皇紀630年 菜の月 黄昏時
ひとつ 雛罌粟 昼間の丘で
ふたつ 芙蓉は 吹きさらす
みっつ 水引き 三日月藪は
よっつ 嫁菜に 呼ばれたが
いつつ 無花果 往き生きた
むっつ 椋の木 むべむべし
ななつ 菜の花 七重の難を
やっつ 山百合 野狐が食い
ここのつ 駒草 胡鬼の子は
とお の 当帰 灯火に訪う
どこからか数え歌が聞こえてくる。若い男の声だ。伸びやかな声音は、僅かに酒気を帯びているらしい。
厩に在った又佐は、それを疎ましく思いながら聞いていた。こちらは必死で痛みに耐えているというのに、呑気なものだ。
今日もまた追われた。
鬼だ、鬼が出た。と、追いまわされて射かけられた。いつもと変わらぬ事だった。
膿み始めた腕が熱かった。どうやら鏃が中に残っているようだ。抉り出そうと思ったが、何だか面倒になってやめてしまった。
このまま腕から腐って死んでいくのも良いかもしれない。又佐はそんな風に思っていた。
又佐は熱い息を吐いて、馬の首に腕を回した。馬はヒンと鼻を鳴らして、又佐に鼻面を摺り寄せてくる。
又佐を厭わずにいてくれるのは獣ばかりだ。人は皆、又佐を鬼と罵って礫を投げる。
それもこれも、この青い目と赤い髪の所為だ。
己の姿が皇国の民と異なっている事を知ったのは、親であった狼が死んだ時だ。
美しい灰色の毛皮を持った雄だった。片方の耳は千切れ、目元にも大きな傷痕があった。
その強面を又佐は誇りに思っていた。強くて力強い父親を、又佐はとても好いていた。
だが父親は人に殺された。餌を狩りに行って、矢の雨に降られて死んだのだ。又佐を護った所為だった。
鬼の子だ。鬼の子がいる。そう言って、人々は又佐に矢を放った。その矢から、父親は又佐を護ってくれたのだ。
その時初めて、己は『人』ではないのだと知った。この目と髪の所為で、『人』は又佐を鬼と呼ぶ。
又佐は己が人である事は知っていた。今よりもずっと幼い頃、又佐と呼ぶ女がいた事も覚えている。その女は又佐を捨てた女でもあったが、思い出せば妙に懐かしく、胸が苦しくなった。
だから己を拾った父は、獣として異端であることも分かっていた。人の子を拾い育てる狼が、どれだけ異端であるのかも。
決して名を呼んではくれぬ父だった。又佐と父親にそう呼ぶように言っても彼はただ鳴き声を上げるだけだった。
そう呼んでくれる人を――いや、人でなくても良い、何だって良い、又佐は己の名を呼んでくれる相手を欲していた。
ふいに蘇る、己の名を呼ぶ女の声。その声は日に日に遠ざかり、小さくなる。このままでは忘れてしまいそうで、それは何だか嫌だった。
だから、呼んでほしかった。己の声以外で、又佐と。誰かに。
数え歌が近い。
と、ふいに歌声が止んだ。ざくざくと足音を立てて、歌声の主であろう男は又佐のいる厩へと向かってくる。
又佐は逃げようかと思ったが、やめた。やはり面倒に思ったのだった。
男は小柄を、又佐に向かって投げつけた。己を過ぎ秣に埋もれる小柄に、又佐はしなびた視線をちらりと送る。
男は馬にしがみいたまま又佐の姿を見て、いかにもつまらないといった顔でフンと鼻を鳴らした。
「人馬を喰らう鬼の子がいると聞いたのだがな」
つまらん、と男は膨れ面でそっぽを向く。
妙な男だった。派手な柄物の袷をだらしなく着付けて、黒漆太刀を腰に佩いている。
背後には男が二人控えていた。虎鬚の男と、大柄でむくつけしい男だ。
「鬼ならば、喰らいつくが良かろうに。いつもしていることであろう?」
「……俺ではない」
