ベンチウォーマーキャプテン 2
笛が鳴る。
延長戦開始だ。選手がピッチに散らばっていく。観客席から声援が溢れ出す。
俺は冷えて痛む膝をさすった。
負けてしまえば良いのに。
だって負ければ渡辺はヒーローじゃなくなる。『惜敗の王者・白峰を勝利に導く期待のエース』じゃなくなる。
歓声と悲鳴が入り混じった。
白峰の自陣奥深くまで相手FW入り込んできた。イエローギリギリラインのスライディングで止める。落胆の声。
こぼれたボールをキーパーがクリアした。中堅に落ちたボールはもたつき、自軍が奪った。俺の足がびくりと痙攣した。自軍ボランチが前線にボールを送る。
(遅い)
ボールは上がってきていた渡辺の一歩手前に落下した。渡辺はたたらを踏んで停止する。拾ったボールをワントラップでシュートする。
(……焦んなよ)
お前らしくない。
ポールに当たったボールは派手な音を立てて跳ね返った。相手キーパーが慌ててクリアする。渡辺はぐるりと首を回し、中堅へゆっくり足を運んだ。
俺は膝を支えに肘をつき身を乗り出していた。掌が汗ばんでいる。もし点が取れなかったらPKだ。PKになれば勝利はもはや運だ。
自軍右ウイングはだいぶと後退している。すでにDFの役割をこなしている事が多い。押されているのだ。動きは精彩を欠き顔にも疲れがありありと見える。
「さがるな! あがれ!!」
渡辺が腕をふって叫ぶ。渡辺が声を荒げるなんて珍しい。腕にはキャプテンマークが巻かれていた。
その手で、どんと胸を叩く。胸には白峰の刺繍だ。
ウインドブレーカーの上から胸元を押さえた。ぐっと拳を握る。
そうだ、俺たちは白峰だ。王者白峰だ。こんなところで負けて良いはずがない。
なのに、終わってしまうのか? ここで。
俺の高校サッカーはこれで終わりなのか? ベンチでくさくさ言って、ピッチにあがれないまま、それでお終いか?
相手が自陣に攻め入ってきた。DFの壁をすり抜け、シュートを放つ。
運良くキーパー正面だった。キーパーがボールを蹴ると同時、俺も強張った体から力を抜いた。
キーパーからのボールを受け、味方10番がドリブルで攻め込む。目の前に相手DFが張り付く。二人に張り付かれ、10番はヒールで背後にボールを返した。
それを受けた左ウイングがサイドを切り替える。
だが、疲れた右ウイングは追いつけず、ボールは相手に渡ってしまった。素早いパス回しで相手は攻めあがってくる。
(俺を出せ)
俺なら追いつけた。びくりと腿の筋肉が痙攣する。
(俺を使え)
ピッチに出たい。
試合に出たい。
ベンチで終わってたまるか。
ここで、渡辺の背を見てるだけで終わってたまるか。
せめて、同じ舞台で終わらさせてくれ。
俺はウインドブレーカーを脱ぎ捨てた。何の指示も出されていないのにアップを始めたスタメン落ちのキャプテンを、後輩が不審げな顔で見ている。
勝ちたい。
負けたくないじゃなくて、勝ちたいんだ。
白峰のユニフォームを着てする最後の試合は、決勝だと決めている。
勝ちたい。
(使え)
俺を使え。
ベンチで、もしかしたら最後の試合を向えるなんて嫌だ。
ピッチの熱気を吸いたい。
俺を出せ。
俺を使え。
準備体操。腿あげ。ダッシュ。何度も繰り返す。
監督がちらりとこちらを見た。
ピィッと短く笛が鳴った。自軍右ウイングが倒された。
のろりとした動作で立ち上がる。フリーキックは勢いが無かった。
渡辺のヘッドにあげられたそれは相手DFに阻まれた。
渡辺が倒れる。即座に立ち上がる。あいつは勝つ気でいる。
監督と目が合った。テーピングされた俺の膝を見る。一度目を伏せ、顔を見た。
「朝日」
「はい」
「いけるか」
「もちろん」
言って踵をぱしんと叩いた。膝の痛みは気にならない。
体が熱い。
かき回してきてやる。膝を壊すまで、俺はチームで一番の俊足だった。
監督が交代を告げる。戻ってきた右ウイングとハイタッチをかわす。
何故だか渡辺もこちらに来た。俺の腕にキャプテンマークを巻きつける。
「頼むぞキャプテン?」
にやりと渡辺が笑った。
「負け試合でキャプテンマークつけたくねえって?」
腕のそれを見やり、俺はふんと鼻を鳴らす。
「ばか者が」
どん、と拳で胸元を突かれた。白峰のマークのある位置だ。
「ファンタジスタにはひとりじゃなれない」
「……引き立て役がいないと?」
皮肉を言ってやると、小憎たらしい奴だと頬を平手で殴られた。
ピッチへと駆ける。
足の裏に芝の感触。
俺の背番号は7。
「お前らさがんな! 攻めろ!」
叫んだ。
咽がひりつく。
ピッチの熱気が体に染み渡る。
俺から10番を奪った後輩と目が合った。顎で前方を示す。
頼むぜ、ゲームメーカー。お前がそんな後ろにさがってどうすんだ。
スローインでゲーム再開。敵は自陣の置く深くでボールを緩く回している。
PK狙いってか?
