掌と爪の関係2
(まったく……)
何やってんだかねえ、と中村は声には出さず、舌だけで呟いた。
放課後、結局今吉のボールは見つからなかった。
(そりゃそうだっての)
中村は鞄に手を差し入れる。
そこに、ボールの堅い感触があった。
強い風が吹いて、背に水しぶきがかかる。足元に群がっていた鳩がばさばさと羽音をさせて飛び立った。
中村は、駅前の噴水、その前に設置されたベンチに座っていた。
高校に入って三ヶ月、日が暮れるまでずっと、ここで座って通りを眺めている。通りを歩く人に暇人だと思われるのが嫌で、メールを打つふりをしたり、頭にまったく入りもしない文庫本を開けたりしている。文庫本も何だか固そうな内容の物を選んだ。
何しろ、世間の、特に大人の暇人に対する評価は厳しい。学生は部活動に励むべきだ、それが出来ぬならバイトで社会を知るべきだ。君は三年間を無為に過ごすつもりかね? なんつって。
(……そりゃあ、しんどいなあ)
日が暮れるまでの時間、その時間がやけに長く感じる。それでも、家に帰って母の声を聞くのが嫌で、だからといって学校に残って学校の声を聞くのも嫌で、中村はここでこうしている。その時間が長く、苦しい。けど。
(だって、嫌だろ)
否定されんのは、嫌だろう。
中村は両手を握り締めて、息を吐いた。
要するに、『良い思い出』にしておきたいのだ。サッカーをしていました、10番でした、司令塔でしたトップ下でした、シュンスケでした。そう言っていたいのだ。
白峰で部に入って、否定されるのが嫌だ。今までの自分は何だったんだ、なんて青春臭い台詞を吐く羽目になるのは嫌だ。
(……って、思うだろフツウ)
中村は鞄から今吉のボールを取り出した。学校からの帰り道、ここまで鞄がやけに重たかった。
ボールを手の平に転がす。縫い目が手の平の上でぞりぞりと痛かった。
むかつくなあ、ほんと。
(今吉も、俺も)
ボールを玩びながら、通りを眺める。額の汗を拭きながら早足で歩くリーマン。巻きすぎてキノコみたいな頭になってしまっているセレブっぽいミニスカ。アフロとドレッドの間の頭をした奴と、伊達眼鏡の二人づれ。
ふと、アフロと目が合った。眼鏡の口元が歪められる。
(うわあ何か……) 悪い予感がするんですけど?
二人がこちらに近づいてくる。逃げないと駄目だ。そう、思いはした。けれどどうしようどうしようと頭が考えるばかりで、体が動かない。どうしようどうしよう。頭が真っ白になるってのは、こういう事か。
「一人? だよね? ちょっとこっち来てくんないかなあ?」
眼鏡がにこにこと笑いながら中村の顔を覗き込む。香水の臭いがした。多分、ウルトラマリンだ。そう言えば中村のクラスの伊達眼鏡君も同じ香水をつけていた。
目を逸らすと、アフロがまあまあまあまあと笑いながら、中村の腕を掴んで立ち上がらせた。ビルとビルの間の、いかにもそれらしい所に連れ込まれる。青いポリバケツがいくつかあった。周りは、見て見ぬふりだ。ビルで影になったアスファルトに、砂埃で汚れた、萎びた黄色い花が咲いていた。
「その制服白峰だよね? 頭良いんだ?」
「すごいなー尊敬だ! 頭良くて坊ちゃんだし最高だ!」
「福沢諭吉さんだねえ」
「漱石だなあ」
持ってんだろ? とアフロが中村の肩に腕を回す。
嫌な予感ほど良く当たる、と言い出した人は偉大だと思った。
通りの喧騒を背中に感じる。切ないってこんな気分かなあ。
アフロが押さえて眼鏡が漁る。これがいつもの手なのだろう。手際が良かった。中村は、しゃがみ込んで中村の鞄を漁る、眼鏡の背中をぼんやりと見下ろした。
(まあ、ほんと漱石しかいないし)
福沢さんなんかいないしまあ良いか、と目を閉じる。財布も、アディダスのだし。ヴィトンとかのじゃないし。他に盗られて困るもんなんか無いし。
「っつーかさあ、漱石三人てどうなの。白峰なんじゃないのキミ」
眼鏡が立ち上がって、財布を投げ捨てた。
「まあ良いじゃん。って、あれ。お前野球部なの?」
アフロが中村の手からボールを奪う。
「白峰って強いの?」
「強い強い。野球部確か、シードだろ。あとテニ部とサッカーと」 ふうん、と眼鏡が楽しげに笑う。
「文武両道ってやつ?」
「うっわむかつく」
どうする? ぼこっちゃう? 野球部ホープ、潰しちゃう?
