銀色と黄金宮
序
ふいに窓が揺れた。
身を横たえた寝台もわずかに揺れている。
みづ穂は慌てて身を起こした。タオルケットをはねのける。
揺れる窓を開け、身を乗りだす。向かいのアパートも隣のアパートも次々に窓が開き、住民が顔を覗かせた。どの顔も皆不安げである。
また咆哮が聞こえた。びりびりと大地が揺れる。途端に顔は引っ込んだ。
みづ穂は寝巻きのまま銃を手に取り、部屋を飛び出した。
咆哮の聞こえた方へと急ぐ。しんと静まった夜の町にみづ穂の足音が高く響いた。
呼吸を落ち着け、息を潜めて辺りを窺う。緊張に汗が滲んだ。
昼間は屋台が立ち並ぶ活気付いた界隈である。だが今はその面影はなかった。ただただ静かなばかりである。風に舞った木の葉が足元でかさりと音を立てた。
その静けさの中に、何かを食む音がした。みづ穂は唇を噛みしめた。
赤レンガが敷き詰められた通りに、ごろりと何かが転がった。
首だ。息を飲んだ。
引き金に指をかける。首が転がって来た方へと足を向けた。
立ち込める血の臭い、そして血の跡。
角から影が覗いている。尾だ。唸り声も聞こえる。
生暖かい風が頬を撫でる。木が揺れる。ざわりと鳴った。
溜まった唾液を飲み込む。そちらへと銃を構え一歩踏み出した。足音を立てないように慎重に一歩ずつ歩を進める。
足裏に何かを踏む感触がした。同時に、ぱきりと小枝が折れる音がした。影が動きをとめる。みづ穂は小さく舌を打った。
数瞬後、影が体の向きを変えた。こちらに向かってくる。足音が近づく。銃を構えた。
影の主が角から現れる。
巨大な銀の獅子だ。鬣も体毛も瞳も爪も牙も、全てに銀を宿している。最近ここ一帯で暴れている妖獣だ。種族は分からない。銀獅子と通称されている。
銀獅子が吼える。紅い口腔が見えた。牙に絡む黒い糸状のものは被害者の髪か。
ざわりと肌が震えた。緊張と恐怖。そして高揚。みづ穂は乾いた唇を舌で湿し、引き金に指をかけた。
咆哮と共に銀獅子が地面を蹴る。みづ穂は引き金を引いた。
弾丸は銀獅子の前足に命中した。ギャアと鳴いて銀獅子は後ろへ下がる。続けて撃とうと狙いを定めた時だ。
「座標軸西二百六十五・北六十三! 天にまします我らが慈母よ! 妙なる御身の慈悲を我らに!」
背後からの声と共に、銀獅子とみづ穂の間に、局地的な豪雨が発生した。
「……な、何?」
少年だ。自分とさほど年は変わらないだろう。全身黒づくめの格好をしている。夜灯りでは造作は分からないが、それでも彼の金の髪は目立った。
彼の髪の美しさに目を奪われていたみづ穂は、はっと息を飲んで振り向いた。豪雨の向こうに、もう銀獅子の姿は無い。
「あんた誰……?」
せっかくの獲物を逃してしまった。みづ穂は剣呑な声で彼に詰め寄った。彼はびくりと肩を揺らし、じりじりと後ろへ下がる。
「ご……っ、ご…………」
「ご?」
「ご……、……っごめんなさいいぃぃぃ!」
「あっ、ちょっと! 待ちなさいよ!」
すさまじい勢いで逃げていく彼を慌てて追いかける。だが彼を追って角を曲がった時にはもう、彼の姿は見えなかった。
ざあざあ鳴っていた雨がぴたりと止んだ。部分的に溜まっていた水が、レンガの合わせ目に沿って流れてくる。足元に流れてきた水を蹴り上げ、みづ穂はぼやいた。
「もう……っ。何なのよいったい……」
肩まで伸びた黒髪をかきあげる。雨のおかげで僅かに湿っていた。
水溜りの向こうに倒れ伏している被害者に瞑目し、みづ穂は警察を呼ぶために踵を返した。
大陸を南北に走る
飛山脈の西側を
東側を
大陸史書が編纂される以前より、この二つの国は相互不可侵を暗黙の了解として、平和な時が流れていた。
だがある日の事だ。
備昇暦にして五二三年、当時の首相
丸十年続いたこの戦争を、片平家の家紋が獅子の形をしていたことにより、獅子戦争と呼ぶ。
この時、片平は『神』を造った。斐茜王国を攻める口実として、備昇国の神話に存在する双子神の存在を利用しようと考えたのだ。
片平曰く、こうだ。
『皆も知るところだろうが、我ら備昇国の双子神は太古の昔、斐茜王国に住まわれていた。だがしかし神は斐茜の王に追われ、我らが備昇国へと逃れてきた。神は故郷へ帰ることを希っている。神の要望を満たせば神は我らに豊饒を与えてくれる』
造った『神』に演説もさせた。
『神』は人の姿にも獣の姿にも自在に変幻した。
『神』は恐怖もなく死にもしなかった。だからこその神だった。
人々は神の偶像である『神』をあがめた。
『神』は最前線に配置された。人心は『神』を筆頭にまとまり、好戦気分が高まった。
だが結局、統一は失敗し、斐茜王からの申し出により講和がなされた。片平は一連の責任を取って辞職。翌年自ら命を絶った。
この『神』を造ったのは、国内トップの機械技術を持つ『
『宗義』は取り潰すべきだという意見もあったが、『宗義』の機械技術を無くすのは惜しいと、新政府の監視の下『宗義』は生き残った。
当時の研究資料は没収、破棄された。そのため、現在よりも当時の技術が上回る、という結果になっている。
その後『神』はスクラップされたとも放逐されたとも聞き、真相はうかがい知れない。
獅子戦争から四十六年。戦争の傷痕などどこにも見あたらないほどに備昇は復興・発展した。斐茜王国との関係も良好だ。
穏やかに時は流れていた。平和の流れは滞る事無く……。