒られた。渡辺は声を荒げるわけではないが、こちらの反論を許さない低い声でしつこく論理的に怒るのだ。あの威圧感と不愉快さは勘弁願いたい。
だから探していた。シャワーの後、トイレに行ったっきり戻ってこない渡辺を。そうしたら私刑現場に出くわしてしまった。
渡辺が咳きこむ。苦しげな咳の後、荒い呼吸で腹を押さえた。それから、長く息を吐いてソファーにずるずると倒れこんだ。
渡辺は鬱陶しげな視線をこちらに向けた。
「……鞄の中にある」
「おっけ」
「……他のものは見るなよ」
「任せろ」
疑わしげに渡辺は眉を寄せたが、すぐにまたソファーに沈んだ。
以前漁った時は、偶然彼宛の恋文を発見した。特盛りの徳森と朝日のクラスの男連中がはしゃいでいる、モテフワヘアーの巻き髪女子からのものだった。発見した瞬間を渡辺に見られてしまい、くどくど怒られる羽目になった。あれは実に鬱陶しかった。
それじゃあ、とひらり手を振り、朝日は渡辺に背を向けた。
痛んで色の抜けた、ぱさぱさの髪をかき乱す。
強風に窓が揺れた。その向こうで桜が舞っている。
渡辺が咳をした。
次の日、夕食後のことだ。朝日はぼんやりと談話室のソファーに座っていた。昨夜渡辺が沈んでいたソファーだ。
今日の練習の疲れが体中を満たしている。それはけして嫌悪するものではなく、むしろ心地良いものだった。熱を持った足は痛むが、同時に心地良くもある。
じくじくと足が脈打っている。それに合わせて心臓も脈打つ。いや、逆か。心臓に合わせて足が脈打っているのか。どちらでも良かった。どちらでも大差ない気がした。
腹が満たされ、眠気が湧いてくる。周りのざわめきが遠くに聞こえる。とろとろと意識が蕩けていく。
今日の練習は、次の練習試合のスタメンを決定するものだった。学年が変わって、新体制となってする初めての練習試合だ。これに選出されれば、次からの公式試合のスタメンになれる可能性は高まる。
二年である朝日が選出される可能性は低い。だからといって手は抜かない。抜けない。抜かなかった。
必死だった。がむしゃらにプレーした。とにかくゴールを狙っていった。
今思えばあのがむしゃらさはいけなかったかもしれない。ミッドフィルダーである自分は、もっと冷静なプレーを求められていたのかもしれない。
後悔の念が湧く。だが仕方ない。すんだ事だ。今更どうしようもない。それにそもそも自分が選ばれる事は無いのだろうし。
「……もうおねむでしゅか朝日啓介くーん」
はっと朝日は身を起こした。慌てた朝日の様子に、西沢はきゃらきゃらと笑った。
「寝てないっすよ」
「や、寝てたね。まあどっちでも良いけど。どうでも良いけど」
言いながら西沢は隣に腰をおろした。
痛んで色の抜けた朝日の茶色い髪とは違う、天然ものの茶色の髪。垂れた目の虹彩は明るい茶色だ。まだ新しい頬の擦過傷が目立つ。
以前、垂れ目のくせに狐顔ですよね、と彼に言った事がある。すると、朝日は目つきのわっるい野良猫だよにゃー、と狐の笑みで返された。
目を擦り口元を拭い、朝日は言った。
「……で、何なんすか?」
「やあ、可愛い後輩がなんか塞いじゃってるなーと思ったからさ」
「塞いで…………るんすかね」
「と思うけど? ぎっちぎちに塞がってる感じ。自覚症状ナシ?」
「……いえ」
塞いでいる。確かに。
望まれているであろうプレーをしなかった。熱くなってしまい、できなかった。渡辺は良い動きをしていた。昨夜痛めつけられたにも関わらず。
だというのに、朝日の心は凪いでいた。いつもなら渡辺に敵愾心を燃やして、腹が立って悔しくってしょうがないのに。
だとするとやはり、気が塞いでいるのだ。
気持ちに蓋をしている。
入ってこないように。
出ていかないように。
昨夜、朝日が机に向っている時、渡辺は戻ってきた。
朝日の左後ろ、ぎりぎり視界に渡辺が映る。渡辺は長袖のシャツを脱ぎ捨て、消毒液をふりかけていた。沁みるのだろう、時折歯の隙間から息を吸う音が聞こえた。