はた、と男は目を瞠る。
「ぬしは喋れるのか!」
楽しげな声音が苛立たしかった。
人馬を喰らう、と言われているが、又佐はそのような事をした事は一度足りとてない。又佐はただ逃げるばかりだ。
だから、ここ最近辺境を騒がす人斬りも、又佐の仕業ではない。人々は又佐の仕業と決め付けて、追い回してくるけれど。
男はニィと唇を曲げて、又佐を見おろした。
「ぬしの仕業ではない事は知っている。あれは秀元のしたことよ」
見れば、男の袂は濡れている。どうやら血であるようだ。そういえば、嗅ぎなれた臭気を放っていることに、又佐は今更に気がついた。
「今も十ほど狩ってきたばかりよ。だが、どいつもこいつもつまらん奴ばかりよな」
「……何故」
「ハ、鬼の子が何故と問うか!」
男は腹を抱えて笑った。
「何故か分からぬか? ぬしもまた、秀元と同じ鬼であろうに」
「俺は、鬼ではない」
人の子だ。
「俺を鬼にしたのは、貴様ら人だ」
「人」
男は繰り返し、そして弾けるように笑った。
「人! 鬼の子がこの秀元を人と呼ぶか! 聞いたか虎! 熊、ぬしも聞いたか!」
笑い声をあげ、男は背後の二人の肩をばんばんと叩く。二人はやや迷惑そうな顔をしていた。
「秀元を人と呼んだは、ぬしが初めてぞ。のう、鬼の子よ」
「……っ俺は鬼ではない!」
又佐は堪らず、男に飛びかかった。男は薄く笑うばかりで逃げようともしない。
男の前に、虎鬚の男が立ちふさがった。又佐は虎鬚の脛に歯を立てる。
ぐわっと虎鬚が喚いた。口の中に血の味が広がる。塩辛いような、鉄臭いような。
体が熱かった。傷の痛みの所為ではない。ふわふわと、まるで浮いているような心地だ。
歯を食い込ませ、ひたすらに啜る。魂が震えている。酩酊感が快かった。
急に、視界が揺れた。頭を蹴られたのだと、地に伏してようやく知る。
「鬼ではない、か?」
又佐は口周りについた血を舐め取った。一滴も逃すまいと思っていた。
もっと、と胸が騒いでいる。初めての感覚だった。押えがきかない。
又佐は己を蹴りつけた男に飛びかかる。足に取りつき、歯を立てた。
又佐を引き剥がそうと、熊と呼ばれた男が前に出る。それを下がらせ、男は笑った。
「美味であろうよ」
又佐は夢中でしゃぶった。もっと欲しくて、男を見上げる。首を断てば血潮は溢れると、又佐は知っていた。
「まだくれてやらんよ」
己の首を示しながら、男は又佐の顔を踏みつけた。
「秀元はまだ狩り足りぬ。まだ、この首は渡すまい」
しかし、と男は言葉を切った。
「時がくれば秀元の首、ぬしにくれてやろう。だが、ぬしの首も秀元に寄こせよ。人の首では、満足できぬでな」
語尾には含み笑いがまざっていた。満足できぬ、と男が言ったその意味を、又佐は浴びる血を以てして理解していた。
きっとこの先何人喰らおうとも、己が心から満足する事はないだろう。己を踏みつけ見おろす男を見上げ、又佐は思う。
男は又佐の顔を草履の裏でにじった。こちらを見やる冷ややかな黒い眼が孕む熱に、又佐の声鳴き声が吼え猛る。
「それまではぬしの魂、この秀元が愛でてやろうぞ」
のう、鬼よ。
男の背後に、凄絶なまでに澄んだ三日月が覗いていた。その下に広がるのは、あたり一面を覆い尽くす菜の花だ。
- ←皇紀648年 桜の月 明け方In die hohle Hand Verlangen, →皇紀648年 菜の月 黄昏時Sel'ge Liebe auf den Mund,
- 戻
- Franz Grillparzer "Kus"(1819)