二人が顔を寄せ、小声で話し合う。
(いやいや俺は違いますから)
野球とかまともにやった事無いし。野球どころか、何も、まともにやった事無いし。
アフロの爪が黒く塗られた手に、今吉のボールが収まっている。何だか、公衆の面前でいちゃこらしてる不細工を見た時の気分だ。
「……せよ」
けどそいつの持ち主は違うから。毎日毎日あややと名づけた投球版に愛ぶつけてるような、イタイ奴だから。手え、ぼろぼろになるまでやっちゃうような、暑苦しい奴だから。爪割れて、それでも笑ってる、そんなだっさい奴だから。
(……ほんと、だっさいなあ)
どっちがだろうなあ。
とにかく、多分、俺とかお前らとかが、持ってちゃ駄目なんだろうなってのだから。
中村はぐっと手を握り締めた。爪が刺さって、じくじくと痛む。
「返せよ」
アフロと眼鏡が顔を合わせる。
「うわあどうしよう格好良いなあ」
「ボールは友達ってか?」
二人が腹を抱えて笑う。中村は側にあった青いポリバケツを蹴飛ばした。インサイドキックだ。ガラガラと派手な音をたててバケツが転がる。蹴ってから、安心した。中身が入ってなくて良かった。捨て猫とかがいたら切腹ものだ。
目を丸くしてバケツを見ている二人に、向き直る。
「うるせえよ眼鏡。ヨン様ヅラでもかぶっとけよ」
「は?」
「お前も」
と、アフロに指を突きつけた。
「頭部から陰毛生やしてツバサ君気取りかよツバサ君なめんなよ」
二人が顔を見合わせる。口元は笑っているが、目は伏せられている。さっきのような、馬鹿にした表情ではない。タコ殴り決定ですかね?
(うわあ、やだなあ……)
中村は突きつけた指を拳の中に一度戻し、それから手の平を上に向けて指を開いた。
「さっさと返せよ」
「……うわあ…………」
空が高いなああははとか、無理やり笑ってみた。切れた口の端が引き攣れて痛かった。舌で奥歯をつつくと、僅かに動いた。少年漫画で、殴られて奥歯を血と一緒に吐き出すシーンを思い浮かべた。お前やるなあ、お前もな。二人は手を握り合う。
(ありえねえってあれ……)
ビルの隙間に転がる中村を見て、通りを過ぎる人が笑う。見ないふりをする。相当に恥ずかしい存在になってしまっている。制服姿の女子高生たちに手を振ると、酔っ払いのオヤジでも見たかのような顔をして走り去ってしまった。傷ついた。中村は笑って、息を吐いた。
(……何だこれ)
俺も、持ってたのかよ。
(まいったなあ……)
体の横に転がるボールを横目で見る。僅かに血のついたそれを見ると、何だか笑えた。ボールの向こうに、萎びた花が見えた。中途半端な緑色をした葉の上を、小さな羽虫が這っていた。口の中がざらついて、グラウンドの砂の味がした。
風が吹いて、ボールがころりと転がった。花が揺れる。虫はまだ葉の上にいた。
笑う中村の右足の先に、ぼたりと白い何かが落ちてきた。見ると、夕日に焼けた空を鳩が飛んでいく。
畜生めが。
今吉は羽で俺は糞かよ畜生め。
「ん」
ぐい、と握った拳を今吉に突きつけた。今吉は戸惑いながらも、短く爪の切られた手を出す。手に置かれたボールを見て、うわあと目を輝かせた。
「見つけてくれたんだ? うああああありがとうなあ」
喜ぶ今吉を、中村は目を眇めて見た。
「俺、お前のそういうとこ嫌い」
「……へ?」
「おお、戻ってきたんだ? 良かったな今吉」
朝練後なのだろう、相模の襟足が汗で濡れていた。中村と目が合うと、何もかもを見透かしたように、目を細めた。
「えらくまあ、男前になったなあ?」
「ほっとけよ」
相模が自分の頬を指先で突いて笑う。腫れた頬が邪魔をして話しにくい。うろたえている今吉をおいて、中村は自分の席に戻った。椅子に座り、ファイルから用紙を取り出した。
中村駿介。サッカー部入部届けの名前の横に判を押す。
後ろから覗き込んだ今吉が、おおおと妙な声をあげた。今吉だけでなく、相模も後ろからひょいと中村の手元を覗き込んで、ふうんとおもしろそうに声をあげた。
「良いんだ?」
中村は首を曲げて後ろを見た。何となく見下ろされているのが嫌で、立ち上がる。
「だって、どうしようもねえもん」
やりたくないはずなのにさ。
相模が目を見張る。それからくっと、喉を引きつらせて、へえ? と馬鹿にしたように笑った。
「ああそうだ」
ボールについた血を不思議そうな顔で眺めている今吉に、相模が言う。こいつ、と親指で中村を示した。
「一発くらい殴っといたら?」
今吉が驚いた顔で中村を見る。
(余計な事言うなよ……)
言うだけ言って、相模は自分の席に戻っていった。中村は自分より上背のある今吉を上目遣いに見上げた。今吉はボールと、中村とを見比べている。
「……どういう事だよ」
笑うと、口の傷が痛んだ。
今吉の、眉をしかめた、厳しい表情が目の前にある。いつもの笑顔ではない。しきりにかさついた唇を舐めている。
お前なのか? お前が盗ったのか?
そう問おうとして、して良いものかと悩んでいる、疑う自分が嫌だ、そんな顔だ。
そうだ、それで良い。
もっと、お前の汚い顔が見たい。
おキレイなお前の顔は見飽きたんだ。
中村は掌を見た。
四つ、爪の痕が残っている。
その痕を、今吉が上から見下ろしている。ボールを持つのとは逆の手、左手を強く握り締めていた。
今吉の掌の肉を蝕む爪の感触が、こちらまで伝わってくるようだ。
もうきっと、中村の掌の傷は痛まない。これ以上増える事もない。
そう思って、小さく笑った。
視界の端に、白いB5の用紙と、今吉の強く握り締めた、血管の浮いた、赤く日に焼けた左手が見えた。皮が剥けていて、痛そうだ。
今吉の白い手の平に爪の痕が残るのを想像すると、中村の指先がちりりと熱くなった。