最後の問題を解きおわり、椅子を軋ませて渡辺に向きなおる。同時に、渡辺も顔をあげた。
「背中、やってくれ」
消毒液を投げられる。受けとめ、椅子ごとベッドににじり寄った。
ベッドに腰をおろす。うつぶせに寝転んだ渡辺の背に、消毒液をかけた。びくりと背が揺れた。乱暴にティッシュで拭う。
枕もとのシップ薬を手に取る。慎重に膜をはがし、紫色に腫れた腰に貼ってやった。
羨ましい、と思った。自分にこの紫は与えられる事は無い。先輩連中が私刑にかけたい、かけなければやっていられない、と思うほどに自分は目をかけられていない。自分は先輩連中の地位を脅かすほどのプレイヤーではない。
終わりだ、とシップの上から腰を叩く。痛い、と渡辺がこちらを睨んだ。素知らぬ顔で椅子に座る。床を蹴って、勢いをつけて机に戻った。
「……なあ、朝日」
何、と机の上を片付けながら上の空で答える。お前は、と渡辺は言いよどんだ。
こちらを向く気配がする。
「お前は……サッカーができなくなった俺に、興味があるか」
朝日は目を瞠った。
何を突然。
口中に溜まった唾液を飲み込む。ぐぅ、と妙な風に喉が鳴った。
「…………ねえよ」
数拍後に、そうか、と渡辺は頷いた。ごそりと布団にもぐる音がした。
小さく舌を打って、電気を消す。渡辺と反対の位置にあるベッドにもぐった。
朝日がサッカーを始めたのは四つの時だ。以来九年間、サッカーの無い生活は無かった。
小学校にあがると同時、地区で一番強いサッカーチームに入った。六年の時、10番を任された。朝日の所属するチームでは10番は特別な背番号だ。チームで一番上手なミッドフィルダーに託される背番号だからだ。
それが朝日の誇りだった。父も母も褒めてくれた。体育の時間には英雄になれた。嬉しかった。
県大会で優勝し、向かえた全国大会。そこで初めて渡辺と出会った。彼は対戦チームの九番だった。
結果、朝日のチームは三対一で負けた。相手チームの三点は、全部渡辺によるもの。ハットトリックだ。
その試合で、自分は井の中の蛙だと知った。県大会で優勝したチームの10番は、全国大会初戦敗退チームの10番だ。はしゃいでいた自分が恥ずかしくなった。
渡辺篤郎。そいつに勝つ事が目標になった。彼の所属するチームに今度は勝ってやる。試合の熱が冷める間もなく、朝日はそう誓った。
だからサッカーの名門校、白峰に入学した。全国大会常連のこのチームで自分はのし上がり、いつか渡辺の所属するチームを負かしてやる、と。
だがその野望は二重に敗れた。
まず一つ、入学早々一軍二軍三軍を分けるテストで、自分は二軍になった。
公式試合には、一軍のメンバーが出るのがほとんどだ。一軍にいなければ渡辺と試合することはできない。
自分が二軍の実力だ、というショックは大きかった。だがしかし、いずれは一軍にあがってみせる、あがれるだろう、と根拠も無く思っていた。今は、そんな甘い事を思っていた自分を馬鹿だと思う。二年生になった今でも朝日はまだ二軍のままだ。
そして二つ目。寮の部屋に向かい、ドアにかけられたネームプレートに目を疑った。
106号室
朝日啓介
渡辺篤郎
同性同名だろう、とドアを開けると、そこには渡辺がいた。朝日が再試合を望んでならない渡辺だ。
まさか彼が越県してまで白峰に来るとは思っていなかった。これでは彼と勝負はできない。同じチームにいては、試合はできない。
腹が立った。何を勝手な事をしている、と理不尽な怒りが渡辺に対して湧いた。
しかも渡辺は一軍になった、と言う。悔しかった。悔しくて仕方がなかった。
だが同時に安心もした。自分を負かしたこの男はやはり、それほどの実力があったのだ、と。自分は格下の相手に負けたのではなかったのだ、と。
彼の所属するチームに勝つ、という野望は潰えた。だが、新たな目標はできた。
絶対に自分も一軍にあがってやる。渡辺と同じ土俵に立ってやる。
その目標への距離は、掲げた当時からずっと縮まっていない。渡辺の実力と自分の実力の差を思い知らされる毎日だ。