掌と爪の関係
何回転んだって良いだとか言われますが。転んで立ち上がって人は大きくなるのだと言われますが。そんで、傷つく勇気を持て、などと言われますが残念ながらそんなもん。
「ありませんから!」
残念ッ! と勢いよく、中村は教科書とノートの束を机に押し戻した。
マジでか! と隣で今吉が坊主頭を抱えてしゃがみ込んだ。
一時間目終了後の休憩時間だ。チャイムが鳴って即行、今吉が中村の所にすっ飛んできた。いわく、英語のノートを貸してくれ。三時間目の英語の課題をしてくるのを忘れたのだと言う。
隣でしゃがんでいる今吉がゆっくりと立ち上がった。机に置かれた特売で買った大学ノートを、半眼でじっとりと見つめて言う。
「お前……、それ英語のノートじゃねえの?」
「まさしく」
「貸してくれよ」
「あややにうつつを抜かしていた輩の言葉など聞く耳持たん」
「良いじゃん貸してくれよ。今度矢口の写真集貸すからさあ」
「ハロプロに興味は無い」
「キャブ派?」
「アナ派だ」
アナかあアナも良いなあ、と今吉は日に焼けた顔を緩めた。たれた目がいっそうたれ下がって、糸のようだ。緩まりながらも、右手で中村のノートを催促するのは忘れない。中村はため息をつき、タコで固くなった今吉の手の平に、パシンとノートを叩きつけた。
「サンクスモニカ」
「悪い元ネタが分からん」
隣の席に座ってノートを写し始める(しかも中村のシャーペンをちゃっかり奪って)今吉の座る椅子を、中村は蹴りあげた。
今から三ヶ月ほど前、私立白峰学園高等部の入学式。真新しい白い学ランに身を包み、緊張して迎えたあの日を中村は一生忘れられないだろうと思う。
中村駿介。
点呼され、返事をし、立ち上がった。多少は予想していたが、やはり講堂の空気がざわめいた。大勢の人間だけが起こせる、あの独特の嫌な空気のざわめきが起こったのは、中村が点呼された時と、宇治山田太郎君が点呼された時だけだった。ちなみに宇治山田君は囲碁部のホープだ。
それだけならまだ良い。問題はその後、教室で、だ。
ねえねえ中村君てサッカーやってたの? うんまぁね。 きゃあすっごぉい、ねえねえポジションどこなの? やっぱシュンスケだけに真ん中の真ん中? うんまぁね。
女の子に囲まれて、やっべえ俺人気者? とか舞い上がれたのも束の間だ。舞い上がって即行、墜落した。
でもお前んとこの学校、県体の二回戦でおれらに負けたよなあ? だよなあシュンスケのくせにフリーキック下手くそだったしなあ?
なあシュンスケ君? と、教室の後ろで溜まっていたサッカー部集団に揶揄された。大会で見た顔だった。ロッカーの上に座っている癖のない真黒い髪をした男は、中村と同じポジションだった。白峰の白いユニフォームの背に10番を背負い、正確な指示を飛ばしていたのを覚えている。確か、相模とかいう名前だ。
中三の夏の大会。中村の学校は白峰に負けた。5―0。白峰の一軍相手に五点で押さえられた、良くやった、と監督は慰めてくださった。
ええうっそお中村君て下手なんだあ。えぇ〜、面白くないのお。
シュンスケ君はうちのサッカー部には入らないんですかあ? まあ入っても三軍だろうけどねえ。
なあシュンスケ君?
墜落。
これくらいで落ち込んでんなよ、一生忘れられないって大げさだろ、って言われるかもしれない。
(けどやっぱなあ)
思春期の心は複雑なのですよう。
中村は机に突っ伏した。今吉は写すのに夢中で、暇だ。僅かに湿った机は、鉛筆と木の臭いがする。目を閉じると、教室のざわめきが一段と大きく聞こえた。
ねえ昨日のうたばん見た?
あややあんまし好きくないし。
もう英語宿題多すぎ!
タカコと吉田君つき合ってるんだって!
昨日飯田リンチくらったってな。
ああ、あいつ一軍控えに上がったから。
ああ女の子の声って可愛いなあ。なんて思えたのも僅かな時間だけだった。教室の後ろの辺りから聞こえてきた声に、中村のテンションは一気に下がる。ああサッカー部殿キミ達は何て物騒な話を。
……リンチ。
(リンチねえ……)
自分のいた中学では聞きなれない言葉だ。白峰では、まあそう珍しい事でもないのだろう。後ろに溜まった連中を盗み見ると、頬だの手の甲だの、擦り傷まみれだ。リンチにはあわずとも、練習中のあたりはきついのだろう。
白峰のサッカー部は、強い。全国レベルだ。運動部寮すらある程の強豪だ。
俺らは何だ! 王者白峰! 潰すぞ! おう!