(なめんなよ)
ぐっと、足の裏に力を込める。力が体に伝わる。爪先から脹脛へ、腿から腹へ。
そして心臓へ。
敵陣に斬り込んだ。他の連中と違って自分はまだ疲れていない。ボールを奪うのは俺の役目だ。
ぐるぐると回されるボールを、執拗に追った。渡辺は機会を待って目を光らせている。
じりじりと自軍があがってきている。俺はパスをスライディングでカットした。すぐ立ち上がり、10番に回す。
右サイドへ駆けた。渡辺があがる。10番からのパスを胸で受け、渡辺へとクロスをあげた。
ぴたりと渡辺のヘッドに合ったボールは、相手のゴールに吸い込まれた。
と、思った。
だが相手キーパーの動きの方が一瞬早かった。
パンチングで弾かれた。渡辺は勢いそのままに転んだ。
こぼれたボールを相手DFが大きく敵陣へ送る。つまりは白峰のゴール側へ。
前線にあがってきていた白峰は動作が遅れた。相手FWが空いたスペースへ攻める。
俺はサイドを駆け上がっていた。腕を大きく振る。足を大きく踏み出す。
間に合え。
間に合うはずだ。
だって俺は白峰のキャプテンなんだぜ?
相手FWの放ったシュートはポールに弾かれた。だがシュートを防ごうとキーパーは前に出ていた。こぼれたボールを押し込もうと相手FWは足を振りぬく。
悲鳴と歓声が入り乱れた。
俺はゴールに飛び込んだ。
衝撃が背中に伝わる。
緑と茶色が目の前にあった。飛び込んだ時に擦りむいた掌が痛い。背中も痛い。
痛みを噛み殺して起き上がる。ボールはすぐ側にあった。
白峰は自陣へとさがってきていた。だが、前線に残ったままの者がいた。
渡辺だ。
にやりと笑い、ドリブルで駆け上がる。
壁が二枚張り付いた。足を止める。相手も腰を低くして動きを止める。
ヒールでボールを少しさげ、軸足を代える。視線を左に流す。
壁の視線が同じほうへ流れる。それを確認し、俺は反対側へとボールを蹴った。
ボールは壁の横を抜けた。
もう一枚の壁が追いかけてきた。
(追いつけるもんなら追いついてみろよ)
更に加速する。
相手の壁は崩れている。オフサイドは取られない。
渡辺が走りこんできている。
(ファンタジスタにはひとりじゃなれないって?)
確か同じセリフをずっと前にも聞いた。
ずいぶん前になるだろう。中学の時、渡辺が入学早々一軍にあがった頃。先輩達のリンチをくらい、ぼろぼろになって渡辺は部屋に帰ってきた。
ベルトでびしばしやられたのだろう。渡辺の背中は赤く腫れていた。やだSMーと茶化しながら、俺は何故だか泣きながら渡辺の背に消毒液を吹きかけた。
痛みと悔しさで濡れた目で、渡辺は首をこちらに曲げて言った。先程聞いた、同じセリフを。
渡辺と目が合った。
(まかせろよ、クソ野郎)
白峰卒業後、渡辺は進路が決まっている。Jのチームと契約済みだ。
俺はスポーツ推薦での大学進学が決まっている。Jからの誘いもあったが、親の希望もあって大学へ進む事になった。
低めのクロスをあげた。
膝が痛い。背中も痛い。次の試合は出してくれないかもしれない。渡辺とピッチに立てるのはこれで最後かもしれない。
この先、あいつの立つ舞台に自分が追いつく事は無いだろう。渡辺の背は、自分の視界から完璧に消えてしまうだろう。
けれど今は。
(俺が、お前をファンタジスタにしてやるよ)
俺があげたクロスを、渡辺はダイレクトでシュートに持ち込んだ。
渡辺の背がしなる。
焦がれた、ナンバー9。
渡辺の足からボールが離れる。
きっと入る。
勝てる。
俺があげたクロスのおかげで。
サドの神様お願いです。
追いかけようなんて、思わせないで下さい。
追いつけるかもしれないなんて、思わせないで下さい。
どうかこいつが俺の側から消えてくれますように。
追いついてやるなんてバカなこと、どうかどうか、もう、考えませんように。
苦しいだけだから。
ボールは、ゴールへと吸い込まれた。
歓声が沸く。
笛が鳴る。
(……試合終了、だ)
……さっさと、俺の前から消えちまえ。
Jでも世界でもどこにでも行っちまえ。
もみくちゃにされる渡辺を遠目に、俺は、静かに笑った。