試合前、控え室から聞こえてきたその掛け声に、圧倒された。
中学では一軍だった彼らも、高校になって二軍に落ちたらしい。中村は溜息をついた。
だって、あんな強い奴らでさえ二軍だぜ?
俺とか絶対三軍じゃん。
シュンスケなのに。
馬鹿にされるに決まってんじゃん。
シュンスケのくせにって。
そんなんやだもーん。傷つくのやだもーん。恥かくのやだもーん。どうせ現代っ子だもーん。もーん。
(うわあ俺キモイ)
体を起こして隣を見る。ちょうど今吉がノートを写し終わったところだった。差し出されたノートを受け取る。
「ほいよ、サンキュ。お前相変わらず字汚いなあ」
「お前は相変わらず顔が汚いなあ」
「失敬な。これでもこの前ラブレター貰ったんだぞ」
「うっそマジでか!」
「マジだ。吉田君に渡して、って」
「ダメじゃん!」
いやいやあれはぬか喜んだなあ、オフサイドなみにぬか喜んだなあ、と今吉は目を伏せて笑う。乾いた笑い、とはコレかと納得した。ちなみに吉田君とは今吉の女房だ。吉田君がピッチャーやれば良いのに、と言われる程には、男前だ。
「まあ頑張れ。どうにもならんほど、不細工ではない」
「お前もな。俺はシュンスケよりお前の顔の方が好きだ」
「え、キモい、バカ? 俺ピュアな体のままでいたい」
「俺もだから。心底、俺もだから」
中村はあははと白々しく笑いながら、項垂れた今吉の頭をじょりじょりと撫でてやった。
まあ、自分の顔を褒められてそうそう悪い気はしない。短い黒い髪も、ツリ目なのも、小さい頃から、嫌いじゃない。顔はともかく、何で真ん中選んだんだよ、と昔の自分に言ってやりたくなりはするが。
項垂れる今吉を見てしかしまあ、と思う。
何でこいつは面と向かって好きとか言えるのかね? 何でハロプロ好きだとか言ってまわれるのかね?
何で野球大好きっ子ですって、そんなにアピれちゃうのかね?
(ハズいとか体面とか、考えねえの?)
中村は、今吉の白ズボ(白いズボンの略。ちなみに白い学ランは略して白ラン)の右ポケットを見た。そこに、薄汚れた硬球が入っているのを知っている。夏服になる前は、白ランの右ポケットに入っていた。授業中だとかに、ポケットに手を突っ込んでもそもそと動かしているのを何度も見た。聞くと、早く硬球に慣れたいんだ、と笑った。目尻に皺をよせて、頬骨の辺りを赤くして笑った。笑ったその顔を、殴ってやりたいと思った事を覚えている。握り締めた拳を開けば、爪の痕がくっきりと四つ、残っていた。
チャイムが鳴る。今吉が右ポケットから飴玉を取り出して、中村の机に置いた。
「お礼。梅味平気?」
頷くと、目尻を下げて笑った。
殴りてえ。そう思った。
五時間目の体育は、サッカーだった。とりあえず、中村のクラスのサッカー部連中は、おモテになっていた。
きゃあ、相模君格好良い〜! どうしようどうしよう惚れちゃいそう!
それに比べて中村君は。
(とか思われてたんだろなあ)
むーんと唸りながら、教室の鍵を扉に差し込んだ。体育の時の教室の戸締りだとか、準備体操を皆の前に出てやったりだとか、体育委員なんて面倒な仕事ばかりだ。ジャンケンで負けた自分が憎い。
他の者より先に、大急ぎで教室に戻ってきた中村が扉を開けると、何とも形容し難い空気が漂ってきた。白峰では、体育は四クラス合同で行う。更衣は各教室で行い、一、二組が女子、三、四組が男子、といった具合だ。
中村は三組、男子の着替えクラスだ。
(何とも言えねえなあ……)
しょっぱいと言うか酸っぱいと言うか。
電気をつけ、中に入る。窓を開けてカーテンを閉めた。
体操着を脱いで、カッターシャツを羽織る。ボタンを留めながら、さっきの時間を中村は思い出した。何というか、サッカーの技術だけでなく、その他いろいろ負けた気がして、何だか苦しかった。
やはりおモテになりますなあ相模君?
ああ? 違うだろおれがモテてんじゃなくて、白峰のブランドがモテてんだろ。
(あーあ)
情けねえの、俺。嫌味すら負けてる。
カッターシャツのボタンを数個外し肌蹴たまま、ジャージの下を脱ぎ、ズボンを履いた。体中に制汗スプレーを振り掛ける。
汗ばんだ体が気持ち悪い。座りたくなくて、立ったまま下敷きで扇ぐ。空調のボタンは、教師しか触ってはいけない決まりだ。
中村は汗を拭いたタオルを首に巻き、ズボンを膝下まで捲り上げて座った。教室には誰もいない。帰ってくる気配もしない。じよじよと蝉の鳴く声が教室に響く。カーテンが風でなびくたび、その声が大きく聞こえた。
(あ゛―、毟りとりてえ)
蝉の声に混じって、まだ授業中の他のクラスの声が聞こえる。多分、英語のリスニングの授業だ。音楽室からリコーダーの音が聞こえる。高校生にもなってリコーダーってどうなのそれ、うわあ俺美術選択で良かった。中村は一人笑った。
風になびいたカーテンの向こうから、小さな、柔そうな、薄灰色をした鳥の羽が入りこんできた。
それはふわふわと舞って、廊下側の、机の上に落ちた。
一番廊下側の列の、前から三番目。今吉の席だ。
中央の列の一番後ろにある中村の席から、斜めの位置にある。授業中は人で見えないが、今はよく見えた。
今吉のカッターシャツはきちんと畳まれ、机の上に置かれていた。ズボンも二つに折りたたまれ、椅子の背に掛けられている。その白ズボのポケットが膨らんでいた。 中村は立ち上がり、今吉の席に近づいた。
ズボンに手を突っ込み、薄汚れた硬球を手に取る。思いの他に重たくて驚いた。人差指と中指の間に挟みこんでみる。指の付け根がギリギリと痛んだ。何度か手首を使って、上にほおり投げてみる。手の平に戻ってくるたびパシンと軽い音をたて、痕の残る手の平に、重く痛んだ。
声が聞こえた。複数、こちらに向かってくる。その中に今吉の声は無い。
中村は、今吉のズボンを畳みなおし、ポケットに硬球を仕舞った。
あっちいマジ暑い! 隣のクラスの男たちだ。入ってくるなり、何でクーラーつけねえの、といった苛立たしげな視線で見られた。
(いやいやそうは言われましても)
それを皮切りに、どやどやと声が増えた。
前の、後ろの扉からなだれこんでくる。皆体操着をまくりあげて顔の汗を拭きながら、手扇で風を顔に送っていた。
今吉が、後ろの扉から入ってくるのが見えた。
中村は、入り込んできた鳥の羽を摘み、教壇の横のゴミ箱に捨てた。青い方が燃えるゴミ、黒い方が燃えないゴミだ。
ボールは、どっちだろう。
「……あれ?」
今吉が上擦った大きな声をあげる。
「なあ、俺のボール知らねえ?」
今吉の坊主頭が忙しなく辺りを見回す。あっれおかしいなあとぶつぶつ呟きながら、しゃがんだり、ズボンをはためかせたりしている。日に焼けた顔の、垂れた目が不安で揺れていた。
「なあ、誰か知らねえ?」
知らねえよー。
えー、パクられたんじゃね?
誰が盗むよあんなもん。
クラスメイトの、どうでも良さげな、むしろ迷惑気な声が返ってくる。
「なあ中村、お前知らねえ?」
知らねえよ、とポケットに手を突っ込みながら中村は返した。自分の席にゆっくりと戻る。っかしいなあ、と今吉がぼやいた。
なあ、お前分かってんの?
みんなにウザがられてんぞ? ボールとかどうでも良いじゃんって、暑苦しいんだよって思われてんぞ?
「なあおい今吉」
ゴミ箱を覗き込んでいる今吉の背中に、相模が声をかけた。
「俺、今日掃除当番だから見といてやるよ。そこらへんに落ちてるかもしんねえし」
頼むよ、アレが良いんだよ、と今吉が情けない声をだした。
中村は、自分の机の横に引っ掛けられた指定鞄のファスナーを急いで閉めた。席に座って顔を上げると、相模と目が合った。
掌に爪が刺さる。